80 甘い硝煙を嗅ぐ

 吹き付ける暴風雪に曝される黒きマント。踏み込む度に雪に埋まる足元。日の光が遮断された薄暗い曇り空。その中をゆっくりと、一歩ずつ確実に踏みしめ歩んでいた。
 視界の端に見えるのは家屋に逃げ、窓からこちらをひっそりと覗き見している氷女の女共だ。老婆も、女も、子どもも眉間に皺を寄せ、好奇と恐怖を交錯させたような視線をこちらに投げてくるのが嫌でも伝わる。自然現象だけでなく、ここに住む者達の心までもが凍てついているようだ。加えて、豪雪に覆われた薄暗さが更なる陰鬱さに拍車をかけるようでもあった。
 家屋から覗く者達の視線は尚己に刺さる。「何故、男であるお前がこの国にいるのだ」「何しに来たのだ」まるでそんな声が聞こえてくるようだった。…くだらない。今すぐここで、全員八つ裂きにしたい衝動に駆られた。


「―――ッ!」

 肩がぴくん、と微かに震え、反射的に顔を上げた。飛影が視界で捉えたのは薄暗い雪景色ではなく、血に塗れた薄暗い闘技場、そして腐敗した妖怪達の死体が何十体も転がっている様だった。…ここは氷河の国ではない。躯の要塞だ。
 飛影が腰を下している数メートル先では、二匹の妖怪が物陰に隠れ虚を衝こうと目論んでいた。先ほど、他の妖怪が戦っている最中、飛影は黒龍波を二発放った。体力や妖力の消耗が激しいこの技の後だ。恐らくチャンスが巡ってくるに違いない。そう確信した二人は息を殺し、徐々に近づいてゆく。そして飛影が刀に体重を預けながらゆるりと立ち上がった瞬間、地を蹴った。
 飛影の力の消耗は予想通りだった。立ち眩みがするのか、足元がおぼつかなくふらりとした隙を見逃すわけもなく、一匹は牙を立て、もう一匹は爪を立て、彼の目の前へ高く跳躍した。
 だが、飛影は二匹の予想を遥かに上回る素早さで抜刀、そして斬刀し、目の前に現れた二体の妖怪は瞬く間に身体が八つ裂きにされた。無造作に転がった死体の切断面からは大量の血が溢れ、そして流れている。血溜まりがまた一つ増えた。…たかだか数メートル離れた所で、気配にはとっくに気付いていた上、長年の経験から二匹の動きは当に予想はついていた。
 何より、こんな雑魚相手に愚鈍だと思われていた事が心外だった。
 飛影は舌打ちを一つすると刀を鞘に入れ、闘技場の中央へ歩んだ。そこにはこの場に全くそぐわぬ、マリア像を彷彿させる石造が一体置かれている。これを置いたのは恐らく躯の意向なのだろうが、殺戮しか生まぬようなこの場に聖者を連想させる像を置くとは、全く皮肉なものだと思う。双瞼を閉じ微笑するマリア像は慈愛に満ち溢れる母なる鏡なのだろうが。生憎こちとら信仰心も福音も皆無だ。
 …ただ、望むのは強さを手に入れる事だけ。
 間合いを取り、少々腰を屈め重心を落とすと抜刀の構えを図る。深く、長く、ゆっくりと深呼吸し、眼光に力を入れた瞬間、抜刀しマリア像の腹部に刃を入れた。そして刀が鞘に戻った瞬間、像の切断面を境に上半身が落下した。粉塵が舞う最中、首に掛かる氷泪石がゆらりと柔く揺れる。視線は自然とそれを捕え、周囲の僅かな光を集めて灯したような薄浅葱色に導かれるよう、再び脳裏には過去の記憶が巡った。



***



 数日前、コエンマ、舜潤が凪沙の元を訪れた。凪沙の霊界探偵の補佐として名が挙がったのは舜潤である事を伝えるためだった。その事実を耳にし、凪沙は驚愕を隠せぬようだったが、それに反し幻海は「そんな所だと思ったよ」と至って冷静だった。

