16 修行開始

幻海の発案通り、凪沙の修行がいよいよ始まった。母を失った後から身体を纏い始めた霊気だが、正直今までと何ら変化はなく、寧ろ本当にそんな力が備わったのか疑っていた。だが修行が始まり、少々の運動では疲れにくい身体になったと凪沙は気付いた。…幻海の元での少々の運動、というのは、学校の運動部がやっているようなトレーニングとは比にならなかったが。
まず、基礎体力をつけるための特訓から始まり、筋力強化のトレーニングに精神力向上の座禅等、内容は多種多様なものであった。そして修行の合間には寺の掃除、炊事、洗濯は勿論、その他雑用雑務も、凪沙の仕事だった。家事をするのは経験上そこまで苦ではなかったが、修行の合間に行うというのが日々時間と体力との戦いとなっていた。
来る日も来る日も修行と家事をこなし、今までの生活とは180度転じたものとなった。自分の時間など一切与えてもらえず、強いて言うならば入浴時、入眠時ぐらいしか気を抜けられない。幽助や桑原が青ざめながら励ましてくれた意味がようやく分かった。全身に走る節々の痛み、寝ても覚めても取れぬ倦怠感、いつの間にか身体中に出来ていた擦り傷切り傷打撲がそれを物語っている。…率直に言うと、“地獄”だった。

そしてその地獄のような日々が始まって数週間経った頃。何時もの如く幻海が所有する山奥で、凪沙と幻海は組手をしていた。木の枝を伝いながら幻海の繰り出す技を避けつつ、こちらも反撃せねばならない。攻防がしばらく続く中、凪沙はチャンスを探すが、相手はあの幻海師範だ。そう簡単に隙を見せまい。何か策は…と思案していると。

「―――遅いっ!!!」

気付いた時には、彼女の言う通りになった。回し蹴りが懐に入り、バランスを崩してしまった。嗚咽と共に走るのは腹部の強烈な痛み。そして体制が整わず、木の枝から足を踏み外してしまった。「しまった」と頭で過るが身体の反応の方が格段に速く、咄嗟に着地の体制を図るが、

「―…っ痛!!?」

日々の疲労が蓄積されたせいなのか、その瞬間衝撃に耐えきれず右足をひねってしまった。電流のように痛みが走るが、痛みに悶絶している場合ではなかった。次の幻海の攻撃から身を守らねば、と身体を起こそうとした。…だが。

「…チェックメイト、だね」

幻海の手刀が、凪沙の首元で止まった。…嗚呼、今日も負けてしまった。

「おばあちゃん、容赦ないんだから…」
「これが修行ってもんさね。あたしがアンタみたいな小娘に負けるようじゃ、話しにならないだろう」
「…ごもっともで、」

凪沙は完敗を表すよう、その場で大の字になった。荒くなった息を整えようと深呼吸するが、腹部の痛みが邪魔をし、うまくいかない。浅い呼吸のまま、うつらな瞳で捉えたのは、雲がゆったり流れる綺麗な青空だった。
束の間の休息、とも思ったが、視界の端から幻海の顔が自身を覗き込んだ。…休息なんてものは存在しないらしい。

「なんだい、もうへばったのかい」
「…うん。…さっき着地した時、…右足を…」
「…ふん、大したことなさそうだね。自分の足で帰ってきな」
「…え?」

怪我を負った右足を一瞥した幻海は、そう言い残すと軽やかに跳び、近くの木の枝に着地した。そして振り返ると、

「今日、日が暮れるまでに帰ってくること。それが出来なけりゃいつまでも学校に通えないよ。勉強が追い付かなくて困るのが嫌なら、這ってでも帰ってくることだね」
「そ、そんな…」
「それに、ここはこんな山奥だ。熊は勿論、もしかしたら低級の妖怪も出てくるかもね…。嫌ならどうすりゃいいか、説明しなくても分かるだろう。じゃあな」

