86 喪失が満ちる

 無数の管に繋がれ、瞳を閉じている飛影。水中内でも呼吸は安定しているのか、酸素マスクのような器具からは定期的に小さな水泡が上昇していった。暗い部屋の中で薄気味悪い緑色の光を放つこの縦型水槽の中に、自分の思い人でもある人物が入れられ、ましてや健常ではない状態を見せられては、凪沙は冷静を保てるはずがなかった。
 凪沙は地を蹴って躯を追い越し、飛影が眠る水槽の前へ来た。拳で水槽を何度も叩き、飛影の名を呼ぶが、彼の瞼は一向に開かない。恐らく意識もなく、凪沙の声がどこまで届いているのかも定かではないため、凪沙の表情が徐々に曇り、焦りや不安が瞬く間に増幅していった。
 背後に躯が来ると、凪沙は振り返った。

「躯さん…飛影は…飛影はどうなってるんですか?このまま死んじゃうんですか…!?」
「いや、命は落としていない。…正しくは、命を落とそうとした、だがな」
「えっ…。なん…で…?」

 凪沙の目が見開かれた。
 飛影が命を…落とそうとした?何故?どうして?
 答えの見つからぬ疑念に悶々とし、戸惑いから瞳が震える。すると躯の視線が、水槽で眠る飛影へと投げられた。

「…凪沙。どうして俺が、お前が人魚族の血を引いていると知っていたと思う?」
「それは…光明さんが調べたから…ですか?」
「半分正解だ。光明はその情報を元にお前の事を調べ、居場所を突き止めたに過ぎない。では、その情報の根源は一体どこからだったと思う?」
「え…?根源…?」

 躯の視線は未だ飛影を捉えたままだ。まさか、と思い、凪沙の視線も躯に倣った。

「飛影が…?」
「それも半分正解だ。…コイツの意識が全てを教えてくれた」

 躯の身体が凪沙へと向けられ、凪沙もまた、それに倣う。二人の視線が絡まり、室内には飛影の呼吸に伴う水泡の水音のみが漂っていた。
凪沙の身体に異様な緊張が走り、その一方で躯の言葉をどう解釈すべきか戸惑いもあった。

「凪沙、俺は魔界の均衡を保つほどの力を手に入れたと話したよな?妖力を付けていく中で、俺も手にすることが出来たんだ。…濱蒔と同じように、相手の意識に触れることが」
「…えっ?」
「俺は飛影の意識に触れた。…コイツの意識は今まで触れた中で、一番温かく心地良いものだった。同時に、この男が何を思い、何を目的として生きてきたのかも…全て分かった」

 その言葉を聞き、凪沙は突かれる思いだった。以前飛影が魔界へと旅立とうとした際、そこで初めて彼の事を何も知らない事に気が付いた。その事を思い出したのだ。飛影の生い立ちや人間界へ来た目的、そして…何を思って再び魔界へ戻ったのか。
 だが、自分が知りたかった飛影の全ては躯はいとも簡単に手にしていた。凪沙の中に無意識に女としての嫉妬心が生まれ、表情がみるみるうちに訝む。
 その様が滑稽だったのか、躯からは悪戯な笑みが生まれた。

「そう怒るな。俺はそんなつもりでこの話をしたわけじゃない。…さっき、人魚族には借りがあるって話しをしただろう?俺はその借りを返したいだけだ」

 先ほどと同じように、躯の右手が凪沙の額へと伸ばされる。まるで濱蒔がやった時と同じような、ゆったりとしたその動きは人差し指が届いた頃に止まった。凪沙は不思議そうに躯を見やった。

「これから凪沙の意識と飛影の意識を共有させる。お前ら二人は互いの事を知った方がいい。…いや、寧ろ知るべきだ。…凪沙の中に眠る、もう一つの意識もな」

 凪沙の目が見張り、息を呑んだ。もう一つの意識、と聞いて思い当たる人物は一人しかいない。…もしかして潮の事だろうか。

「俺が気付かないとでも思ったか?さっき、俺の意識を見せた時に気付いたんだ。お前の意識の片隅に、全く別の人物がいたとはな。…その女も、飛影への思いが根強く残っている」

