90 悪魔は二度笑う

“いいかい、潮。よくお聞き”
“なぁに?大婆様”
“以前、地上は恐ろしい所だと話したな?あの話には実は続きがあってな。海に命を授かった者…つまり、我等一族が地上で生きるのは禁忌に値する。海の神の怒りに触れるも同然だからな。だが、それは“ある人を見つけたら”唯一許されるのじゃ”
“ある人…?”
“そう。それは“心から愛する人”…最愛の人だ。それを見つけた時、それ相応の代価を払えば地上で生きる事を許される。その昔、人間界に渡ったご先祖様は声を魔族に売って足を手に入れたらしい”
“そのご先祖様は幸せになったの?私、地上を見てみたい。海だけの世界はもう飽きたよ”
“潮…。お前は本当にこの一族では稀な気性じゃな。何故こうも好奇心で溢れておる?”
“確かに怖いものはたくさんあるよ。雷が一番苦手なのは昔から変わらないし…。でも、それ以上に私は色々な世界を見てみたい。そのご先祖様のように、愛する人と出会ってみたいの”
“じゃがな、そのご先祖様は結果最愛の人とは結ばれず海の泡となって消えたのじゃ。何故だか分かるか?それなりの代価というのは、そういう事なのだぞ。即ち、我々に残された運命はもう決まっている。地上で生きることを許されても待っているのは“死”だけじゃ”
“それでもいい。大場様や母様が愛してくれたように、私も誰かを好きになってみたい…!”
“…潮、悪い事は言わん。誰かを愛すことよりも自分の命を優先し、海で暮らすのじゃ。でなければ我等一族、皆がそれに倣えばいずれは破滅する。儂の願いとしては、一族の末端であるお前には幸せを手に入れて欲しい。生涯、決して海の神の怒りに触れてはならぬぞ。…もし、仮にその時が来たら…お前はきっとその命を捧げるのでさえ躊躇しないのじゃろうから”
“大婆様。…どうして私がそこまでするって分かるの?”
“…全ては夢、…いや、海の神が教えてくれた。あとは己の運命に従うのみじゃ。…後悔のないように生きるのじゃぞ”



***



 分厚い雷雲が徐々に夜空を覆い始めた。遠くでは複数の稲妻が走り、稲光が雲を照らしている。一拍程置いてからは雷鳴が響き、衝撃音が度々聞こえて来た。
 潮は海蝕洞の奥で肩を震わせ、耳を塞いでいた。昔からそうだったが、やはりこの雷光や雷鳴は苦手だ。今までのように、雷鳴が聞こえない深海に潜れば良かったのだが、恋心というのはそれをも覆す強い力であり、己自身呆れたが身体は正直だった。
 海の天気が荒れようが雷が鳴ろうが、飛影に会いたい。その一心で今晩もこの海蝕洞を訪れた。
 本当は昼間に会えれば良いのだが、巷で人魚がうろついていると噂が流れている以上下手に動けない上、飛影も昼間は近くの森で修行を積んでいる。互いの為にも、逢引は日が暮れてからというのは最早暗黙の了解だった。
 だが、今晩のように荒れた天気の日は海に落雷する危険もある為、もしかしたら飛影は来ないかもしれない。…でも、ほんの僅かな期待に賭け、潮は意を決してやって来たのだ。
 辺りは荘厳な音を立てて荒波が崖に打ち付けている。だが、幸いにも海蝕洞の前には人の背を上回るほどの大きめの岩石が幾つかある為、波が洞窟の奥に流れる心配はない。入口は多少波が打ち付けるが、これなら飛影には危険は及ばないだろう。…だからといって、彼が今晩もここを訪れるとは限らないのだが。
 再び、大きな雷鳴が外で鳴り響き、潮の肩が大きく跳ねた。海の中では曇った音でしかなかった雷鳴をダイレクトに聞くのはやはり刺激が強すぎる。この恐怖心からどうにか逃れたい。その必死な思いで、潮の左手が自然と右手の甲に伸び、そして無意識のうちに爪を立てた。痛みが走る間だけ、恐怖心が紛れるような気になれたのだ。潮は涙しながらも歯を食いしばり、爪を立て続けた。



(…雨が降りそうだな。)

