102 迎合と死

「わだつみ…様?」

 潮の呟きは凪沙に届いた。水中ではあるが外側の様子は水槽越しに見える上、音も確かに捉えられる。凪沙は改め、不思議そうに“綿津海”と呼ばれる青年を見やった。

“そう。私の名は綿津海。…凪沙、私はずっと君の事を見守ってきた。そしてようやく姿を現すことが出来たんだ。君が“誰かを守りたい”と願ったからだよ。…さぁ、呪いを解こう”
「呪い?呪いって一体何の事!?」

 聞き捨てならぬ綿津海の言葉に凪沙は焦った。まさか自分の身体が呪われていたなんて初耳だ。思わず身体中を触って確認するが、そんな凪沙が面白かったのか綿津海はくすりと笑った。目尻に数本の薄い皺が入ったその表情は穏やかで、どこか親しみやすさを感じる。
 綿津海は静かな所作で両手を水槽の前に翳した。…今度は一体何をする気だろう。凪沙は手を止めて訝しむが、綿津海は唇を真一文字に閉じて鋭い視線を投げてきた。…なんという威圧感だろう。正義感、使命感に溢れたその眼は並大抵のものではない。綿津海海の周りを取り巻く空気が明らかに変わった。
 綿津は目を伏せ、何かを唱えながら両手を素早く動かし始めた。男性らしい太く長い指が細やかに、そしてしなやかに結んでいるのは数多の印だ。まるで呪文のような言葉を流暢に放ち、それに伴い印は光を帯びていく。そして懐から一枚の札を出し凪沙の目の前に貼り付けた。

“―――解ッ!!”

 綿津海の炯々とした目が光り、覇気が一瞬にして放たれた。水槽内にいる凪沙は勿論、潮も牛鬼蜘蛛もそれを肌で感じ取った。まるで身体に直接雷が落ちたような、今まで経験した事のないような激しい衝撃だ。肌がピリつき、刺々しい雰囲気に背筋が粟だつ。
 そんな周りを尻目に、綿津海は静かに札を外し凪沙の足元に再び手を翳す。そしてゆっくりと手が上がると同時に、水槽の端から徐々に細かい泡が生まれては弾け始めた。それに伴い、凪沙の足元が少しずつ変化していく。

「えっ…!?」

 目を丸くして驚愕する凪沙。それもそのはずだ。凪沙の足元は細かな泡と共に魚の尾ひれ、鱗に変化していった。それも今までは潮と同じ翡翠色であったが、今回は違う。それはまるで波が揺らめく海を連想させる縹色であった。そしてみるみるうちに髪が伸び、胸部には白い胸当てが装着させられた。水槽の水が全て泡と化した頃には、凪沙は完全に人魚の姿になっていた。

「どうなってるの…?」
“凪沙が望んだんだろう?…さぁ、思い切り行ってごらん。諦めるのはまだ早いよ”
「えっ…ちょっと待って!綿津海さ…」

 綿津海は再び姿を眩ませた。先ほどの強い覇気や気配は瞬く間に完全に消え、綿津海の痕跡はどこにも見当たらない。
 一体何がどうなっているのか。そして呪いを解くとはどういう事だったのか。他諸々凪沙の中で疑問が山積みだが、何はともあれ人魚の姿になれたのだ。願ったりかなったりの現状は寧ろ好転だ。
 凪沙は試しに尾ひれを上下に動かしてみた。膝下から尾の先まで思った通りに動いたので、どうやら身体は問題なさそうだ。それに空中浮遊している身体はまるで水中にいる感覚である。もしかしたら、と期待が芽生えた。
 凪沙は手を真っ直ぐ伸ばし、尾ひれで空中を蹴ってみた。まるで水泳選手が壁を蹴るような勢いで飛び出し、しなやかな胴を水によじり撒くように進んで行く。その様は自由を手に入れた魚のようだった。そして先ほどまで毒に犯された痛みや痺れは既に感じない。凪沙の眼に再び闘志が宿った。

「―――今度は負けないから!!」

 目元を鋭くした凪沙は牛鬼蜘蛛に向かって突き進んだ。

「コザカシイ…コロス…コロス…!」
「やれるもんならやってみなさいよ!」

 牛鬼蜘蛛が口を開けて毒を吐きだそうとした。しかし凪沙は柔軟に避けて牛鬼蜘蛛の背に回る。

「こっちだよー!」
「グウウゥウ…!」

 凪沙の表情に余裕が生まれていた。先ほどまで攻防の末毒を喰らい苦しんでいたとは思えぬほどの勢いですら感じさせる。潮は綿津海が述べた“呪い”の意味を肌で感じた。
 …恐らくこれが本来凪沙の持って生まれた力なのだろう、と。