 凪沙の意識に在するその女は「飛影を助けて欲しい」と、今にも消えそうなか細い声で叫んでいた。加えて、それが出来るのは凪沙しかいないとも訴えていた。
 躯は彼女の声に気付いた際度肝を抜かれたが、素直に頷けたのは飛影の意識に触れた後だったからこそ、だった。そして彼女も人魚族の一人であるからしにして、その声を蔑ろになどせず耳を傾けたのも事実だ。

「飛影の心に響く言葉は、凪沙にしか生み出せない。潮と名乗る女はそう言っていた。凪沙、濱蒔が俺にしてくれたように…飛影にも生きる希望を与えてやってくれ」

 躯の人差し指から白き小さな光が灯される。少しずつ膨張していくそれと共に温かな熱が生まれると、まるで微睡みの世界へと誘われるようだった。温かな光に導かれるよう凪沙の瞼がゆっくりと落ち、視界は徐々に暗闇に呑まれてゆく。
 躯の話す“心に届く言葉”、そして“生きる希望”とは一体どういう事なのだろう。凪沙はぼんやりとした頭で考えていくうちに、視界は完全に闇に飲み込まれ、がくんと膝が崩れた。躯が咄嗟に抱きとめると、凪沙は深い眠りの世界へと旅立った。

「…飛影を救えるのは、お前しかいないんだ」

 躯の呟いた声は水泡の音と共に溶けていった。


 深き眠りへと誘われた凪沙は暗闇の中で己の意識に気が付いた途端、「またあの感覚だ」と率直に思った。あの感覚とは、自分が初めて人魚になった時や仙水戦で潮と話した時の事だ。
 底の見えぬ深き海の中を漂い、四肢が鉛のように重くずっしりとしている。漆黒の闇の中でゆっくりと瞼を上げれば、そこで初めてつま先が地に着いた。重力に応じて地に両足が着くと、足元から鉛のような重さは浄化していく。
 凪沙が前を見据えると、目先の向こう側に柔く淡い薄紫色の光が灯っており、考えるよりも身体が先に動いた。導かれるように一歩ずつ歩み、そこへ赴く最中、その光は尚もふわふわと浮遊している。まるで「こっちへおいで」と言っているようだった。
 凪沙が光と対峙し、自然と手を伸ばし光を包み込むように掌で囲むと、不意に背後に誰かの気配を感じた。振り返ると、そこには笑みを浮かべている潮がいたのだ。気付けば潮は凪沙の手に重なるよう、同じようにその光を掌で囲っている。

“…この瞬間を待ってたの。凪沙と一緒にこれを受けとめたかった。躯さんってすごいのね。こんな妖術を使えるなんて”
「潮さん…どうして…?」
“あなたに知ってほしかったの。…飛影と、私の過去を。さぁ、光に触れて。これはあの人の…飛影の意識よ”

 凪沙は改めて光を見やった。柔い薄紫色をしているこの光は、どうやら飛影の魂を具現化したものらしい。躯の桁違いの妖術に瞠目すると同時に、流石は魔界の均衡を保つだけの力をは持っていると合点した。
 凪沙と潮は、ゆっくりと光を包み込むように手を閉じていった。掌に仄かな温かい薄紫色の光が触れた瞬間、凪沙の脳内には鮮明に色づいた映像や現実味のある音が送り込まれ、身体全体では冷たい風が触れたような皮膚感覚を感じた。鼻先には冬の寒さを感じるツンとした冷えが走り、まるで五感全てに飛影の意識が送り込まれているようだった。
 最初からその時、その場所にいたような不思議な感覚になり、次いで瞬く間に視界に飛び込んできたのは薄暗い猛吹雪の映像だ。よくよく目を凝らすと、氷山の先端に誰かがいる。様子を伺うと数人の老婆が一人の若い女を抑え、そして氷山の先端には赤子を抱いたもう一人の若い女がいた。その赤子は御包みに包まれているのだが、それには呪符が何重にも巻かれている。
 赤子を抱いている女――泪は、赤子を抱きながら数日前の出来事を改めて回想した。

「氷菜が男の赤子を生んだじゃと!?」
「おお…なんと恐ろしい…忌み子、忌み子じゃ!」
「氷菜の奴、百年周期の分裂期に合わせて男と密通しよったのじゃ…!」
「なんという恐ろしく汚らわしい娘じゃ…!」
 
