77 非現実になる

 ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。
 足を踏み出す度に、靴底に纏わりつくのは血溜まりだった。鼻腔を掠めるのは腐敗した死体と血生臭い鉄の匂い。部屋のそこら中に血痕が飛び散りっているこの光景を見て、はや一か月。相も変わらず間抜け面を装って襲い掛かってくる低級妖怪の相手をするのは、いい加減うんざりしてきたところだった。
 飛影は血に塗れた刀を何度か振るうと、刀についた血が飛び散り、刃には再び艶が戻った。一体、今日を迎えるまで何匹もの妖怪を殺めただろう。血肉の匂いには随分と慣れた。吐息を漏らし頬に飛び散った血を拭うと、部屋の入口がある奥から足音が聞こえてきた。ここ最近ようやく慣れてきた気配だったので、特に警戒することもなく刀を鞘にしまう。奥から現れたのは躯だった。

「よぉ。また随分と派手にやったな。C級妖怪じゃ、話になんねえようだな」
「こんな屑共の相手をするのは時間の無駄だ。さっさとA級妖怪並みの奴らをよこせ」
「まぁそう焦るなよ。まだ魔界に来て少ししか経ってねえじゃねえか。ゆっくりと楽しもうぜ」
「俺にそんな時間は必要ない。つまらん御託だけを並べるならさっさと出ていけ」
「そうは言ってもよ、お前こんな辛気臭ぇ部屋に籠って息が詰まるだろう?たまには外の空気でも吸ってきたらどうだ。カリカリしてると逆に効率悪いぜ?」

 喉を鳴らしながら笑い、踵を返し再び部屋の奥へと姿を眩ました躯。飛影にとって、余計な指図程胸糞の悪いものはなかった。だが、正直言うと彼の言う通り、腐敗臭にもそろそろ飽き始めてきた頃であったので、悔しいが虚を衝かれたのだ。
 この部屋をしばらく開けておけば、じきに躯の部下が転がる死体を片付けに来るだろう。飛影は舌打ちを一つするとマントを羽織り、部屋を後にした。

 移動要塞百足が今いるのは、魔界のどの辺りなのだろう。余計な詮索で邪眼を使うのも馬鹿馬鹿しいので、直接確かめればいいだけの事だと思い、自然と足は要塞の屋上へと向かう。扉を開けると久方ぶりの外の風が全身を掠め、不覚にも心地良いと感じてしまった。腐った血肉の匂いが混ざる瘴気などをそのように感じるなんて、自分の気付かぬところで相当疲れていたようだ。数歩、前へ進んで行くと、要塞からの景色を一望した。

「…ッ!」

 思わず息を呑んだ。森の奥に見える青色の光。風に混ざる潮の匂い。そして一望した瞬間嫌でも気付いた既視感。ポケットに入っている手が震え、目を見開き、足が竦んだ。だが、このまま動かぬのは己のプライドが許さなかった。飛影は要塞から跳躍して地上へ降りると、俊敏に地を蹴り、木々を伝った。目指すは森の向こうにある景色だ。
 目的地は要塞から近かった事もあり、思っていたよりも早く到着した。最後の木を伝い、地上へ降りると、足元を捉えたのは砂だった。踏みしめれば不安定に足が沈む。一面に広がるそれを一歩ずつ確かに歩み、気付けばさざ波が足元へ届きそうな所まで移動していた。視線を足元から前方へ見やれば、視界で捉えたのは日の光が反射して煌びやかに輝く海だった。
 そして視線を右往左往させると、ある場所を見つけ「やはりそうか」と確信する。右手の少し離れた所にいびつな形をした岩陰が幾つもあり、それが何よりの証拠だった。
 …皮肉にも、願っていたわけでもないのに。ここを訪れるのは初めてではない。

「…これで三度目か」

 目を細め、ぽつりと呟いた声は潮風と共に流されていった。再び柔らかく吹き付ける潮風が頬を掠め、首から下げていた氷泪石が共に靡く。雪菜から預かったものだった。風に揺られるそれを掌で包み込むように掴むと、自然と魔界の穴へ身を投じたあの日の晩が脳裏に過る。

“…気を付けて、いってらっしゃい”