「凪沙…」

 潮の顔に諦念の色が滲む。だが今自分に出来ることは祈る事のみだ。…ならば、最後まで祈り続けようではないか。潮は静かに目を伏せ胸の前で指を組んだ。

「コザカシイ…!バカ、ニ、シヤガッテ…!」

 牛鬼蜘蛛は凪沙を追い、ぐるりと回った。先ほど受けた打撃と吐血が効いているのか、確実に動きは鈍くなっている。そして逆鱗に触れられたが故、頭に血が上り冷静な判断が出来なくなっているのだろう。牛鬼蜘蛛は渋面で焦りや怒り等の感情が交錯している。苦し紛れに毒を吐いたが凪沙の速さに追いつけず、吐き出されたそれは掠りもせず地に落ちていった。
 凪沙は尚も水中で泳ぎ続けているように胴をしならせた。そして気付けば牛鬼蜘蛛を中心に円を描いており、その動きはまるで渦潮のような激しい波が生まれているようだった。

「コノッ…コムスメガァ!…ウォッ!?」
 
 牛鬼蜘蛛が凪沙を追ってある程度経ったその瞬間。牛鬼蜘蛛の目が回り足元がふらついてバランスを崩した。凪沙は視界の端でそれを確認すると、するりと彼の横を抜けて真上に急上昇する。その素早い動きに牛鬼蜘蛛は勿論潮も目を剥いた。

「凪沙…!」

 潮は凪沙に光明の光が垣間見えた。
 凪沙が真上へ泳いである程度の高さに来た頃、牛鬼蜘蛛の愚鈍な動きはようやく止まった。しかし凪沙が胸の前で指を組み、深呼吸する姿に思わず慄いてしまう。
 身体が、記憶が、激しく警鐘している―――。
 凪沙の呼吸が整うとその小さな口から流れてきたのは美しい歌声だ。これは仙水と戦った時に奏でたあの旋律と同じものであった。あの時は潮の記憶が鍵となり旋律が生まれたが、今は違う。凪沙自身が“歌う”と意識した瞬間自然と頭の中で旋律が流れそれを奏で始めたのだ。
 柔らかくもその芯にはどこか力強さがあり、その一方で朗らかで優しさの光を感じる―――凪沙の可憐な歌声はそんな不思議さがあった。

「グアァア…!ヤメロ…!」
「牛鬼蜘蛛が苦しんでいる…!?」

 潮にも凪沙の歌声は聞こえているが苦しみは一切感じない。寧ろ歌声が心地良く、癒しの効果を発揮しているのではないかと疑いたくなるのだが。どうやら悪しき心の持ち主が感じるのはその真逆であるらしい。牛鬼蜘蛛の巨大な体躯に痛みや痺れが走り、激しい耳鳴りと頭痛に襲われていた。それはまるで生き地獄を見せられている気分だった。苦悶の表情で悶えている様が何よりの証拠だ。

「動きを止める以上の力を発揮しているのね…!」

 潮が飛影を助けた時は相手の動きを止め、そして誰かの声に導かれるように高波を呼び寄せたのだが。…凪沙は一体どうするつもりなのだろう。
 凪沙は歌を奏で続ける中、静かに目を開けた。そして胸の前で組まれていた手は、右手の人差し指が伸ばされ霊丸の構えを作る。

「ガッ、…ハッ!ヤメ、ロ…!」

 牛鬼蜘蛛が狼狽している。しかし凪沙の瞼を薄く開いた目には冷徹さが宿り、その瞳の奥には怒りの感情が芽生えていた。美しい蒼い瞳から想像がつかぬほどの激昂を抑えている。

「飛影の魂は渡さない…!」

 ―――いつだって飛影は私の事を助けて、寄り添って、見守ってくれた。その不器用な優しさや厭う思いは全て伝わっていたよ。

「今度は私が飛影を助ける番だから!あんたなんかに…私は負けない!!」

 凪沙の指先に妖気が徐々に集まっていく。先ほどまでは白い塊に流水が数本纏っていたが、今は最初から水の塊が膨らんでいた。凪沙は眉を吊り上がらせ大きく目を見張ると威圧感というべき迫力が生まれた。その鋭い目で捉えたのは、眼下で慄く牛鬼蜘蛛だ。

