85 涙葬送

「私…苦しいの…貴方が欲しくって…どうにかなっちゃいそう…」

 …何が「どうにかなっちゃいそう」だ。よくもまぁ、こんな状況でそんな言葉が出てくるものだ。濱蒔の男への関りはいくら芳しい演技といえども、当然羨望する気持ちは生まれず、そして自分には到底真似出来ない。そんな悪態をつきながらも躯はいつものように横になり、薄ら瞼を上げて向かいの牢屋での様子を確認していた。
 毒づきながら反芻するのは、数刻前に濱蒔とした会話だった。

「…手を組む、だと?」
“そう。私と一緒にここを出ましょう?躯だって、こんなところで一生を終えるなんて嫌でしょう?”
「それはそうだが…。でも、どうやって?」

 躯は首輪の旨を手短に説明した。
 こいつのせいで潜在する力の半分も出し切れず、今まで何度も脱出を試みたが、それはやはり難しかった。脱出を失敗する度に身体には新しい傷が刻まれ、心は虚無と化し、その時の記憶が所々飛んでいるのも、また事実だった。もし、失敗したら…ましてや闇市場に売り出そうとしている人魚と手を組んで、という事が露呈してしまったら。想像すれば、それだけで躯の全身が粟立つのは必然だった。
 だが、濱蒔は発案したのは「自分が囮になる。その隙に痴皇の部下を倒そう」という、実に安易な考えだった。…とはいえ、濱蒔の言う通りこのままここで一生を終えるのも勿論断固として避けたい上、散々自分を罵ってきた痴皇の部下等に一発拳を振るわせたい思いも否めない。脱出して自由になれたら…そんな僅かな希望が現実になろうとしているのは疑い深かったが、己の心に欲が芽生えては最早後戻りは難しかった。

 躯は濱蒔と入念に作戦を練った。
 まず、痴皇の部下等には階級がある。下層部に行けば行くほど妖力の低い雇われ妖怪がいるのだが、そいつらは能力に比例して知能も低い。彼らの生業と言えば、痴皇の部下等の後について商売の手伝いをしたり、躯をはじめとする商売道具に食事を運び様子を確認する程度の事だ。その中でも、特に愚鈍そうな奴に狙いを定める運びとなった。

 そしていざ、作戦が実行されようとした食事の時間。二人の望みは、存在するのかも分からぬ神に届いたのか、下層部妖怪でも最も愚鈍そうや奴が牢屋を訪れた。蝋燭の灯りと共に男が現れた瞬間、躯はいつも通り横になりつつも、視線を濱時に送り、そして「コイツだ」と顎で示した。

 そこからは濱蒔の女優さながらの演技力によって、男は瞬く間に彼女の虜となった。濱蒔の…人魚族の潜在している色香を最大限に発揮し、甘い言葉で誘惑するその様に、躯は同じ女として最早拍手を送りたいほどだった。男が知能の低さを露呈し、警戒心が弱まったところでこちらの思惑通りに動いてくれたので、功を奏したと言えばそうなのだが。
 …自分も性奴隷という立場だからだろうか。濱蒔が男を誘惑し、奉仕する様は、普段の自分がどのように扱われているのかを投影した、言わば鏡のようだった。
 躯は男を悦ばせる事でしか生きる術を許されず、今まで何度も死を覚悟してきたが、心の奥底では濱時に指摘された通り「生きたい」という本能が火を灯していた。か細く灯るその小さき火は、もしかしたら炎と化す未来が待っているかもしれない。…チャンスは一度だけだ。これだけは絶対に逃せなかった。躯は薄ら目を開けながらも息を潜め、光明の光をじっくり待った。

 男が濱時の頭を掴んだ。順調にこちらの思惑通りに動いてくれるこの男には、ある意味感謝すべきだ。
 濱蒔の手は男の男根を、もう片方の手は男の腰回りへするりと回った。その先にはベルトについている円型のカラビナがあり、幾つもの鍵が通されている。男が快楽を感じている最中、濱蒔はゆっくりとベルトを抜きカラビナを外そうと手先を器用に動かしている。そして男が達する瞬間ベルトからそれが外れ、鍵は濱蒔の手の中に確実に収まった。
 濱時は男に隙を与えまいと再び奉仕を再開した。男は天を仰ぎ自ら腰を振るう程、快楽の海に溺れている。その隙に濱時は流し目で牢屋の柵の隙間、そして躯を捉えた。…濱時からの合図だ。躯は上半身を少し上げ、そして濱蒔と対峙する延線上に場所を微調整し始めた。男が二度目のオーガズムを迎えた瞬間、濱時は鍵を牢屋の隙間から滑らせ、それを躯が見事受け取った。