「どうして舜潤さんが…?」
「ワシの推薦じゃ。今までは大竹の妖怪や魔界に対する好戦的な姿勢が功を奏したのだが、今回の仙水戦での騒動で幽助抹殺命令を失敗に終わってしまった。今は自ら第一線を外れておる。それに反し、舜潤は魔界や妖怪全てを敵視しているわけではない。寧ろ大竹よりも理解を示してくれるだろうと思っておる。…というのは建前で、本当はワシの部下じゃからってのもあるがな」

 コエンマが流し目で舜潤に視線を送った。

「コエンマ様、よしてください。私自身、魔界や妖怪全てが悪だとは思えませんし、…何より、凪沙さんの今後の力の変化が気になるというのが一番の理由です」

 この数か月の間で凪沙の顔つきに変化が表れており、精神面もそれに倣ったのだろうというのが舜潤の見解だった。その弁に幻海は首肯した。

「…と、いうわけだ。舜潤もこう言ってくれているし、彼が補佐となれば霊界はきっと何も懸念しまい」
「なるほどな。そういった理由なら納得がいく。あたしもあんたの強さはひしひしと伝わる。…舜潤、この小娘はな、見た目通りの年相応のクソガキだ。自分で自分の感情をコントロールも出来やしない精神力も目に余るし、幼さも未だ残っている。だがな、母譲りの負けん気と屈託の諦めの悪さだけはあたしも認めている。どんなに辛い修行だろうが弱音を吐かず、這いつくばって意地でも前を向こうとする根性だけは誰にも負けないと思うよ」
「ふふっ…。おっしゃる通りだと思います。仙水戦でも彼女の態度を見れば一目瞭然ですよ」
「…うちの孫娘を、どうかよろしく頼む」

 幻海の頭が下がり、凪沙もそれに倣った。俯いていれば、目頭の熱と潤む視界がコエンマと舜潤に見えないと思ったからだ。
 幻海は普段あまり褒めてくれないだけに、この言葉は胸に突き刺さるものばかりで、涙なしでは聞けなかった。強く握りしめた拳にぽたり、ぽたりと雫が零れ、肩も微かに震える。
 無論、それを見透かしたコエンマと舜潤だったが凪沙の意を汲み取り、互いに視線を交わすと微笑した。
 その後、舜潤の案で「さっそく手合わせしよう」となり、凪沙に身支度をするよう伝えた。凪沙が席を外すと同時に、舜潤、コエンマの顔つきが険しくなった。幻海もそれに気付かぬわけがなく怪訝な表情になる。

「…今日、ここへ来たのは別の目的があっての事だね?」
「ええ、おっしゃる通りです」
「幻海、以前四次元屋敷で人魚族の事を話したことを覚えているか?」
「あぁ。それがどうした?」
「実はこの文献に気になることが事がありまして…」

 舜潤が後方から取り出したのは、霊界の書庫に眠っていた人魚族についての書籍だった。本の紙面には付箋が幾つか貼られている。舜潤がそのページを捲り、幻海に見せた。

「ここの説明文に人魚族の特性が記されています。性格は臆病で内向的。身を護る妖術に長けており、治癒術や心術を使っていたと…」
「ワシらが気になったのはこの性格の箇所でな。凪沙を見ていると、とても臆病で内向的だとは思えんのだ。現に仙水戦では治癒術や心術は兎も角、霊丸を使い好戦的で立ち向かったからな」
「霊丸を使えたのは幻海さんとの修行の成果で霊力と妖力を上手に使い、そのバランスが図れた結果だと思うのですが…」
「幻海、お前はどう思う?」