「ヤ、メロ…!」

 牛鬼蜘蛛は身体の震えと背筋の粟立ちが止まらなかった。凪沙が人魚になった瞬間から明らかに力の差が判然とし、どこからあんな力が生まれてくるのか不思議で仕方なかった。人間の姿では比にならない妖力が恐ろしくもある。
 凪沙の指先に集まる水の塊は先ほど放った霊丸よりも膨らんでいた。しだいに指では支えきれなくなり両手で掬うようにすると安定したのか、ようやく動きは止まった。水の塊には数多くの流水が纏い、水の勢いも遥かに増している。半透明体の中に薄く色付いた碧色の球体、それを包み込む流水は、何かに触れれば瞬く間に弾かれ消えゆく儚さもあるが、それでさえも美しさを感じさせる魅力があった。
 その一方で牛鬼蜘蛛は既視感があった。あれは忘れもしない、己が命を落とす際最後に目の当たりにしたものだ。激しく打ち付ける海水が中心に向かって動き出し、それによって生まれた渦潮を彷彿させた。大きな水の塊を纏う流水の動きがそれに重なって見えたのだ。

「ア…アア…!」

 恐怖で牛鬼蜘蛛の足が竦む。しかし凪沙は水の塊を少々高く上げ頭上で止めた。

 ―――飛影、一緒に帰ろう。私は貴方の隣にいたい。共に同じ時間を過ごしたい。だからどうか…もう一度生きて。
 私はあなたと生きたい。私は…あなたを愛しているから。

 凪沙が心の中で唱えると、飛影の魂が一瞬光を宿した。潮はそれに気付きまじまじと見つめると、魂は柔らかい光を静かに灯している。
 潮はそうっと光に触れた。しかし人差し指はス、と魂を通り抜けてしまった。その現実に瞳が震え、思わず指を引っ込めた。

「―――ッいっけぇええ!!」

 凪沙の手は大きく振りかぶると同時に水の塊は一直線に急降下していった。牛鬼蜘蛛の目の前に巨大な丸い影が徐々に重なり、それは降下に伴い肥大していく。

「ア…アアア…!」

 牛鬼蜘蛛の視界が透明感溢れる蒼い世界に染まった。眼下に広がるそれは、まるで荒々しい渦潮が迫り全てがそこに吸い寄せられていくような感覚であった。苦しもがいた忌々しい記憶が全身を硬直させる。否が応でも逃げ出したい―――しかし身体の自由は既に効かず足が竦む一方だ。
 流水が牛鬼蜘蛛に触れて大きく弾けた瞬間、蒼い光に包まれ身体は細かな白い泡となりみるみるうちに消えてゆく。

「グアアァ…!!」

 苦悶の表情で放たれた断末魔は悲痛に塗れていた。身体に当てられた大量の水が泡と化し全て消えた頃、牛鬼蜘蛛は跡形もなく姿を消した。
 そこに残ったのは大きな水たまりだけとなった。

「はぁっ、はぁっ、…や…った…!勝った…!」

 凪沙は息切れをしながらも、牛鬼蜘蛛の姿が完全に消えた事を確認した。邪悪な妖気は一切感じられないのが何よりの証拠だ。凪沙は急いで潮と飛影の魂の元へ向かった。

「潮さん、飛影!!」

 凪沙が潮を目掛けて泳いでいると飛影の魂は先ほどよりも大きな光を帯び、やがて人型に変わっていった。勿論凪沙もそれに気が付き、期待が高まると共に泳ぎを加速していく。
 人型の光が徐々に消えると、姿を現したのは眠りについた飛影だった。隣で見守っていた潮は訝しながらも、再び飛影に触れようと手を伸ばした。そして先ほどのように人差し指だけを彼の腕に触れた瞬間、やはり貫通してしまった。手を引き己の掌を確認すると、薄らではあるが確かに透けており向こう側の地面が微かに見える。
 潮の顔に再び諦念の色が滲む。それも先ほどよりもより強く、だ。

「潮さん、飛影は元に戻ったの!?」

 頭上から凪沙の声がし、潮はハッと顔を上げた。目の前に現れた凪沙を改めまじまじと見つめると、その出で立ちは人間の時よりも長い髪は艶やかであり、色白の透明感溢れる肌や白い胸当てが縹色の鱗が非常に合致していた。そして肝心の顔であるが、確かに自分と瓜二つだ。だが凪沙なりの人生を歩んできた様々な経験や感情が表情を作っているのだろう。パーツはほぼ同じと言えども、やはり空気間や雰囲気は明らかに自分とは違うものを感じる。これもまた“呪い”が解けた証拠なのであろう。
 潮は複雑そうに、だが凪沙を悲しませないために、口元の両端を上げた。その違和感に凪沙はすぐに気が付いた。