 送り出してくれた時の凪沙の笑顔が鮮明に彩られて蘇る。彼女のあの笑顔を思い出す度に、心臓が鷲掴みされるような苦しみや葛藤が襲った。彼女との別れは、己が下した決断だったというのに。最後、不覚にも無意識のうちに手を伸ばしてしまったのは「凪沙を手離したくない」という本心だった。…身体というものは、こうも正直だったとは。
 飛影は近くにあった岩に腰を下し、掌の氷泪石を見つめた。随分と昔も、こうして暇さえあれば石を見つめていたな、とふと思う。心苦しい痛みや蟠りから逃れたい時は、決まって石に頼っていたものだ。それは今も尚、変わらなかった。
再び石を優しく握ると項垂れ、深い吐息を漏らした。こんな姿、幽助達に見られたら「らしくない」と指摘され、揶揄されるであろう。だが、ここへ来た時くらいは正直肩の力を抜きたかった。魔界で唯一、心を許せた者と初めて出会い、そして共に生きたいと願った場所でもあったからだ。
 しばらくするとようやく腰を上げた。目線は自然と先ほど見やった岩陰へと移る。…まだ、あの場所には行けない。覚悟が足らないからだ。…果たしてその覚悟とやらは、一体いつになったら固まるのだろう。

「…チッ」

 情けなくも、今はこの場で見つめる事しか出来ない自分を悔やんだ。
 飛影は踵を返し、再び要塞へと向かった。



***



「霊界探偵任命の案だと…?」
「あぁ」
「それはもう決まったのか?」
「いや、まだ議決されておらんようだ。もう少し時間がかかるらしい」
「はぁ〜…。ったく、お前が抜けてから霊界は一体どうしちまったんだい!?馬鹿な案件ばかり出しおって…」
「ワシとて同じ事を思っておる!あとは親父の決断次第じゃ…」
「まともな答えを出してくれればいいがな」

 蔵馬、コエンマ、ぼたんが幻海邸に訪れた翌日の午後。思っていたよりも仕事が早く片付いた幻海が帰宅するのは間もなくの事だった。
 凪沙は霊界探偵任命の旨を聞いた後、蔵馬が修行に付き合う事となり二人は森の中へ。そしてぼたんは再び霊界から呼び出しがあり、忙しくも先ほど飛び立たったばかりだ。寺に残っているのはコエンマ、そして幻海のみである。
二人は縁側に腰を下し、茶を飲みながら先ほどの旨を共有しているところであった。
 コエンマは大まかに予想していたが、やはりそうだった。幻海の呆れっぷりにはひどく共感する。

「というわけじゃ。幻海、今後も凪沙に修行を続けさせてくれんかの?」
「…その話だがな。ちと難しいところもあるんだ」
「なんだと…?おい、どういう事だ」

 幻海は一口茶を飲んだ後、吐息を漏らす。そして視線を遠くに投げ、思いを馳せるように話し始めた。

「あの子の力は人魚になった際存分に発揮されだのだろう?人間の姿では果たしてどの程度力が伸びるかは、正直あたしにも分からん。幽助のように戦闘力が伸びていく素質があるわけでもないし、人魚族の特性とて決定的な打撃にはならん。霊丸も幽助と比べりゃ月と鼈だ。と、なれば。敵を欺く妖術と肉弾戦での戦いってもんが恐らく凪沙の戦闘スタイルになるだろう。護身に関してはそれで十分だとは思うが…。ただ、霊界探偵となるとまた話は変わってくる。敵の力を見極め、状況を把握し、的確な攻撃と任務遂行が必要となるからな。…っていうのはあたしの建前で、」

 ようやく、幻海の視線がコエンマへと向けられる。そこには霊能力者としてでなく、家族として凪沙を思いやる幻海がいた。双眸からは慈愛に溢れた温かさを感じるのは気のせいではない。

「正直言うと、あの子を戦いの場に送り出すのはもう嫌なんだよ。仙水との戦いで何度か死にかけ、痛みと苦しみに耐えてどうにか生きてくれた事はもはや奇跡としか言いようがない。ただ、百歩譲ってあたしが生きている間は彼女をサポートすることが出来るが…あたしも老いぼれの身だ。いずれすぐ霊界の世話になる時が来る。そうなった時、あの子の支えになり傍についてやれる者がいればいいんだが…」

 ここまで話し、幻海は「飛影がいてくれたら」という言葉は喉の奥で止まった。いくら凪沙がいない場とは言えども、さすがに言えなかった。また、コエンマもなんとなくその意を察し、「…そうじゃな」と生返事をした。
兎に角も、今できることは凪沙に修行を積ませ、可能なだけ力をつけさせるという事だけだ。霊界も凪沙の件以外にも様々な案件を抱えている。
 いっそのことこのまま決議されず、穏やかな日々が続けばいいのに。コエンマと幻海は心から願った。