 飛影は雨脚が近付いてくる冷えた空気を感じ取り、遠方で雲を照らす雷光を見やった。恐らく、しばらくしたら雨が降るだろう。となれば、海は荒れる。沿岸部に行けば高波に飲み込まれる危険は高い。冷静にそう考えるのは、一度海に落ちた経験があっての事だった。
 正直、海を甘く見ていた。あの時は身体が負傷していたのも大きいのだが、予測できぬ水の動きや海水に体温が奪われた瞬間、不覚にも恐怖心を抱いてしまったのだ。だが、それと真逆な、穏やかなさざ波や煌びやかに太陽の光を照らす美しさには度々息を呑んでいる。その緩急さから、まるで海にも自分達と同じように感情を持っているのではないかと錯覚してしまうほどだった。
 だが、今の海は穏やかさなど、恐らく皆無だ。寧ろ、怒りに身を任せようとしているところだろう。もし落雷したら、電流は四方八方に広がり海面を泳ぐ者は感電する。潮も長きに渡り海で生活し、自分よりも知識や経験は長けているはず。恐らく今晩は海蝕洞には現れないだろう。
 飛影は鬱蒼と生い茂る森をぐるりと一周見まわした。どこか、今晩の寝床になるような場所は無いだろうか。雨が降るのなら木の枝は避けたいところだ。そんな事を思いながら一歩歩んだその瞬間、ぱきん!と足元で音が鳴った。どうやら足元に落ちていた細長い木の枝を踏んでしまったらしい。特に気にせず再び歩もうとしたのだが、ふと脳裏にその音が再び過った。
 それは、以前潮と一晩共に過ごした際、焚き火の音で現実に引き戻されたあの瞬間だった。理由は判然としている。あの日の晩、初めて自分自身が抱いていた想いに気付けた日でもあったからだ。必然と、潮の笑顔や声が脳裏に反芻される。…まさかとは思うが。このタイミングで潮の事を思い出すと、妙な胸騒ぎは治まらなかった。

「…チッ」

 飛影は訝しむと踵を返し、地を蹴った。

 森を抜けてしばらくした後、目的の海岸まで辿り着いた。見慣れた岩石を降りながら、改めて空を見やると分厚い雷雲が先ほどよりも近付いており、ついには頭上から大きな雨粒が落ちて来た。ぽつり、ぽつりと降り注ぐ度に岩石や砂浜が染みが広がり、次第に雨脚は強くなる。飛影が洞窟に入る頃には、まるでバケツの水をひっくり返したかのような豪雨になった。それに相まって雷鳴が激しさを増している。
 飛影は洞窟の奥を見やった。いつも焚き火をする円卓の小石の辺りには姿はない。だが、その隣にある岩陰から気配を感じた。まさか、と思い足を運ぶと、そこには背を丸めて蹲っている潮がいたのだ。

「おい、何をしている!?」

 飛影が思わず声を上げ、蹲る潮の肩を持ち無理矢理振り向かせた。潮が俯いていた顔を上げると、飛影は目を見張り息を呑んだ。

「ひ、えい…」

 吐き腫らした瞼。震える身体。血色の悪い唇や頬。そして肩を抱くように交差した腕、その先に延びる右手の甲には幾つもの爪痕が残り微かに血が滲んでいた。

「来てくれて、嬉しい…」

 それでも、涙を拭い力なく笑う潮。その蒼色の瞳には翳りが生じている。飛影は胸の奥が何かに鷲掴みされたような重みを感じ、考えるよりも身体が先に動いた。咄嗟に抱きしめた潮の身体は完全に冷え切っており、その細い体躯は今にも折れてしまうのではないかと感じてしまう程弱弱しい。飛影の腕に力が籠った。

「何故海に逃げなかった!?こんな日にここへ来ることはないだろう!」
「うん。分かってる…。でも、どうしても飛影に会いたかったの。…来てくれるって、信じてたから」
「…もし、俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」
「さぁ。…鱗が乾いて、死んじゃっていたかもね」
「そんな事、俺が許さん」
「…大事な商売道具、だから?」
 