「潮さん…?」
「…気が付いたみたいよ」

 潮が伏し目がちで促した。見やれば、眠っていた飛影の指先が微かに動き眉間に皺が寄った。そして少しずつ瞼が開かれると、薄目の中で紅色の瞳が覗いた。

「飛影っ!良かった…目が覚めて…!」

 凪沙の涙ぐんだ声に反応し、飛影の目は完全に見開かれた。ゆっくりと視線を動かせば、声の主を捉えた。

「…凪沙?」

 人魚の姿になっても飛影は凪沙だとすぐに認知した。名を呼ばれた凪沙の瞳には涙が溜まっていたが、手で拭うとすぐに笑顔を作った。
 飛影は起き上がろうとすると、すぐに凪沙が背に手を回し身体を支えた。飛影はそれを拒むことなく上半身を起こした。その一連の様子を隣で見つめていた潮は口元に寂しげな笑顔を作り、少しずつ後退りしていく。凪沙はそれに気が付き息を呑んだ。

「潮さん、どこに行くの!?」

 切迫感溢れる凪沙の声にいち早く反応したのは飛影だった。まさか、そんなわけがあるものか。驚愕を隠せぬ表情で見やれば、少し離れたところに一人の人魚がいるではないか。それも凪沙と瓜二つの、翡翠色の鱗を持った人魚―――。
 今まで何度願ったことだろう。もう一度会えるならばと、心の奥底に秘めていた感情が湧き出てくるようだった。

「…潮っ!!」

 飛影が声をかけたその瞬間、潮の背後に青白い淡い光が生まれた。その光は徐々に形を変化させ、先ほどの飛影のように人型を作っていく。形が完全に出来上がる頃、既視感ある姿に凪沙は訝しんだ。

「綿津海…さん…?」

 青白い光が徐々に消えると、凪沙が予想した通りそこには綿津海が現れた。そして潮と視線を交わすと静かに彼女の肩を抱いたのだ。綿津海の潮を見つめる瞳は、凪沙以上の温情を宿していた。だが潮は眉を下げ何かを逡巡している。そして飛影と凪沙を一瞥すると目を伏せ、深く吐息を吐くとようやく己の手を綿津海の手に重ねた。

「どう、なっているの…?」

 凪沙は勿論、飛影でさえもぽかんとしている。二人は顔見知りだったのだろうか。…いや、顔見知り以上の関係に見えるのは恐らく気のせいではない。

“…どうやら、本当のお別れの時が来たみたい”

 潮が落ち着いた静かな声で話した。無論、それをすぐ飲み込める凪沙と飛影ではない。二人の目が見張った。

「潮…。本当に、潮なのか…?」
“ええ。…やっと貴方の前で、こうして姿を現せて嬉しかった。…もう心残りはないわ”
「待ってよ潮さん…!なんでそんな事言うの!?ずっと私の意識の中にいてくれたのに…。その言い方って、…もう、」

 この世から消える。そう言っているようなものじゃないか。その言葉を飲み込む代わりに凪沙の胸が詰まった。

“凪沙。この世にはね、永遠と呼ばれるのは一つしかないんだ。それが何か分かるかい?”

 問うてきたのは綿津海だ。突飛な質問に凪沙がキョトンとするが、その一方で飛影は黙考しながら綿津海を見つめている。すると互いの視線が交錯し、絡まった。綿津海は目細め微笑むと、やはり目尻に皺を作った。飛影の緊張が少々緩和した。

「一つしかない…永遠のもの?私には分からないです…」
“いや、君はもう既にそれを得ている。さっき心の中で唱えた言葉だ。それが勝利へと導いたんだよ”
「心の中で唱えた…言葉…?」

 牛鬼蜘蛛を倒すには凪沙の言葉が必要。それは戦前潮から言われていた。その正解は結局分からなかったのだが…無我夢中で戦っていたので無意識だったのだろう。凪沙は回想していると、ある場面が脳裏に過り「あっ!」と声を上げた。…思い出しただけで顔が紅潮した。

“ふふっ。やっと分かったみたいね。凪沙がそれを唱えたら飛影の魂は変化し始めたのよ”
「…おい。一体何を言ったんだ?」
「え!?いや、…これは今は言えない…か…な…」
「なんだと?」
「もう!今はいいんだってば!!」
“…ふふふっ!”
“はははっ…!”

