79 迷宮の窓より覗く

 生い茂る木々の中、桑原は周りを警戒しながら俊敏に移動し、とある大木の陰に身を隠した。動きが止まると途端に息切れが始まり、額からは大量の汗が流れる。だが、その微々たる呼吸音でさえも相手に聞こえてしまいそうで、より意識して息を殺した。
 眼球を右往左往させ、周囲を警戒しつつ移動を試みようと、右足を僅か数センチ動かした。その瞬間、背後から壮大な爆発音が発せられ、反射的に身体を屈ます。己の前に大木の影がゆっくりと大きくなる様に気付くと、慌てて身を転がし体制を整えた。倒れた大木が地面に叩きつけられた騒音、土埃と木の葉が舞う様。それらを確認した瞬間再び背後に気配を感じ、慌てて前方へ駆け出すと、聞こえてきたのは楽しそうな少女の声だった。

「桑ちゃん、見つけた」

 桑原の背筋にぞくり、と寒気が走り粟立った。振り返ったと同時に、胸部に拳が飛んできたので腕を交差し防御するも、下半身の力が足りなかったのか、その勢いと圧に押されてしまい数メートル吹っ飛ばされてしまった。尻餅をつき、慌てて体勢を立て直す間に、再び影が迫る。見上げると、額に相手の人差し指が付きつけられ、その指先には水流を纏った小さな光の魂が浮上していた。
 虚を衝かれた事を否めず、桑原は深い吐息をつくと大人しく両手を上げた。

「…俺の負けだ。立花」

 桑原には反撃の意がない。それを確認すると、凪沙は嬉しそうに口角を上げた。

「チェックメイト、だね」


 桑原は一足先に幻海邸に戻り、客間の一角に腰を下してた。上半身の数か所を負傷し、その部位は見た目よりも意外と傷が深かったので、幻海に治癒術を施されている。翳されている温かい橙色の光が心地よく、傷が徐々に治されていく様を目の当たりにすると、ようやく安堵した気分になった。

「ばあさん、サンキュー。ここまでやってもらえりゃ、あとは大丈夫だ。塩でも塗っときゃあすぐ治るぜ」
「強がるのはよしな。傷の深さは自分が一番よく分かってんだろう。…よし、こんなもんでいいだろう」
「…痛いトコ、突くよなぁ」
「本当の事だろう。ホレ、さっさと服着な」

 桑原の背にばちん!と平手打ちならぬ、喝が入れられると軽く悲鳴が上がった。不承不承と服を着る最中、客間から見える外の景色にふと視線を投げると、自然と昨夜の事が脳裏を過った。

「私、霊界探偵をやってみようと思うんだ」

 凪沙の決意表明は、耳を疑った。聞けば、蔵馬もコエンマもぼたんも、ましてや幻海でさえも反対していたらしい。周囲の反対を押し切ってまでその意思を通そうとする凪沙の思いとは、一体。それを訪ねれば、先日の蔵馬の両親の結婚式がきっかけだったそうだ。
 だがその思いに比例して、果たして彼女に霊界探偵が務まるほどの力が及ぶのか訝しんだ。寧ろ、高望みなのではと皮肉めいた思いでさえも生まれたくらいだ。その旨を正直に伝えると「じゃあ、手合わせしようよ」と凪沙の方から提案し、夜が明けたら森に行こうと決め、今に至るのだが。
 まさか予想を遥かに超える実力があったとは、正直思ってもいなかった。凪沙が戦う姿を見聞きしたのは、仙水戦での攻防が最初で最後だ。あの時は人間の姿で静流の傷を治癒し、そして人魚の姿では幽助の比ではないが霊丸を使い、魔界では仙水の意識を読み取った。
 幻海とは日頃から修行に励んでいるとは聞いていたが、人間の少女であるからという安直な考えで、せいぜい護身術程度の力だと軽視していたのが仇となったのだ。先ほど手合わせした凪沙は、身体の使い方が軽くしなやかで、且つ攻撃の力の入れ具合やタイミング、周囲の状況を読み取る力、他諸々と、もはや自分の知っている立花凪沙ではなかった。何より、一番驚いたのは、彼女の表情や声色だ。立花は、あんなに好戦的であっただろうか。

「ちったあ頭が冷えたか?」

 ふと、声を掛けられると桑原の肩が震えた。
 幻海がお盆を持って桑原の隣に腰を下すと、急須で湯飲み茶碗に茶を淹れ始めた。注がれるお茶の優しい音が心地良く、自然と肩の力が抜けるようだ。注がれた茶を一口飲めば瞬時に腹部が温まり、緊張が解れる。