幻海はそう吐き捨てると、自分だけ木の枝を渡り、さっさと行ってしまった。
・・・え?本当に一人で戻れっていうの?いやいやいや、嘘でしょう。信じられない!…と、実際口に出せたらどんなに良いことか。あの幻海の事だ。独り言でさえも丁寧に拾ってくれる素晴らしい聴力を持っているので、そう易々といえるはずもなく。
半ば諦め、凪沙は身体を起こしたのだが。

「い"ぃ…っ!」

曇った情けない声が漏れた。腹部に走る鈍痛、そして右足の痛み。正直起き上がるので精一杯だった。これから自力で寺に戻るなんて、正直気が遠くなる話だった。凪沙は深い溜息をついた。




一体どのくらい歩いたのだろう。途中見つけた太い木の枝を杖の代わりにして、どうにかこうにか歩いて進んではみたものの、予想以上に体力の消耗が激しい。未だに身体を走る痛みがよりそれを後押ししている上、視界もぼやけてきた。唯一、呼吸のリズムだけは崩さず歩みを進めていたのだが。

「…ぅわっ!!」

足元に石が転がっており、コントのように顔からすっ転んでしまった。…また、地べただ。首だけはどうにか前を向かせるも、瞼の重みが視界を妨げる。…このまま目を瞑ってしまいたい。休みたい。寝たい。欲求が訴えている。凪沙は身体の赴くまま、素直にそれを受け入れた。…しかし。

「…おい」
「…」
「…おい!」
「…んぁ??」
「…なんつー間抜けな面をしてやがる。貴様、それでも女か」

その憎まれ口。聞き覚えのある声。ぼやけた視界で確認すれば、またも見覚えのある黒い服と足元。…ついに幻覚や幻聴の症状が現れたのだろうか。

「…飛影、に見える…」
「はあ?」
「そっか…夢か、これは…」
「冗談ぬかすのもいい加減にしろ」

その瞬間、脇の下に手を入れられそのまま身体を起こされた。同時に走る全身の痛みに、瞼の重みは瞬時に消えた。うん、これは痛い。…と、いうことは。

「夢じゃない…!?」
「…身体だけじゃなく頭もイカレたか」
「ううん、正常です。ご心配なさらず」
「フン。…なら初めからそう言え」
「でもなんで…?」

どうして飛影はこんなところにいるの?そんな疑問を含む凪沙は首を傾げた。彼女の質問に一瞬目を逸らし、口を噤む飛影。だが、不純な疑いが一切感じられぬ、純粋無垢な視線に耐えきれなかったのか、目を逸らしながらぽつりぽつりと話し始めた。

「…この山は人間の出入りもほとんどないから、修行するのに最適だと思ってな。たまたま近くを通っただけだ」

嘘から出た誠になればいいのに、と飛影は自分で言っておきながらそんな欲があった。本当はいつまでも寺に帰ってくる気配がなく心配だったから邪眼で後を追ってきた、なんて事は口が裂けても言えない。
だが、そんな飛影とは相反し凪沙の反応は「飛影も修行とかするんだ!すごいね!!」と目を輝かせている。

「…なんか、飛影が来てくれたから元気出たかも!」
「…単純な奴…」
「だって、一人よりも飛影が一緒にいてくれる方が頑張れるよ!…よぉーし!!」

先ほどの疲労感が嘘のようだった。飛影が来てくれた。その事実だけで凪沙の心は不思議と踊った。前向きな思いが働いたのか、痛みは先ほどより苦には感じない。再び木の枝を支えに、凪沙は歩みだした。
飛影がここへ到着した際、彼女の霊気は疲労のためほぼ消えかけていた。だが、今はどうだろう。前を向き、動き出した凪沙は再び霊気が戻ったように見える。…精神状態も深く関係してるのだろう。
…何はともあれ、彼女が無事這い上がれたので良しとしよう。飛影は一歩一歩、着実に歩む凪沙の背を静かに見守った。



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