目下の泥濘【6】
織田作が二階へ駆け上がると、廊下になまえがへたりこんでいた。
「なまえ!」
駆け寄って名を呼ぶが、返事がない。その瞳は、開いた扉の向こうをぼんやりと見つめている。
「どうした、おい、なまえ!」
「…、ぁ、おだ、さく…、」
肩を掴み、揺らす。こちらに気づいたようで、なまえがゆっくりと振り返る。掠れた声で、織田作の名を呼ぶ。
「おう、さまが…、わたしは…、わたしが、…呼んでいない、呼んで、いなかったんだ…」
部屋の中を指すなまえの指先を、目で追う。
「…!」
王様がいた。
織田作は初めて見る、なまえの異能。
王様は、その細長い手で少年たちを掴んでいた。ひとりは逆さに吊られて泣いている。ひとりは腕を掴まれ、吊られている。部屋の奥では、他の子供たちが寄り添い、目の前の光景にただただ怯え、泣いていた。
それを見て、織田作の背筋がぞわりと粟立った。
もし。
あれが、その手を一閃させ、
窓へ、
彼らを投げたり、したら。
壁へ、
思いきり、叩きつけたとしたら。
「なまえ!!!」
落ち着いた声音からは程遠い。その怒号にも似た声に、なまえの肩がびくりと跳ねる。
「しっかりしろ!お前の異能だろう!」
「…、う、あ…」
目に涙が溜まっている。
真っ青な顔で、震えている。
「…太宰はいない。アイツを止められるのはお前だけだ。…なまえ、落ち着くんだ。大丈夫だ。ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐くんだ」
荒く、ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返すなまえ。完全にパニックになったようで、ああ、うう、と唸るだけだった。
織田作は小さく、すまん、と呟いて、なまえの頭を、自分の胸へ抱き寄せた。
「、…っ、!?」
「目を閉じて、ゆっくりだ。ゆっくり、息を吸って…」
「…、う、あ……はあ、……、」
赤子をあやすように、なまえの背中を手のひらで優しくたたく。
織田作の心臓の鼓動が、なまえには心地よかった。
浅かったなまえの呼吸が、だんだんと深くなる。震えていた身体も落ち着いてきたように見えた。
「……、あり、がとう」
「大丈夫か」
「大丈夫、だ…。すまない。ありがとう」
再び開かれた目は、もう怯えてはいなかった。
「…『夜の王』、」
なまえの呼び掛けに、白いペストマスクがぴくりと反応した。
「…王様、わたしはもう大丈夫だ。その子たちも、わたしを傷つけようとは思っていなかった。大丈夫だ。離してやってくれ」
王様はなまえと少年たちを交互に見る。
「…その子たちは、もういいから。大丈夫だ」
王様は少年たちをそっと、床に下ろすと、するするとなまえに近づいた。なまえは織田作の腕から抜け出すと、その細い腕で、王様を抱き締めた。
「わたしを守ってくれたんだろう?ありがとう、王様。もう大丈夫だ」
王様はしばらくなまえを見つめていたが、こくり、と頷くと、とろりと溶けてなまえの影に沈んでいった。
吊るされていた少年たちは、泣きながら織田作に抱きついていた。
「……、すまない。本当に…すまない。君たちに怖い思いをさせた…すまない」
「いや、相手をよく見ずに飛び出したこいつらも悪かった。…とはいえ、あれはなまえが呼ばなければ出てこないんじゃなかったのか?」
「今まではずっとそうだったんだ。…初めてだ。王様が…わたしの呼び掛け無しで出てくるなんて…」
視線を足元に向ける。
「…王様、貴方は……、」
影から、王様の頭が顔を出す。
なまえは、その頭を、そっと撫でた。
(王様は、わたしの言葉でのみ動くと思っていた)
(けれどもし、王様がわたしの言葉無しでも動けるとしたら)
…不安は、すこしずつ増えていった。
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