 コエンマの問いに、幻海はここで初めて二人と視線を交わした。
 回顧するのは、凪沙が初めてこの寺に来てから今日まで過ごした日々だ。確かに、最初は母親のお守りのおかげで内なる霊力が守られていたが、ここで修行を重ねてからは力のコントロールも安定してきた。そして境界トンネルが出現したことにより、元々流れていた人魚の血が目覚め、戦いの中でその力が発揮されたのも、また事実だ。
 だが、戦いが始まるまでは霊丸も治癒術も失敗に終わる事が多かった。それが仙水戦の僅か数時間の中で能力が開花したのだから、大きな躍進になったのは否めない。では何故、彼女は戦いの中で力を発揮出来たのだろうか。
 思考が逡巡し、その答えに辿り着いた瞬間腑に落ちた。やはり、孫娘でもあり愛弟子でもあるからか、幽助と同じよう心に根付いていたものは同じだったようだ。幻海の口元に静かに弧が描かれる。

「凪沙も幽助と同じように、きっと誰かを守りたい思いが力の根源ではないかと思う。仙水戦でも静流が怪我を負い、それを治癒したのが全ての始まりだ。入魔洞窟でも霊丸や治癒術を使って仙水の目を欺こうとしたのも、傷ついた幽助や捕らわれていた他の四人を助け、守りたい思いが強かったのだろう」
「…流石は師範ですね。私も色々と調べているうちにそうなのだろうと気付きました。ですが、元を辿ればその姿は先祖でもある人魚族とはかけ離れ矛盾が生じます」
「要するにだ。この文献と今の凪沙の姿を照らし合わせると、像が重ならぬ部分がある。…だが、これがまたちと不思議でな」
「矛盾に気付いた私たちは凪沙さんの先祖を辿りました。ですが、その資料が何処にも見当たらず、唯一手掛かりだったのはこの書籍に記してある“人間界に一匹の人魚が現れた”だけだったのです。ここで記録は終わっています」
「名前もどこの海に現れたのかも、詳細が載っておらぬ。文献は事細かに記録が記されているのに、これだけは中途半端なのじゃ。ワシと蔵馬が文献を初めて手に取った際は特に気にせんかったのじゃが、仙水戦を終えてから改めて思うと、やはり腑に落ちなくてな。人魚族の過去を話した時も魔界の穴が開く最中じゃったし、そこまで着眼出来なかったワシも悪かったのだが…」

 コエンマが腕を組み、眉間に皺を寄せて嘆息をついた最中、幻海はふと思った。
 以前飛影が教えてくれた凪沙に像を重ねていた人物…確か潮と言っていた。それに、凪沙が初めて人魚になる数日前から「不思議な夢を見る」と話していた事も、そして仙水戦で技を使えたのも「潮が夢の中で教えてくれた」と後日話していた事も、加えて脳裏に過った。
 その旨を伝えると、コエンマと舜潤は再び視線を交わし、そして幻海の方へ向き直した。

「人魚族は心術に長けていましたから、もしかしたら先祖の血が過去の記憶を見せてきたのでしょうか…」
「あながち間違いではないと思うぞ。現に幽助が魔界で変貌を遂げた際も、自分とは違う誰かが乗り移ったようだと言っていたからな。凪沙の場合も、妖力とは関係無しに意識の強さで可能だったのかもしれん」
「期待を裏切るようで悪いが、あたしが分かっているのはそこまでだ」
「いえ、十分な収穫です。ここから先は凪沙さんの強さを更に引き出し、鍛えていけばまた別の視点が見えてくるかもしれませんからね」

 事の顛末が終えた頃、髪を結い道着に着替えた凪沙が再び客間に現れた。服装が変わった事により、先程よりも表情が硬い。だが、どこか高揚しているような雰囲気も感じ取れる。
 幻海とはまた別の、強き者に稽古してもらえるのを、まるで心待ちしているようだった。
 舜潤は腰を上げ、凪沙と対峙した。

「…言っておきますが、私は一切手加減はしませんよ」
「勿論、そのつもりでいました。よろしくお願いします」

 凪沙が一礼し、頭を上げると、二人は跳躍して森の方へ向かった。
 コエンマは、凪沙の背を見つめる幻海の眼差しに気付いた。「…心配するな」コエンマの呟かれた声色は柔く優しい。幻海もまた、口元に寂し気な笑みを浮かべつつも凪沙の出立を見守った。



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