 ここからが躯の出番だった。
 手にした鍵をすぐさま己の首輪の鍵穴へ突っ込んだ。以前、他の部下達の談笑の中で「牢屋と首輪の鍵を同時に管理出来たらいいのに」と話していた事を覚えていたのだ。知能の低い妖怪を雇う上では管理の面で苦肉の決断であり、致し方ない事だったらしい。あの時の己の記憶に賭けて鍵を手にしたのだが、どれを試しても鍵穴にはピッタリとは嵌らない。躯に焦りが出始め、無意識のうちに指先に震えが走り始めた。
 …不味い。濱蒔が時間を稼いでいる間になんとかしないと。男を翻弄させるのだって、妖力が限られた中では限界がある。どれだ、どの鍵なんだ。カチャカチャ、と金属がぶつかる音だけが聴覚を支配する。躯の額から冷や汗が一滴垂れた瞬間、かちゃんと音が鳴った。ようやく解錠されたのだ。同時に首輪が外れ、咄嗟に手で抑えた。音を立てぬよう恐る恐る首輪を床に置く最中、まるで腹の底から熱き何かが沸々と漲ってくるような、不思議な感覚に襲われた。背筋を伸ばし深く深呼吸すると、その瞬間熱き何かが覚醒し、全身の血が指先の隅々まで一気に駆け巡った。
 その後は、本能のままに身体が自然と動いた。潜在した力に身を任せ、牢屋の鍵部分に手を翳し少し力を放出すれば、向こう側にある南京錠も含め瞬く間に粉々になった。粉塵が舞う中静かに牢屋を出ると、息を殺しながら濱時の元へ歩んだ。今と同じように向かい側の鍵を再び壊し、静かに中へ入ると、目の前には汚い面のまま天を仰ぐ男がいた。彼の足元に挟まっているのは濱蒔だ。
 躯の顔が瞬時に熱くなった。眉根が上がり、こめかみには青筋が生まれ、眼光に鋭さが宿る。今まで蓄積されてきた憎々しい感情や濱蒔への庇護、そして漲る力を解き放ちたい欲望…それらが躯の胸の中で激しく攪拌していた。
 躯は数メートル下がり、腰を落として拳に力を込めると、思い切り地を蹴り跳躍した。右手に込められた思いに全てを賭けたのだ。その瞬間、一瞬目を張った男と視線が絡んだ。が、瞬く間に中肉中背の汚らしいその巨漢は激しい衝突音と共に牢屋の壁に激突した。

「…お見事ね」

 口元に付着した白濁汁を手の甲で拭う濱蒔。苦々しい表情ではあるが、ようやく素の自分を出せた事に安堵したのか、口元の両端が微かに上がった。

「大丈夫か」
「ええ、なんとか。…それにしても、躯の力ってすごいのね」
「そんな事はどうでもいい。早くここから出るぞ」

 躯は再び鍵を手に取り、濱蒔の首輪を外そうと鍵穴に入れ始めた。ここでも先程のように上手く嵌らず、再び躯の表情に焦りが見え始めるが、試しているうちにふと気が付いた。…そういえば、自分についていた首輪の鍵穴と大きさが違うような…?いや、まさか、ここへ来てそんな事は…。そんな不安が過り、かぶりを振りたくなったが、残された鍵は三本となった。躯の指先に再び震えが走る。二本の鍵は嵌らず、残るは一本だ。だが、その最後の鍵でさえも濱蒔の首輪には嵌らなかったのだ。

「何で…何でだ…!?」
「…躯、もういいよ。…きっと鍵が外れないのは、躯とは違う目的で捕らわれたからよ。だから鍵の種類が違うんじゃないかしら。私は元々闇市場で売られる予定だったから…」
「…お前、もしかして…」

 躯の目が見張ったが、それに相反し濱蒔は諭すような笑みを浮かべるだけであった。それが全てを裏付けているようで、躯の瞳は震える。まさか、彼女は全部分かっていたのだろうか。
 囮は男に隙を与える為。牢屋で男に手を下すよう―仕向けたのは躯の心情を汲んだ為。…では、濱蒔の未来はどうなる?