「…立花があんなにも力がついてるとは、正直思わなかった。蔵馬が「自惚れるな」って言う理由も分かったぜ。あそこまで自分の力を自覚したら自信もつくだろうな」
「お前の言う通りだ。今の凪沙は、心も体も急激に成長している。蔵馬の両親の結婚式に出席したあの日から完全に顔つきが変わったのさ。凪沙自身の中に、純粋に人間界を守りたいという気持ちが生まれたんだとあたしは思う。…だが、きっとそれだけではない」
「…どういう事だ?」
「飛影の事も関係しているって事さ」
「飛影だぁ?だってアイツァもう魔界へ行っちまったじゃねぇか!なんでまた…」

 桑原が問うと、上空から「おーい!」と間延びした声が聞こえた。二人がそちらを見やると、現れたのは櫂に乗ったぼたんだった。
 ぼたんは手を振りながらゆっくりと降下し、縁側に着地すると櫂を消し二人の前に腰を下した。

「ぼたん、どうしたんだ!?」
「やだよお桑ちゃん。どうしたも何も、凪沙ちゃんの様子を見に来たのさ。逐一確認するように霊界から頼まれてるんだよ」
「そうだったのか…。そっちも色々と大変なんだな」
「まぁね〜。半妖怪に連界探偵を任せるだなんて、前代未聞だからね。決議に慎重になっているのは閻魔大王様の意向さ。…で、相変わらず凪沙ちゃんの意志が揺らぐことはなさそうなんだね?師範」

 ぼたんが確認の意で幻海を一瞥する。幻海は目を伏せた。
 どうやらぼたんの元には、数日前から既に凪沙から話がいっていたらしい。桑原は兎も角、幻海に話せなかったのは「心配するだろうから」という凪沙なりの気遣いだった。だが、家族でもある孫娘の微々たる変化に気付く事等、幻海にとっては容易い事だ。
 もしや、と思い凪沙のいないところでぼたんに尋ねれば、やはりそういう事だった。それでも敢えて昨夜まで触れなかったのは、それもまた幻海なりの配慮だったのだ。
 一拍程置くと、幻海はぼたんの問いに「あぁ、」と生返事をした。

「そうだよね…。実はさ、霊界で新たに動きが出てるんだけど。凪沙ちゃんの意志を尊重して、仮任命って事で案が通りそうなんだよ。今の凪沙ちゃんの力がどの程度のものなのか見定める期間って意味でもね。しかも、補佐をつけるって!」
「…ほう、補佐か」
「補佐ぁ!?おい、まさかその補佐ってのはまさか俺じゃないよな…?」
「んなわけあるかいっ!誰が付くのかはまだ検討中だって。でも、コエンマ様の予想だと案外早く決まるんじゃないかって話しだよ〜?」
「それならそれで、こちらも少々安心出来るな。凪沙の修行も、その補佐とやらにつけてもらえれば今より力が伸びるだろう」
「おいばあさん、なんで立花より強い奴が付くって分かるんだ?」
「仮任命ならば、凪沙よりも明らかに力がある奴がサポート役になるだろう。前代未聞の案を通そうとしているんだ、霊界だってそりゃ慎重にもなるさ。あたしとの修行も勿論続けるが、闘う相手が広がればそれだけ学び、吸収できる事も多くなる」
「はぁ〜…。なるほどなぁ…」
「まぁ、ここまでやれば流石に飛影も文句言わないだろうね…。魔界にいるって言っても、どこで噂話がいくか分からないし…」

 ぼたんの一言に桑原が「間違いねえな」と頷く。その傍ら、幻海は湯呑茶碗を手に視線を遠くに投げた。幻海の脳裏を過ったのは、台所の食器棚だった。それは、数日前の記憶だ。
 以前から置いてあった黒と白のマグカップ。結局それは日の目を見ることなく、ずっと食器棚の奥に並べて置いたのだが、先日凪紗がそれを持ち出し、空き箱に詰めていたのだ。幻海が問うと「しばらく片付けておく」と寂し気な笑顔が返ってくるだけだった。どうやらそのマグカップは自室の押し入れの奥にしまったらしい。
 その行動が、凪紗の決意と覚悟をまるで物語っているようだった。思いが詰まった代物を視野から消すようなそれは、恐らく彼女なりのけじめだ。止めても、最早無駄だろう。
 それに気付くと同時に、幽助が魔界へ行くと決意したあの時のような…いや、寧ろあの時以上の心の揺らぎを否めなかった。
 凪沙もまた、自分の手の届かぬ遠くへ羽ばたこうとしている。まるで我が子が親元を離れ巣立とうとしているような、そんな感覚だ。新たな世界へ足を踏み出そうとする凪沙の思いを汲み取り、背中を押してやりたい気持ちも勿論ある。だが、親心がそれを拒もうとしているのも、また否めなかった。
 幻海の心が逡巡し、攪拌する。遠くを見つめるその視線は、焦点の定まらない目を虚空に向けているようだった。