 凪沙と飛影との小競り合いが和やかな雰囲気を生んだ。くすくすと笑う綿津海と潮は心から安堵した。これならもう心配はない。飛影には凪沙が、凪沙には飛影が―――唯一無二の二人。そう確信した。

“…そろそろ時間だ”

 綿津海が呟くと凪沙と飛影の動きは止まり、二人の視線が同時に投げられた。綿津海と潮の身体が薄ら青白く光り始めている。…一体何が始まろうといているのだろう。凪沙が訝しみながら凝視していると、二人の身体が少しずつ透け始めている事に気が付いた。そして爪先から白く細かい泡が生まれ始め、少しずつ身体が消えている。飛影はこれが何かを解すると、再び綿津海と視線が絡んだ。綿津海の視線は、且つて幽助と初めて手を組んだあの時と同じような―――信頼における眼差しを送っている事に気が付いた。
 その一方で、凪沙は大きく目を見張ると身を乗り出し二人の元へ行こうとした。だが飛影は咄嗟に腕を掴み自分の腕の中に収めた。

「飛影…っ!何で!?潮さんと綿津海さんが…!」
「…分かってる」
「分かってないよ!だって身体が消えちゃってるんだよ!?助けに行かないと…!」
「既に死んでる者達をどうやって助けるというんだ!?」

 凪沙は突かれる思いで息を呑んだ。身体中に緊張が走り硬直した。

「凪沙はまだ気付いていないようだがな…。よく目を凝らしてみろ。今起きているのは霊魂がようやくこの世を去ろうとしている瞬間だ。それを止めるとはどういう意味か分かっているか?…いつまでも現世に未練を残し、誰にも救ってもらえないまま一生彷徨う事になるんだ。…生きることも、死ぬことも許されぬままな」
「そ…ん、な…」

 凪沙の瞳が大きく揺らいだ。飛影の言葉、そして目の前で起きている現実がまるで信じられなかった。
 
“ご名答だよ飛影くん。…我々の役目は終えたんだ。これでようやく本当の極楽浄土へ行けるよ”
“ええ、そうね。向こうには海のように泳げる場所はあるかしら…”
“…きっとあるよ。何にも憚らない自由が待っているさ”

 流暢に会話を交わしている二人だが、水泡は太腿のあたりまで来ている。許される時間は残り僅かだ。
 綿津海、潮は兎も角、飛影は恐らく二人がこうなる運命というのはとっくに見当がついていた。そんな中凪沙だけは納得など出来ず、目の前で起きている現実を受容する度量はなかった。気付けば溢れんばかりの涙を流し、どうにか二人の元へともがくのだが、力で飛影に敵うわけがない。しかしこうして見つめている間にも二人の身体は徐々に消滅している。
 …本当はどこかで、潮とは一心同体で生きていくのだと思っていた。人魚族の力を呼び覚ましたのも彼女あっての事であり、そして先ほど力を解放してくれた綿津海もこれから関係を築けるものだと思っていたのに。暗澹に塗れ顔が俯き、涙が地を染めた。

“…凪沙。泣かないで”

 潮の声で凪沙はゆっくりと顔を上げた。

“私、飛影と同じであなたの笑った顔が大好きなの。…最期くらい笑顔で見送って欲しいな”

 潮が眉を下げ、笑顔を作った。懸命に慈悲を抑えているその笑顔は痛々しくも儚い。それは飛影にも、そして凪沙にも十分伝わった。

“私も見てみたいなぁ。潮に似て可愛いんだろうね”

 綿津海もまた、穏やかではあるが宥めるような口調だった。凪沙は逡巡し、飛影と視線が絡んだ。すると飛影は右手の親指で凪沙の涙を拭い、頷いた。水泡は二人の上半身に差し掛かった。終焉の時が迫っていた。
 凪沙は零れる涙を必死で拭い、一拍程置くと顔を上げた。

「潮さん、綿津海さん。…ありがとう」

 可憐さ、眩しさ、朗らかさで染まった凪沙の笑顔は陽が照らすような温かさがあった。飛影の凪沙を抱く手に力が加わった。

“さようなら…凪沙、飛影くん”
“幸せになってね―――”

 綿津海、潮もまた、優しく微笑んでいた。水泡は首、顎、頬、そして頭部へゆっくりと登りつめてゆく。頭頂部へ辿り着いた頃、二人の姿形は全て泡となりこの世から去った。
 凪沙の相好が崩れ飛影に身体を委ねれば、泣き声が辺り一帯に響いた。それに導かれるように、白く淡い光が二人を包み込んでいった。



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