「――濱蒔、俺と一緒に逃げよう」
「駄目よ。…ここへ運ばれてくる時、水槽の中で部下達が話していたのを聞いたの。私の首輪は妖力を抑えるだけではなく発信機が埋め込まれているみたい。巨額の金が動くビジネスだから抜け目がないって事なのよ。だから、私と一緒にいたら貴女も見つかってしまう。…躯、貴女一人で逃げるのよ」
「ふざけるな!!じゃあ何であんな思いまでして俺を…!」
「言ったじゃない。“生きたい”って声が聞こえたって。…自分の本心から目を背けては駄目よ。どうか…私の分まで生きて?」

 躯の鼻の奥がツンと熱くなった。唇を噛みしめ、再び拳が握られる。その最中、濱時は右手人差し指を躯の額に当てた。

「…これが最後の力よ。この男の意識と記憶を読んだの。この屋敷の出口は、廊下を進み左に曲がると正面玄関へ出る。でもそこには常に警備の妖怪が居るから、キッチンの裏口から出るのよ。食事の時間が終わって、そこだけが手薄になっている。…行くなら今しかない」

 躯の脳内に、濱蒔が説明した景色がぼんやりと浮かんだ。はっきり見えたわけではないが、これだけの説明があれば逃げ道は十分理解出来る。
 そしてぼんやりとした景色は、濱蒔の力の弱まりを裏付けていた。

「…濱蒔は…濱蒔はどうするんだ?」

 躯は眉を下げて問うたが、濱蒔は躯の手を取りにこりと微笑むだけであった。この笑顔は美しくもあり、そして恐ろしいほど儚い。そこに濱蒔の思いが全て含まれているかと思うと、躯は心臓が鷲掴みされるほどの苦しさを感じずにはいられなかった。

「…時間がないわ。さぁ…行くのよ…」

 濱蒔の手がゆっくりと離れた。今この手を離してしまったら、濱蒔とはもう一生会えないのではないだろうか。そんな不安が躯の心を染めたが、これ以上は時間が許してはくれなかった。
躯は一拍程目を伏せ、深呼吸をするとゆっくりと瞼を開けた。濱蒔の目の前には、希望を失い虚無を彷徨う少女は既に居なかった。その鋭い眼光の中には隙の無い精悍さ潜んでいる。この少女は覚悟を決めたのだ。

「…濱蒔の事は、一生忘れない」
「ありがとう…。さようなら、躯」

 別れを告げた躯は踵を返し、牢屋を飛び出ると地下室の階段を駆け上がった。眠っていた妖力を発揮出来たおかげで、蝋燭の灯りが無くても暗闇の中で足元が見える。先程拳を振るった時もそうだったが、今まであの首輪のおかげでどれだけ力が封じ込まれていたのか目に見えて分かる事だった。
 躯は地下室の扉を開けた後、濱蒔に教わった通りの道順で屋敷を駆け抜け、キッチンの勝手口から外へ飛び出した。久方ぶりに見る太陽の光がやけに眩しく、目が眩んだ。心に灯る小さき炎が立ち上ろうとする最中、瞬きをすれば瞳からは大粒の雫が一つ溢れ、地へ落ちていった。


 
 凪沙の脳内を巡る映像がパタリと止まり、瞼を上げた。そこには水で潤んだ視界が広がっており、訝しんだ際瞬きをすると己の頬に何かが伝った。自然と手が伸び、指で触れると、それは涙なのだと改めて気が付いた。

