『その男』には複数の名前がある。
人格の分だけ各所に家があり、周囲と関係を築き、隠れ蓑として必要な時に活用している。
後ろ暗い生業の中枢に居る彼は、こうして公僕からの目を欺いてきた。

売れない執筆家が住む家賃の安いアパートが、『梶原』として過ごす場所だった。
同じ場所に長く居着くことはしないのに、最近はつい通ってしまっている。

『長谷川春樹』

ありふれた薄幸の隣人。
穏やかな性分の若者と過ごす、つかの間の、装った時間が好ましかった。

(――ああ、失敗した)

普段はそう表に出ることはないのだが、その日、梶原は珍しく現場に赴いた。
その姿をあの青年に見られてしまった。

一切の関わりを絶てば良い。
作った人間像は消すのも簡単だ。
堅気に手を出すリスクは避けるべきだ。
そうと分かっているのに、男はその選択を取ることが出来なかった。


「誰にもいえないように、少し、怖い思いをしようか」


いざ手放そうと考えた瞬間、沸き起こったのは抗いがたい欲求だった。
本能に突き動かされるまま、無理矢理その体を奪った。


■ □ ■ □ ■


――春樹が目を覚ましたとき、周囲は一変していた。

見知らぬ広いベッドの上、何も身に付けていない裸の姿に狼狽える。
思い出すのは昨夜の事だ。
犯された事実は記憶と体に刻まれていて、余計に不安にかられてしまう。
恐る恐るベッドから降り、剥ぎ取ったブランケットを被って向かった大きな窓。
カーテンをめくって目についたのは、広がる空と、建ち並ぶ高いビル。
地面はずっと下で、地上から随分と高いところにいるのを知った。

(……ここ、タワーマンション? お金持ちとかが多いって有名なとこだっけ…)

慎ましく暮らしてきた春樹にとって、目に写るもの何もかも場違いだった。
別世界の中にいる。
怖くなってカーテンをしめた。
怯えながら部屋を見て回っても、クローゼットは空で、身につけるような衣服はなかった。
玄関はどこだろう。鍵が掛けられているのか、開かない扉がいくつもある。
外部と連絡が取れそうなものもない。


「探検は終わった?」

「…っひ…!」


いつから近くに来ていたのだろう。
背後から抱きすくめられ、思わず小さな悲鳴をあげていた。
まとっていたブランケットを、肌を撫でるように、ラグの上へと滑り落とされる。
梶原の薄い唇が這うように項に触れ、春樹は身をすくませて震えた。


「残念だが、探検はおしまいだ。さあ、ベッドに戻ろう」

「ま、待って…梶原さん…っ、あのっ、ここは…? 俺どうして…」


春樹の緊張した声を耳にしながら、梶原は冷えた裸体を抱き上げた。
スーツを着ている。
あの時のような怖い雰囲気はしないが、見慣れない姿で触れてくる掌に、過剰なまでに震えてしまう。
ベッドへ下ろす時も、そのまま押し倒して覆い被さってくる時も、春樹を乱暴に扱わない。
不安を煽る状況とは裏腹のちぐはぐさが、春樹から抵抗力を奪ってしまう。


「悪い大人の口約束を信じるだなんて、馬鹿な子だ」

「か…梶原さん…?」

「人間は痛みよりも快楽に弱いらしい。どれくらいでお前は堕ちてくるんだろうね…」


何を言ってるんだろう。
ちゃんと耳に届いているのに、分かりたくなくて、怖くて不安で、春樹は言葉も忘れて瞳を揺らした。
見下ろしてくる男の表情も声色もフラットなのに、瞳だけはチリチリと燃えているようだった。
そして。

そして、
――梶原に犯される日々が、始まった。

時間は決まっていないが、毎日、梶原はこの部屋へやってくる。
春樹が隠れても直ぐに見つけ、鍵が開くタイミングで逃げ出そうとしても捕まえ、ベッドで可愛がった。
少しずつ変えられていく。
初めの頃は挿入を伴わない、気持ちいいだけの狂おしい時間をあたえられ、気付けば抱かれる体になっていた。
いったい何度、犯されただろう。
今では深く挿入されても、苦痛を感じない。


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