男の説明は簡単だった。
文字通り“メール調教”を無理のない範囲で楽しもう、というものだ。
調教といっても初心者の姫子に合わせて、ソフトなものにしてくれるらしい。
メールのやり取りだとタイムラグがあるので、時間をかける時は基本的にチャットを使用。
嫌なことや、調教を止めたいと思ったら素直に言って欲しい。
調教中は名前は“ご主人様”に変えるので、そのように呼ぶこと。
〔なおと〕
『長期的な調教を考えてくれるなら、緑とか黄色でやりとりしたいと思ってる。
その方が男側としては有り難い。
連絡とるのも楽だし、よりリアルを感じられて楽しいよ』
――…緑? 黄色?
なんの隠語かと訝しんだが、直ぐにトークアプリの事だと思い出す。
男性側は女性とは違い、何をするにも料金が発生する有料システムだ。
確かに長々とやりとりをするのなら、無料のトークアプリの方が楽だろう。
〔なおと〕
『初めはこのチャットでしよう。
このままチャットでも大丈夫だけど、メール調教を続けてみたいって思ったら、ID教えてくれると嬉しいな。』
思わずドキッとする。
身近過ぎるものでのやり取りは、流石に不安が大きい。
ひとまず今日は説明と雑談だけで終わりにしてもらった。
金曜日の夜10時に、チャットルームで落ち合う約束をして、姫子は彼を置いて退室した。
そのままアプリからログアウトする。
「…はぁー…、早まったかなぁ…」
出会い系アプリに登録して、見知らぬ男とやりとりして、姫子はそれだけで疲弊してしまった。
後悔や不安は消えないものの、性的興奮への興味も消えてはいない。
どんなことをするのだろう…と待ち望んでしまっている心も、確かに本心だ。
(…そうだ、アカウント…)
普段から使っているトークアプリではなく、別のトークアプリを“捨てアカウント”として作ることにした。
念のため、…念のためにだ。
使うかどうかなんてまだ分からないし、金曜日の一回きりになるかも知れない。
姫子にとってはスリルを楽しむための、いつでも切れる期間限定の関係だ。
未知への不信感や恐怖はあるものの、他の人もやっているみたいだし…そう軽く考えていた。
――だが、男にとってはまさしく“調教(ゲーム)”の始まりだった。
□ ■ □ ■ □
金曜日、16時47分。
男との約束の日。
姫子は腕時計を見下ろして、ふ、と緊張の息をこぼした。
「先輩、今日何かあるんですか? ずっと時計とか気にしちゃって…」
もう直ぐ退勤時間になるというとき、後輩が話しかけてきた。
思わず肩が跳ねてしまう。
そんなに見て分かるほど、あからさまな態度をとってしまっていたのだろうか。
「まさか先輩、デートの約束とかですか?! 金曜の夜にとかやらしい〜」
「ち、違うよ、私に彼氏いないの知ってるでしょ? 友達と会う約束してるの」
「えー、うーん、でも怪しいなぁ…」
後輩がしつこく絡んできそうだったのを仕事を理由に話を切り、姫子は脈打つ心臓に深く呼吸をした。
不意をつかれて冷や汗が出そうだ。
今夜、姫子は“悪い遊び”…とまでは言わないが、人には言えないような事をするのだから。
約束までまだまだ時間はある。
でも落ち着かない。
気持ちが浮わつく、ドキドキして、無意味にひとの視線が気になってしまって……。
不可侵の自分の部屋(テリトリー)へと早く帰りたかった。
――♪ ――♪
定時のチャイムが鳴る。
週末で終えるべき仕事はもう済ませてあるし、急ぎの連絡もなかったので残業もない。
帰り支度をする社員と同じように、姫子は普段通りにデスクを片付けた。
本当に、いつも通りの姫子として、振る舞えていただろうか。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
これ以上、妙な態度をとってしまう前に、姫子は声をかけて扉を抜ける。
どうやって部屋に戻ったのかあやふやなほど、心は急いていた。
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