「…ばあさん、どうした?」
「どこか具合でも悪いんですか?」
「あ…あぁ。…なんでもないよ」

 力のない返事。諦念を感じさせる表情。やはり、幻海らしくない。桑原とぼたんは不思議そうに顔を見合わせた。


 桑原が森を出てから数十分経った今現在。凪沙もまた、木の根元に腰を下し束の間の休息を取っていた。これまでの修行が蓄積されたおかげなのか、体力も力も随分ついた。桑原と手合わせした後でも、修行を続けられる体力が残っている事に自分自身が驚いたほどだ。
 深く深呼吸を繰り返せば、自ずと肩の力も緩和される。そして新たに力が漲るよう精神を改め集中させると、心の奥底には一つの思いが残った。
 それは、固まりつつあった覚悟だった。
 霊界探偵の任務をこなし、修行を続ければ、きっと今よりも強さを手に入れられる。現に、蔵馬のおかげで己の葛藤や迷いが吹っ切れた際、霊丸が変化した。心の蟠りが浄化されると内なる力が発揮されるのだと確信したのだ。加えて、肩の力が抜けたからというのもあるだろうが。と、なれば、覚悟を決めるのは必然となる。
 …やがて、いつかその覚悟が希望に変わる瞬間を願って。

 飛影の事は、今は忘れることにした。霊界探偵をやって周りに認められるくらい強くなり、守ってもらう必要がないようにする。
 そして飛影に伝えるんだ。

 “ずっと隣にいたい”と。

「…よし、そろそろやるか」

 時間は刻々と進んでいる。立ち止まっている暇などなかった。
 凪沙はゆるりと腰を上げると、再び地を蹴り森の奥へと向かって行った。



***



 霊界の書庫にて、一人の男が一冊の資料本を手にしていた。羅列されている文を根詰めて読み耽る中、ふと違和感に気付きピクリと眉尻が上がる。その文面を往復して再読し、過去の記憶を照らし合わせるも、像が重なることはやはりなかった。
 …この書物は一体どういう事なのだろうか。不思議に思っていると、ふと背後に気配を感じ振り返った。
 数メートル先に居たのは、我が上司でもあるコエンマだった。男は開けているページに中指を挟み、咄嗟に本を閉じた。

「驚かせないでください」
「そりゃワシの台詞だ。書庫の鍵が見当たらないので、来てみればお主だったか」
「一応、ジョルジュには断りを入れたのですが…」
「心配するな。話しは聞いておる。…で、気になっていたのは凪沙の事か」
「…何故お分かりに?」
「その本は以前ワシも手に取ったからな。見覚えのある背表紙じゃったし、もしかして…と思ってな」

 男の手に収まる一冊の本の色味、デザインに既視感があったようだ。どうやら隠しても無駄らしい。

「…気になるんじゃな?」
「ええ。…先日、彼女と再会した際顔つきが変わっていたので。その、なんといいましょう…腹を括った、と言った感じですかね。仙水戦で見たあの時と似たような雰囲気も取れました。…そして、彼女の仮任命と補佐の件も聞きました。私の見解ですが、後者はコエンマ様のご配慮ですね?」
「…気付いておったか。まさか凪沙自身引き受けると思ってもいなくてな。そもそも、ワシは反対派だったんじゃ。だが凪沙の性格上、意志の強さはきっと揺らぎまい。と、なればワシが出来る事で彼女を守らねばと思ってな」
「それで閻魔大王様に直談判されたのですね?」
「…そこまで知っておるからには、話しが早いな」

 コエンマが空咳を一つすると、改め、男と視線を交わした。

「舜潤、お前に頼みがある。…凪沙の霊界探偵補佐を、やってほしいのだ」



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