 その言葉を耳にした飛影は、まるで狐につままれる思いだった。無意識のうちに、目が泳ぐ。
 …そうだ。もとはと言えば、牛鬼蜘蛛を倒せば潮の身体は好き勝手にしていいという話しだった。闇市場や見世物屋に売り、巨額の金を手にするそもそもの目的があったはずだ。…だが、今潮からその言葉を聞くまで、そんな事はとうに頭から抜けていた。己にとって、潮の存在がただの商売道具ではない事は、もうとっくに気付いていたのだ。
 だが、この思いを口にするにはなんと言ったらよいのやら。…いや、寧ろ伝えられる日が来るのだろうか。そんな逡巡からか、敢えてその思いは直接口にせず今まで過ごしてきた。しかし、潮から突かれれば思わず口を噤んでしまう。胸中が攪拌され、苦々しくも出た己の声は実に弱弱しかった。

「…さぁな」
「否定、してくれないの?」

 潮の声色が落ちる。抱きしめていた肩が落胆したように感じたのは気のせいではない。飛影は抱きしめていた潮の身体を少し離し、対峙した。顔を上げた潮の瞳には新たに涙が浮かんでおり、瞬きをする度にその雫が頬を伝い地を染める。飛影の眉間の皺がますます増え、眉根の微動が止まらなかった。
 …違う。潮にこんな顔をさせたいわけではない。だが、初めて会った時にあんな事を言った手前、今更弁明は自分の中で許されず、その一方で内なる声が殻を破りそうな叫び声を上げていた。己の心が天秤にかけられ、上下する。困惑しながら思案していると、ふと自分の胸元に下がる氷泪石に視線が落ちた。
 飛影は首から氷泪石を外すと、それを潮の掌におさめた。

「…なに、これ?」
「しばらくそれを見ていろ」

 飛影は立ち上がると、いつものように焚き火の準備をし始めた。湿度が高い為、なかなか火が付かなかったが、何度か試しているうちにようやく着火した。
 火に照らされつつ潮の様子を伺うと、彼女はまるで食い入る様に氷泪石を見つめている。飛影の視線に気付いたのか、潮はようやくこちらに近付き腰を下した。先程の曇った表情は既になく、穏やかな瞳をしている。

「すごく…綺麗な石。見てると心が落ち着く…」
「…氷泪石だ」
「ひるい、せき?」
「俺の…母親の友人からの物だ。世間では至高の宝らしい。そいつを首から下げてるだけで血肉には苦労しなかったぜ」
「でもこれ…大切な物なんでしょう?」
「…やる」
「え?」
「持っていろ」

 飛影は氷泪石を取り上げると、潮の首にかけた。

「えっ…どうして?だってこれ飛影のお母さんの…」
「俺にとって、そんなもの至高の宝じゃない。ただの石っころだ。…今は、それよりも、」

 飛影の手が伸び、潮の頬に触れたその瞬間。海鍾洞の外で強い白き光が辺り一面を染め、瞬く間に雷鳴の轟が響いた。

「ひっ…!」

 潮が飛影に身を寄せ、耳を塞ぎ俯く。その姿に飛影は一瞬たじろいだが、潮の震える肩や身体を見ると全てを察した。雷が怖いのだろう。
 雷など、今まで何度も耳にしてきたのだから今更なんとも思わない。飛影にとってはその程度のものだが、潮にしてみれば今まで海の世界でしか生きて来なかったのだから、地上で目や耳にする雷音や雷鳴は恐怖でしかないようだ。
 無意識に飛影の手が伸び、潮の肩に回そうとした時、彼女の顔が上がった。恐怖から逃れようとしているのか、表情は硬く強張ってる。

「ごっ、ごめん…大丈夫だから…」

 潮は力なく笑ったが、痛々しい笑顔だった。飛影がふと視線を落とすと、彼女は右手の甲に更に爪を立てていたのだ。飛影は咄嗟に潮の右手を取り、空いた片方の手で彼女を抱き寄せた。

「飛影…?」
「そんな事をするのはもうやめろ。…しばらく、こうしててやる」
「…っ!…ありが、とう…」

 ここで初めて、潮の肩の力が抜けた。釈然としたのか、ようやく飛影から伝わる温もりや優しさが心を染めてゆく。潮の腕がゆっくりと飛影の背に回ると、それに倣い互いの身体は更に抱き合った。
 海蝕洞の外では相変わらず豪雨と雷鳴の音が度々あるが、潮の恐怖心はまるで嘘のように音の中に消えた。心に長きに渡り住み着く蟠りが、初めて消えた瞬間でもあったのだ。飛影の胸元から伝わる鼓動、身体を包み込んでくれうような体温、…全てが安心する。

