誰にも言えない秘密があった。
消し去ってしまいたい過去がある。
忘れたいのに忘れられない。
喪に染められた着物の袖を通せば、あっと言う間に蘇ってくる記憶が、姫子をなじるように責め立てた。
“あの日”から一年。
今日は夫の一周忌法要が執り行われる。
* * * * * * *
――結婚して二年目の春。
姫子は愛する夫を失った。
病を患って一年ほど入院していた彼は、とうとう姫子を残して逝ってしまった。
残念なことに二人は子供を授からなかった。
共に天涯孤独の身の上で、頼れる者も、縋れるほど親しい者もいない。
現実は追い討ちをかけるように厳しい。
高額な入院費、治療費で生活が圧迫されていたせいで、葬儀をあげるための金銭の余裕もなかった。
夫を突然失ったショックは大きく、悲しみと寂しさに心が砕けかけていた。
呆然とした表情でさめざめと泣き啜る、美しく若い未亡人。
心細さに冷えきって震える女に、目を付けたケダモノがいた。
葬儀の相談に乗ってくれていた住職だ。
そのケダモノは、憔悴した姫子を言葉巧みに絡め取っていった。
親身に寄り添って慰め、耳障りの良い優しい言葉をかけ、ぽっかり空いた穴に忍び込む。
読経料、戒名料、墓地の購入費と管理費。
相場から嵩増しされた料金だと、その時の姫子は知らなかった。
姫子にとって高額な話題を振って狼狽えさせ、ひどく優しい声で住職は姫子の心に囁きかけた。
『大丈夫ですよ、あなたの憂いは、あなた次第で消し去ってしまえるものです』
そういった寺院に関わる金銭の免除と引き換えに……あろうことか住職は姫子の瑞々しい体を求めてきた。
未亡人へと売春を持ちかける異常性。
坊主にあるまじき蛮行。
だがその時、姫子はその不埒な行いを奇妙にも思わなかった。
心も頭も体も全て麻痺していたのだと思う。
寒がる体を温めてくれるその手を、悲しみに泣き啜る女が拒むことはなかった。
……そして姫子は亡くしたばかりの夫を裏切り、住職の魔の手に堕ちて、身体を蹂躙されたのだ。
* * * * * * *
当時の浅はかな過ちを思い出していた姫子は、耳に嫌でも入ってくる読経の声に唇を噛んだ。
低く読み上げられる声が、いかに獣じみた声を出すか、姫子は知っている。
静かに動くその唇は、あの日、淫らで下品な言葉を吐いていた。
おぞましい男だと思う。
そしてそんな男に簡単に引っかかってしまった自分の迂闊さは、いつまでたっても消えない痛みとして姫子の心に傷を付けた。
ぼんやりと見ていた住職(最低な男)の読経が終わる。
まるであの日が無かったかのようなやり取りを続け、早く切り上げて足早にさってしまいたかった。
そんな姫子を見て、男は最後に、彼女が恐れていた言葉を投げかけた。
「姫子さん。日の暮れる頃に、あの離れへお越し下さい。…もちろん、来て下さいますでしょう?」
(――この生臭坊主…!)
ざわめく胸の内で、罵倒が弾けた。
一年前、確かに姫子は、この男に体を差し出した。
突然夫を失ったショックのまま…など、言い訳にもならないが、若い身体はいいように扱われてしまったのだ。
断ろうと口を開いた瞬間。
スッ…と差し出された一枚の写真。
「――っ…!!」
畳に広がる乱れた髪、汗ばんだ肌、手足に絡まる喪服とのコントラスト。
与えられたセックスの激しさに力なく横たわる女。
あの日の痴態が写されていた。
「そのお召し物のままいらして下さいね。とてもよく似合っていらっしゃる」
喪服姿を似合っているなどと言ってのける住職に、姫子はもはや抵抗することもできず、小さく頷いた。
愛する夫が瞼の裏に浮かぶが、笑った顔がぼやけていて思い出せなかった。
[
次のページ≫]
≪back