34 水底の姫君

先日気付いた魔界の風が気がかりで飛影は各街を回り、匂いの元である場所を探していた。各方面と足を運び、とある街に近付くと、やはりここでも人間界ではありえない現象が起き始めていた。街中は勿論、上空にも飛び交う小さき虫――魔界虫。一匹、目の前に現ると瞬時に刀を抜き、真っ二つにした。そして辺りを漂う懐かしき匂い…瘴気の度合いも濃くなっている。
魔界を近くに感じるこの現状。一体どうなっている。

「(…凪沙、)」

飛影は邪眼を開いた。
確実に、何かが起きている。それが彼女の身に何か影響を及ぼしていなければよいのだが。そんな不安から、こうして離れた場所で凪沙の身を案じ様子を確認する。
凪沙は、幻海と何か話している最中だった。よくよく聞けば、…海で男を助ける夢を見る、と話している。

「っ!?」

凪沙の発言に面食らった飛影は邪眼を閉じ、踵を返した。魔界の風や魔界虫も気になるが、今は彼女の元へ一刻も早く辿り着きたい。その念だけが飛影の足を速めた。
彼女の夢の内容こそ、確固たる確証。今まで疑念を抱いてたことが、全て露わになる。
やはり、間違いなかった。初めて凪沙を見たあの瞬間、夢を見ているのかと疑う程だった。
凪沙こそ、アイツの―――…



自力で這い上がれ、と放ったはいいものの。一向に川の中から顔を出さず水の動きに乗せられた凪沙を、幻海は不審に思った。
おかしい。この川は浅瀬ではないが、凪沙ほどの力があれば難なく泳ぎ岸まで辿り着けるはず。現に修行の初期段階では山の中だけでなくこの川淵でも組手を行った。初めて来た場所でもないし、彼女自身この場所のことはよく知っているはず。それに今日の修行だって特変はなく、普段と変わらなかった。
だが、そんな事を考えている間に凪沙の身体は沈み、川の流れに乗り続けている。…まさか、溺れているのだろうか。

「…一体、どうなってるんだい!?」

幻海は岩場を渡り、凪沙を追うが水の流れは思っていたよりも速い。このまま飛び込み、彼女を助け出すのは幾らでも容易いことなのだが、幻海はふと今朝のやりとりを思い出した。
凪沙が話していた夢…海の中で男を助けると言った、あの話だ。まさかとは思うが、身体が水に浸かった事により、何かが起きようとしているのでは。そんな仮説が浮上した瞬間、川の中から得体の知れない何かの気配を察知する。その感覚をよくよく探ってみれば、認めたくないが長年の勘が訴える。…そう、これは。

「(妖気、だと…!!?)」


川に落ちた凪沙は水流に飲み込まれ、流れに逆らうことなく身を預けた。幾多の水泡が口から洩れ、じきに息苦しさが自身を襲った。早く、空気を…と頭では訴えるものの、何故か身体が鉛を担いでいるかのように重く感じ、思うように四肢を動かせない。
このままでは溺死してしまう。身の危険が迫りくる最中、どうにか手立てはないものかと、息苦しさと酸素不足でぼんやりとした頭で必死に思考を巡らせた。だが、やはり身体の異常は尚も続きいよいよ死の淵に近づいて来た。苦しさと共に意識が遠のく…その瞬間だった。

“凪沙、目覚めて…”

―――誰?

遠のく意識の中で聞こえた、澄んだ声。女性らしい可憐なその声色は、一体…。
そんな疑問が過った後、瞳を閉じた凪沙は漆黒の中に白き光を見つけた。そして鉛のように重かった身体がドクン、と脈立ち、足元から感じたことのないような熱が沸々と沸きあがってくるではないか。
自分の身体に何が起きているのか、考える間などもはやなかった。凪沙は身体の芯から感じる不思議な力に身を任せ、視界を支配するその白き光に包まれた。



川の中から感じる妖気。白く、淡い光。
一体何が起きているというのだ。幻海の眉間の皺が増え、凪沙の身を案じていたその時、頭上に茂っている木の葉を揺らし地へと飛び降りてきた男――飛影に驚愕した。

「飛影!?お前、いつの間に…!」
「何が起きているのか説明しろ」
「あたしだってね、突然の事で戸惑っているんだ!あんただって気付いてるだろう!?凪沙から妖気が―――」

幻海の声を遮るように、川の中で輝いていた光は強さを増し、辺り一帯を白く包んだ。
一瞬、目を眩ませた幻海と飛影が瞬きをし、次いで視界に入ったのは。

「…なっ…!」
「―――ッ!!!」

パシャン、と水音を立て宙へと飛んだそれは、上半身が人間で下半身が魚の成りをしていた一人の女。栗色の腰までかかる長き髪は身体の動きに比例して靡き、艶やかな白い肌としなやかな身体つき、そして翡翠色の鱗と尾ひれ―――その美しさをより際立たせている、日に照らされた水しぶき。

それは、まさしく人魚だった。

「な、なんと…!」

言葉を失い、眼がそれの虜になっている幻海をよそに、飛影は目を見開き、そして静かに呟いた。

「―――潮…!」

再び水音と共に川の中に飛び込んだその人魚は器用に泳ぎ、流れに逆らってゆく。そして近間の大きな岩場の元まで来ると顔を出し、腕と尾ひれを上手く使い器用にそこへ座った。
俯いていた頭がゆっくりと上がり、それに応じて顔が露わになった。
長い睫毛、深く蒼い瞳、ふっくらとした桜色の唇、そしてほんのり朱がかかる頬。その美しさ故、幻海は目を外せなかった。

幻海が凝視している最中、ふと気づいたのは間違いなく残っている凪沙の面影だった。
そしてその瞬間、先ほどまで隣にいた飛影が瞬時に跳躍した。無論、向かった先はその人魚の岩場だ。
飛影は軽々とそこへ着地し、膝をつくと彼女を胸の中に抱いた。そして腕に込めた力は徐々に強くなってゆく。

数百年間、一度たりとも忘れることはなかった。忘れようと何度も決意したが、忘れることなど出来なかった。初めて愛情というものを教え、そして満たしてくれた彼女を忘れるなど、酷でしかなかったのだ。…だが。

「…飛影?」

腕の中で呟いたその声に気付いた飛影はハッとし、彼女の身体から僅かに離れた。
その人魚の容姿、声色はまさしく数百年もの間想っていた潮だった。だが、自身を見つめるその深き蒼い瞳の奥や、表情の動き、雰囲気を見ると瞬時に気付いた。
自身を理解してくれて、支えとなっている人物―――凪沙に間違いなかったのだ。

「…何が一体、どうなってるんだい…」

その一方、飛影の突然の行動や、二人のやりとりを遠巻きに見守っていた幻海は呆気に取られ、ぽかんと口を開けたまま動けずにいた。



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