「…これが俺の人魚族から受けた恩恵だ」

 躯が手を下し、静かに語り掛けてきた。その目つきは先ほどの精悍さはなく、まるで切なさと悲しさが交錯したような目元や、寂し気な笑みを浮かべる口元があった。

「…脱走した後、しばらくしてから追っ手に捕まってな。再び屋敷に連れ戻されたんだが、俺は自ら酸を被り主人や部下の意識を逸らした。顔半分が焼けた醜い小娘に用はないと、呆気なく捨てられたのさ。俺は顔半分と…濱蒔を失ったその代償に魔界の均衡を保つ程の力を手に入れた。俺は彼女のおかげであの腐り切った鳥籠から飛び出すことが出来たんだ。…だが、どんなに力をつけようとも…濱蒔はもう帰っては来ない」

 後に聞いた話ではあったが、人魚族はそれからしばらくしてから絶滅した。生きてさえいれば、いつかまた彼女と再会できる。そんな願いを心の奥底に眠らせて今まで生きてきたが、残念ながらそれが実現することはなかった。

「…だが、絶滅した人魚族の末裔がまさか人間界にいたとはな。俺はお前に会えて嬉しかった。…ありがとう」
「…っ躯さん!」

 凪沙は思わず躯の胸の中に飛び込んだ。凪沙の突飛な行動に躯は目を丸くしたが、背中に回る彼女の手の力を思うと突き放すわけにはいかなかった。

「お礼を言うのは…私の方です…。…生きててくれて、ありがとう」
「――ッ!」
「それに、…濱蒔さんは…もう、亡くなっているけど、…でも身体は残っています」
「…どういう事だ?」
「剥製です」

 凪沙は泣きじゃくった顔を上げると、目を見張る躯と視線が絡んだ。剥製、と聞いて躯の脳裏に過去の記憶が過った。濱蒔が牢屋に運ばれてきた際、部下等がコレクターがいるだの何だのと話していたような気がしたのだ。まさかとは思うが、本当にそうなったのだろうか。

「以前、魔界で仙水が戦っていた時…彼の意識を見たんです。その時、仙水の記憶の中に濱蒔さんと同じ姿の…人魚の剥製が出てきました。それは人間界のどこかにある屋敷で見つかったんです…。…もしかしたら、霊界に聞けばそのありかが分かるかもしれない。そうしたら、濱蒔さんは――」
「――もう、いい」

 躯は凪沙の身体を包み込むように抱きしめた。

「…それだけ分かれば、十分だ。濱蒔の魂は、生きていたんだな」

 剥製となった濱蒔は、きっとあの時のままなのだろう。彼女の源となる心は一糸の淀み等無く澄んでおり、そこから内なる美しさが引き出されているに違いない。後々、人魚族は臆病な種族だと聞いたが…窮地に立たされた時こそ、彼女達の本当の力が発揮される。身を護る術は、人を守る術でもあったからだ。
 人魚族は生まれ持った血肉や美しさに魅了され、昔から敵が多かった種族だ。恐らく、濱蒔も周りの仲間から助けられて生きていたのだろうが、痴皇の目に留まってしまいあの屋敷に連れ込まれてしまった。だからこそ、今度は自分が犠牲となり己に手を差し伸べてくれたのだろう。

「…これで人魚族に助けられるのは二度目だな」
「え?」

 躯は腕の力を緩め、凪沙と対峙するよう彼女の肩に手を置いた。

「いや、なんでもない。…凪沙、改めて本題に移るとする。俺がお前を魔界へ招待したもう一つの理由についてだ。それを話すには、ここでは都合が悪い。…俺についてこい」
「…はい」

 凪沙が躯に案内されたのは、要塞の一階にある奥の部屋だった。躯の後を追い薄暗い廊下を歩む最中、凪沙の胸中では躯の話す“本題”について逡巡していた。光明も話していたが、自分が魔界へ連れて来られたのは飛影に何かあったからだ。飛影が魔界へ旅立ってからしばらく経つが…一体何があったのだろうか。
 躯が部屋の扉を開けると、暗闇の最奥で仄かな緑色の光が灯っているのが見えた。凪沙が訝しむ中、躯に続いて部屋の奥へ進んで行くと、その光の実態が徐々に明らかとなってきた。
 凪沙は思わず自分の目を疑い、瞳を震わせた。

「…飛影!!」

 凪沙の目の前に現れた緑色の光。それは大きな硝子張りの中で無数の管が付けられ、目を閉じている飛影がそこにいたのだった。



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