 老婆達が苦いものを口にするような表情で会話を交わしている。泪はその忌み子と呼ばれる赤子を抱きながらも、老婆達の老かいな会話に胸が痛んだ。いくら忌み子であっても、そして禁を破った我が友人でもある氷菜の子を簡単に手放し、ましてや蔑ろにするほど非情にはなれなかった。また、長老達に盾突く力量がない己への怒りや情けなさから、赤子を抱く手に静かに力が入った。

 氷河の国は下界との交流を避け、暑い雲に覆われている。そして氷女の寿命は限りなく長く、百年ごとの分裂期に誰の力も借りずに一人の子を産む。子供はまさに分身であり、全て女である。…男と交わらない限り。
 
 数日前、氷菜は泣き崩れながら老婆に頭を下げた。

「返して!私の子どもを返してください!!」
「氷菜、お前は氷女の禁を破った。過去、忌み子がこの氷河の里にどんな災いを齎したか…。女児は我らの同胞。だが男児は忌み子。必ず災いを齎す…!」
「それなら私が子の里を出ます!子どもは私が育てます…だから返してください!」
「ならぬ!忌み子は追放じゃ!」
「そんな…うっ…うぅ…ッ」
 
 氷菜の涙した願いは届かず、氷河の国では着々と忌み子を追放する準備が行われていた。皮肉にも、忌み子を追放する役割を担うのは懇意でもあった泪が選ばれた。
 泪の心は天秤にかけられた。友人である氷菜を助けたい思いと、里の一枚岩となる長老達に逆らえぬ悔しさが交錯していたのだ。胸中が攪拌され、逡巡し、その結果後者を選び良心の呵責を感じる事となったが、ここまで来ては後には引けなかった。
 氷女が流浪の国で漂流生活を強いられるのには訳がある。氷女が異種族と交わった場合、子どもは男児の身が生まれ、しかも凶悪で残忍な性格を有する場合が極めて多い。そして男児を生んだ氷女は例外なく死に至る事が多く、それら全ては氷女の種の怨憎を危ぶませる為である。

「泪、情けは無用じゃ」

 老婆の声により、泪はハッとした。背後を一瞥すると、逸る老婆達に見つめられ、そして懇願する視線を送る氷菜と視線が交わった。泪の瞳が一瞬揺らいだ。だが、彼女の手前にいる老婆達の威圧感には勝てず、目を伏せながら再び前を見据えた。

「そなたと氷菜が懇意であった事は知っている。だが情けは無用。今まで忌み子によって何人の同胞が殺された事か…。情けは無用じゃ!」

 泪は眉を下げながら赤子と視線を交わした。赤子は瞬きをせず、真っ直ぐな目でじっと泪を見つめている。紅き瞳の奥にはまるで赤子の意思が灯っているようで、こちらの心情を全て理解しているかのような錯覚に陥りそうだった。
 泪は伏し目がちで己の胸元からビー玉ほどの小さな丸い石を取り出し、赤子の御包みに入れた。御包みからは首紐のようなものがはみ出て吹雪と共に靡かれている。赤子は目元だけ不思議そうな表情をすると、泪は瞳で語り掛けるように赤子を見つめた。

 …どうか生きて帰って来て。そして最初に私を殺してちょうだい。それがあなたのお母さんへの、せめてもの償い…。…ごめんね。

 すると次の瞬間、泪は己の手をゆっくりと解き始めた。氷菜が涙を零し、老婆達をかいくぐろうとするが抑え込まれてしまった。

「お願い、やめて!!」

 氷菜が渾身の力を振り絞り、手を伸ばす。だが、赤子は瞬く間に厚い雲を切り下界へ落下していった。氷菜が泣き叫ぶ中、その姿はみるみるうちに小さくなり、やがて肉眼で捉えられなくなった。
 泪は、雲の上に浮かぶ氷河の国から赤子を投げ捨てたのだった。
 
 赤子は雲を切り下界へ落ちてゆく最中、悶々とした憎悪が生まれ始めていた。
 …この世に生を受ける前から、目も見え耳も聞こえていた。今思えば、耳元で騒ぐ婆共を皆殺しにする力くらいあったかもしれない。あの時、確実に首を取っておけばこのような事にはならなかったはずだ。…だが、生き伸びる自信はあった。生まれてすぐ生きる目的が出来たのが嬉しかった。…氷河の女を、皆殺しにしてやる。

 俺の名は忌み子飛影。氷河の国で生まれた呪われの孤児―――。




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