 幻海邸から数百メートル離れた森の中。そこで蔵馬と凪沙は手合わせをしていた。
 凪沙は長きに渡った倦怠感から解放され身体が軽くなったので、戦いでもどのような変化が見られるのかを期待し、また蔵馬も凪沙の実力はどれほどのものなのか確かめるためでもあった。
 俊敏に木々を伝い、お互いの視線が絡み合った瞬間引き寄せられるように跳躍し、地上に着地すると、凪沙から蔵馬の元へ向かった。幻海から教わった肉弾戦での動き、拳の力、蹴りのタイミングは流石のものだと蔵馬は感心する。霊力と妖力を持ち合わせている彼女だからこその力だと改めて実感したが、戦闘の場数はこちらが遥かに上回る。今まで相手にしてきた敵と比べると凪沙の実力はそこそこあるとは思うが、暗黒武術会で手合わせした敵と比べれば足元にも及ばぬほどだった。ここから彼女の力がどう伸びていくか、確かに可能性はあるだろう。だが、逆に人魚にならなければこの程度で伸び悩む場合も考えられる。

「やぁっ!!」

 一発、蔵馬の顔面にめがけて拳が飛んできた。咄嗟にそれを捕え、空いたもう片方の手で凪沙の片方の手首を掴む。凪沙が必死に逃れようと身をよじり蹴り技を入れてくるが、蔵馬にとっては意味のない足掻きにしか見えない。男と女の力が歴然とする瞬間でもあった。

「んっ…くっ…!」
「凪沙ちゃん、いい加減諦めたらどうです?」
「やっ…やだ…っ」
「俺、まだ薔薇棘鞭刃出してないんですけど」
「〜っそんな事分かってるよ!!」
「…このままキス、しちゃいましょうか?」
「えっ」

 突飛のない蔵馬の言葉。思わず力を緩め、目を丸くさせた凪沙であったが、蔵馬に隙を与えるのには十分すぎた。凪沙の右足首に軽い蹴りを入れられ、バランスが崩れると腰回りに蔵馬の腕が伸ばされ、そして頬に手を添えられる。
 僅か数秒の間に至近距離で迫られ、凪沙は息を呑んだ。目の前には楽しそうにニヤつく蔵馬の笑顔が嫌でも目に入る。

「ジ・エンド、ですね」
「〜ッ!こんなの、ずるいっ!!」
「戦いの場では駆け引きも重要だよ。敵の甘い誘惑に惑わされてはいけません」
「もうっ!分かってるってば!!」

 するりと蔵馬の腕を抜け、跳躍し、距離を取った凪沙。頬が紅潮しているが、眉根が上がり怒りを露わにしている。「ちょっとからかいすぎたかな」と蔵馬は苦笑し、一応構えた。
 凪沙が右手人差し指を構え、蔵馬に狙いを定めた。幽助が霊丸を放つ際と同じ構えだ。仙水戦で目にはしたが、実際のところはどれほどの物だろう。…お手並み拝見としようか。
蔵馬が余裕をかましてたその一方、凪沙は指先に意識を集中させていた。霊丸を放てたのは、結局人魚になった時のみだった。ここ一か月、自暴自棄になっての修行中、何度試しても小さな魂にしかならず頭を抱えたのだが。幸いにも、今日は身体に  
 纏わりついていた蟠りが解消され、心身共に軽い。期待を込めてこの構えを図った。
深い吐息を漏らし、指先に身体中の力が集まるように集中する。甲斐あってか、普段よりも少し大きめの魂が出来つつあった。
 もしかしたら…。期待が高まると、突然脳裏に映像がフラッシュバックされ、息を呑んだ。この映像は、仙水戦で潮が教えてくれたものの一つだ。海の中で大きな渦潮が生まれ、海水が激しく動きまわっているものだった。何故、今更そんなものが?疑念を抱いた瞬間。
 指先に集まる光の魂を囲うように、水流が現れた。

「(…?なんだ?)」

 距離を図った蔵馬からもそれは見えた。凪沙の指先に集まる光の魂に突如出現した水流。しばらくすると幾多の水流が魂を囲うようにして、じきに大きな水の塊に変化していった。仙水との戦いでこのような技は見ていない。…一体、どういう事だ?
蔵馬が見つめている間にも、その水の塊はどんどん膨張してゆき、恐らく直径十五センチほどまで大きくなった。
 その瞬間、凪沙と視線が絡んだ。先ほどの怒りはなく、不敵な笑みを浮かべる凪沙に、蔵馬は一瞬目を疑った。彼女は、あんな眼をするのか。と、思ったその瞬間。

「…やぁあっ!!」

 ぱんっ!という弾けた音と共に、凪沙の指先から水の魂が放たれる。勢いのあるそれは蔵馬を目掛けて一直線に飛んだ。蔵馬が咄嗟に避けると後方にあった木に激突したのだが、水が激しく弾けたと同時に爆発が発せられ、その木はみるみるうちに折れ曲がってしまったのだ。

「…えっ、」

 凪沙自身が思わず声を漏らし、蔵馬もまた、ぽかんと口が開いてしまった。

 …なんだ、今の技は。



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