「飛影の身体、あったかい…」

 潮が顔を上げ、飛影と視線が絡んだ。先程の恐怖に染まった表情はそこには既になく、穏やかで柔らかい笑顔だった。目尻に溜まっていた涙も止まっている。
 その笑顔は、飛影の精神も弛緩させた。腕の中にすっぱり納まる潮の細い身体や、背に回る腕、そして屈託のない純粋無垢な笑顔と心。潮との関りは庇護欲が高まり、存在証明が与えられているかのような気分になった。その一方で、今まで数多の命を殺め血に染まった手で、穢れを知らぬ彼女を抱きしめるのは多少なりとも罪悪感はあったが、牛鬼蜘蛛から彼女を守り通したい思いがそれを上回ったのだ。

「…潮」
「なに?」
「俺は、必ず奴を倒す」
「うん。…信じてるよ」
「奴を倒したら…、」

 俺も、お前と一緒に生きたい。

 飛影がその言葉を心で唱えると、潮は首から下がっている氷泪石を握りしめた。
 だが、その瞬間。ふと潮の脳裏に突如映像が流れ込んできたのだ。それと同時にこめかみに激しい痛みが走り、思わず表情を歪める。
 突然の事に飛影は瞠目し「どうした?」と尋ねるが、潮はこめかみを抑えたまま俯いてしまった。

「おい、潮…!」
「―――ッ…!痛っ…!」

 俯く潮の脳裏には先ほど流れて来た映像が徐々に色付かれ、音や景色も鮮明に伝わってきた。
 その情景は崖先で、その奥には鬱蒼と生い茂る森があり、そこから飛び出してきたのは牛鬼蜘蛛だった。あの粘着質な厭らしい笑顔でこちらへ迫りくる牛鬼蜘蛛が口を開けて毒を飛ばし、物凄い勢いで向かってくる。その姿は身の毛もよだつ様な恐ろしい妖気がひしひしと伝わり、指一本ですら動かせず身体が硬直してしまう。
 牛鬼蜘蛛が勢いよく前足を振り上げた。―――殺される。そう、思った瞬間。
 突如黒い影が自分の身体をすり抜けて前に立ちはだかり、その影の上腹部に牛鬼蜘蛛の前足が貫通した。影の動きが止まるとその姿が露わになり、貫通した箇所からは大量の血が流れ出た。その様子を目の当たりにした潮の背が粟立ち、全身に震えが走る。
 その影は、飛影の背だったのだ。

「―――ッ嫌ぁ!!」

 潮がかぶりを振り、声を荒げると映像は瞬時に消えた。同時に、こめかみに走る痛みも徐々に消えたのだが、呼吸が苦しく激しく肩で息をしている。飛影は潮の肩を掴んだ。

「潮っ!しっかりしろ!!」
「っ、ひ、えい…」

 顔を上げた潮の目尻には涙が溜まっていた。先程の恐怖心とは比べ物にならぬほどの顔面蒼白さや、動揺が抑えきれず身体中に走る震えは尋常ではない。

「一体どうしたんだ?」
「あっ…」

 潮の脳裏に再び過る映像。それを飛影に打ち明けるのは、本能が危険だと訴えた。だが、飛影は先ほどよりも心配そうにこちらを窺っている。潮は少々迷い、戸惑ったが、やはり今はその優しさを受けとめられなかった。
 潮が苦し紛れに、笑顔を取り繕った。

「…ちょっと、疲れちゃっただけ。驚かせてごめん。…平気だから気にしないで」
「何を誤魔化しているんだ。一体何が起きたんだ?」
「なんでもないよ。本当に大丈夫だから…。だから、これ以上は聞かないで…」

 再び、潮の身体が飛影の胸の中に飛び込んだ。必死に、何度も「大丈夫だから」と呟くその声は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
 飛影はこれ以上何も聞けず、再び潮の身体を抱きしめたが、彼女の身体の震えはしばらく収まることはなかった。


 雨脚が尚も続く中、波は荒れ、遠くでは激しく雷鳴が響いている。
 それら全てが、まるで二人を嘲笑っているかのようだった。



次へ進む


戻る












×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -