70 偽りすらも愛して

 凪沙が眠りから覚め、数日が経った。
 仙水との戦いの爪痕が残った両腕、腹部、顔の傷は、瞬く間に完治した。幻海による治癒術も一理あったが、大半は凪沙自身の治癒力によって、だった。
 幻海曰く、普通の人間ならばここまで回復するにはもっと時間がかかるらしい。だが、凪沙の場合はその半分以下の時間で済んだ。これが何を意味するのかは、最早明確だった。
 凪沙自身幽助に指摘され、そこで初めて己の身体に妖気が残っている事を自覚した。眠りから覚めた段階では、変化が分からなかったのだ。
 潮の声は、あれ以来聞いていない。加えて霊丸や治癒術、心術を使おうにしても、身体に残った怪我のせいで技は使えなかった。
だからこそ、怪我が完治した早さが妖力の高まりを裏付ける事となったのだ。

 中学校への登校も再開したある日の晩。
 いつも通り夕食と入浴を済ませた凪沙は自室に戻ってきた。ハンガーにかけられた制服や通学用鞄を見やると、人間としての日常が戻ってきたのだと改めて実感する。唯一変化が生じたのは、机上に置かれたカラーコンタクトだった。
初めて人魚と化した時から、結局瞳の色だけは戻らなかった。仙水との戦いでも、瞳の色を機に正体が明かされてしまった経験から、半妖怪であることをカモフラージュするために用意したのだ。余談だが、学校生活を送る上で、周りから好奇な目を向けられるのも、瞳の色を問われるのを防ぐためでもあった。
 …本当にこのままでいいのだろうか。人間界で暮らすには、今後も様々な事に配慮せねばならない。瞳の色もそうだが、半分目覚めている妖力を自制するのも、水に浸かると人魚に変化する身体は勿論の事だった。
 だが、凪沙自身一番恐れているのは、今回の仙水戦のように強敵が自分を狙ってきたら、という事だった。今思えば孤立無援で、随分と無謀な状況下で戦いを挑み、よく死ななかったな、と未だに剣呑するくらいだ。いくら幽助、桑原、蔵馬、そして飛影がついていても、危険は常に隣り合わせだという自覚が足りなかった。
 …と、なれば。周りに頼らずとも、自分の力でなんとかせねば。そんな思いが心の片隅で生まれた。

「…!」

 久方ぶりに感じる、親しみのある気配。それを察知すると、凪沙の表情は自然と明るくなり、笑みが生まれた。思えば、ちゃんと顔を合わせて会話を交わしたのは魔界が最後だった。自分が眠っている間も、きっと傍にいたのだろうけど。やはり直接関われることが、何よりも純粋に嬉しい。
 凪沙の期待通りしばらくすると、部屋と廊下を隔てる戸が開けられた。現れたのは会いたくてやまなかった人物で間違いなかった。

「飛影っ!」

 凪沙が飛影の胸に飛び込むと、彼は難なく彼女の背に手を回し抱きとめた。

「…怪我はもういいのか」
「うん。もう大丈夫。全然痛くないよ」
「そうか…」

 凪沙が嬉しそうに飛影の胸元から顔を離し、見上げると視線が絡んだ。
 凪沙を案じた飛影の瞳は、いつも以上に優しい色をしている。自分が眠っている間も、この色を見せてくれていたのだろうか。そんな期待も抱いてしまうほど、愛しい思い人との再会はこの上なく嬉しかった。
 …だが、飛影の雰囲気にほんの少しばかり違和感があるような気がする。しばらく会っていなかったせいだろうか。
 しかしそんな疑念を払拭するほどの満ち溢れた思いからか、凪沙の頬はより緩み微かに紅潮している。瞳の蒼色は穏やかなさざ波を連想させるような麗しさを表していた。

「…会いたかったよ」

 飛影の右頬に、凪沙の掌が伸ばされた。それは何を意味しているのか、愚問だった。
 絡まる視線が段々と近付いていき、互いの双眸が閉じられた。触れたのは、唇の柔らかさ。凪沙の背に回していた飛影の手は、彼女の腰と後頭部にするりと移動した。
 より身体が密着し、口づけも優しいものから熱の籠ったものへと徐々に変わっていく。凪沙が薄ら口を開けたのを機に、飛影はそれを逃すわけがなく己の舌を入れた。

「…っん、」

 凪沙の口内で互いの舌が絡み合い、唾液の混ざる音が発せられる。いつもなら羞恥からか、凪沙は逃げようと舌を動かすのだが、今日は高揚しているのか、自ら飛影を求めるように絡ませてきた。それが伝わり、飛影もまた、己の欲に沸々と拍車がかかる。…だが、その反面、後ろめたい思いもまたあった。
 本当はこのまま凪沙を思うがままに抱きたい。愛したい。触れていたい。…でも、もうそれが叶わない事を告げなければならないのだ。己の言葉で、態度で、これから凪沙の笑顔を奪うのは必然だった。
 せめて、ほんの僅かな時間でも…一秒でも長く凪沙との甘い時間を堪能したい。飛影は諦観に侵食される前に、微かな望みを抱いた。

 しばらく接吻を堪能した二人は自然と口が離れた。
 顎を引き、伺うように飛影と見上げる凪沙は、先ほどよりも頬が紅潮し、唇の血色も色づき、ねだるような甘い表情をしている。彼女の持つ色香が最大限に発揮されているのは、恐らく気のせいではないだろう。
 飛影は一瞬、瞳が揺らいだ。このまま凪沙と視線を絡ませていれば、理性が崩れそうだったからだ。現に、下半身も熱を持ち始めている。…これ以上は身体の毒だ。決心と覚悟が揺らぐ前に、飛影は咄嗟に凪沙の身体を包み込むよう強く抱きしめた。無論、彼女と視線を交わさぬようにするためだ。

「…飛影?」

 突飛な行動に驚いたのか、凪沙が不思議そうに声をかける。…決して期待していたわけではないが…否、どこかで期待はしていた。このままベッドに沈み、再び口づけや愛撫で飛影の愛を感じるであろうと思っていたのだが。飛影の雰囲気からはいつもの優しさは勿論伝わるのだが、どこか戸惑いも含まれているような気がした。それは、先程の違和感が気のせいではない事を表しているようで、凪沙の瞳に翳りが生じた。そして同時にあの感覚が働くのだ。
 …こういう時ばかり、何故。もしかしたら、自分の母もこんな思いをしていたのだろうか。

「凪沙…」

 飛影が耳元で静かに名を呼ぶ。凪沙の肩が震えた。

「俺は、魔界へ行く」
「…え?」

 凪沙の頭の中が真っ白になった。…この男は、何を言ってるのだろう。魔界?何故?だって、仙水との戦いは終わったはず。ならば…何のために?
 思考が逡巡し、答えは見つからない。

「どうして…?」

 戸惑いからか、凪沙の声は震えている。

「躯から招待された」

 飛影は魔界の三竦みの件は勿論、蔵馬にも黄泉から言霊が届いた事や、幽助の元に雷禅の部下が直々に訪れた事等、事の次第を全て話した。幽助の件は邪眼で確認済みなので間違いないらしい。
 蔵馬はともかく、幽助もまた魔界の事で悩んでいたのを凪沙自身知っていたので、飛影が嘘をついているとは到底思えなかった。だが、事の顛末を全て受け入れられるほど、凪沙の度量は広くなかった。
 魔界へ行く。それは即ちなんの意味を表しているのか。凪沙もなんとなく分かってはいたが、やはり納得は出来ず攪拌されるようだった。

「俺は躯につく。戦闘力を上げるために利用するだけだがな」
「ちょ…ちょっと待って。じゃあ、飛影は…また戦いに行っちゃうの…?」
「そういう事になるな。それに仙水の時のような戦いではない。…恐らく、幽助や蔵馬と、」
「…ッやめて!行かないで!!」

 凪沙の表情は会話が進むごとに歪み、先ほど見せた笑顔は既に消えていた。眉間の皺、瞳の揺らぎが彼女の心情を露わにしている。

「何で…何でみんなと戦わなきゃいけないの!?仲間でしょう!?それに魔界って仙水より強い奴が…!それって、」
「凪沙、」
「嫌だ…いなくなっちゃ嫌だよ、飛影…っ!!行かないで…!!」

 凪沙は自ら飛影の胸に顔を埋めた。胸元を握る手や華奢な背は震え、声色も涙ぐんでいる。涙と共に思いも溢れ、ついには泣きじゃくった。曇った声と共に飛影の胸元が涙で染まっていく。
 普段の飛影ならば、きっとこのまま凪沙の身体を抱きとめ、背を撫で、指で涙を拭うだろう。だが、飛影は凪沙の肩に手を置き、そのままをゆっくりと身体を離した。
 密着していた身体から感じる温もりが消え、凪沙は当惑する。そして顔を上げると、飛影は両手をマントのポケットへしまった。
 そこにいたのは、凪沙の知っている飛影ではなかった。鋭い眼光の中で闘志を燃やす、紅い瞳。真一文字に閉じられた口。精悍な顔つき。それらから、飛影は様々な覚悟を持ってこの答えを出したことが伝わった。
 一瞬、凪沙は怯んだ。

「…もう、決めた事だ。貴様が泣こうが喚こうが、俺には関係ない。…せいぜい平和ボケた人間界で大人しく暮らすんだな」

 まるで嘲笑うように話した飛影。彼の言葉に蟠りは一切感じない。恐らく、これが彼の本心なのだろう。
 だが、凪沙はその言葉をすぐ受け入れられるほど器用でもなく、荒唐無稽であった。

 飛影が隣にいない生活?そんなもの、考えた事すらなかった。
 だって、お母さんが亡くなってこの寺に来てから、ずっと一緒にいてくれたじゃないか。修行中も助けてくれて、夜が寂しくなかったのは飛影のおかげだった。お守の事も、幽助や蔵馬に嫉妬してくれた事も、好きだと言って抱いてくれた晩も、忘れるわけがなかった。
飛影がいてくれたから。隣にいてくれたから。支えになってくれたから。だからこそ、今の自分があるというのに。このまま、終わっちゃうの?魔界へ行ったら帰ってこないの?もう会えないの?

 飛影が踵を返し、背を向け戸を開けた。凪沙の脳裏に巡っていた走馬灯がふと消え、そして本能が訴える。この時ばかりは己の第六感に感謝した。凪沙は咄嗟に手を伸ばし、飛影の腕を掴んだ。

「…なんだ。泣き言ならもう、」
「私も魔界に行く!!」
「なっ…!?」
「私も修行して、強くなって、…もう守ってもらえなくても大丈夫なようにする!だから…ッ!」
「――だから貴様は甘いんだ!!」

 飛影は凪沙の手を強く振りほどいた。

「言ったはずだ!魔界は強さが全てだと!貴様のような戦いのスキルも乏しい妖怪が魔界に行けばどうなると思う!?…ましてや貴様は人魚の血を引いているんだ。仙水との戦いで死にかけたくせに、まだ分からんのか!」
「そっ…それは!!これから修行を重ねて…!だって、私だって霊丸も使えたし、治癒呪や心術だって…!」
「それらで生き抜けるとでも思っていやがるのか?…笑わせるな!」
「っぅあ!?」

 飛影の手が凪沙の胸ぐらを掴んだ。と、同時に部屋の戸が開けられ、廊下を歩む。仙水との戦いで首を絞められたあの記憶が蘇ったようで、凪沙の眉が下がった。

「ぐっ…うぅっ…!」
「フン。どうだ、苦しいか?」
「…あぁっ!」

 気付けば縁側まで運ばれ、床と天井を繋ぐ柱に背が押しつけられた。胸元に圧し掛かる強い圧迫感で凪沙の表情が歪む。飛影は舌なめずりをすると、空いた片手で刀に触れた。

「貴様程度の女は一瞬で死ぬ。殺られたくないなら本気で来い」
「…飛影っ!やめっ…て…!」
「この期に及んで命乞いか。涙を見せれば見逃してもらえると思うなよ…?」

 ぐるん、と凪沙の視界が回る。気付いた時には背面の衝撃、飛影の姿、その奥に見えたのは天井だった。先ほどよりも押し付けられる力が増し、いよいよ凪沙に焦燥が走る。
飛影の目は本気だった。まごついてる暇があれば瞬時に殺されそうな、殺伐とした雰囲気がひしひしと伝わる。
 シャ、と刃物が擦れる音が耳を掠めた。飛影が鞘から刀を出したのだ。まずい、このままでは本当に…。
 凪沙の目尻から涙が溢れ、目の横を伝った。次いで右の人差し指を構え、左手で支える。ゆっくりと呼吸をすると、それに相まって人差し指に力が集中し始めた。だが、その間に飛影の刀が己の首元に当てられてしまう。ツツ、と刃が首に当たると細く小さな線が生まれ、微弱な痛みが走った。痛みを感じながらも、凪沙は飛影と視線を絡ませた。
 いつから彼の心に鬼が住みついたのだろう。飛影の瞳には優しさなど欠片もなく、非情で冷酷極まりない。且つ、戦いで己の価値観を見出すような、悲しい色で染まっている。

 …本当は、そうじゃないのに。私は、貴方の優しさや温もりを知っている。どうか、もう一度それを見せて。

 凪沙は構えを解き、伸ばした両手で飛影の頬に触れた。すると飛影の瞳が大きく揺らぎ、息を呑んだ。首元に触れている刀も微かに震えている。

「何をやっているんだい!!」

 飛影の後方から飛んできた怒号は、紛れもなく幻海のものだった。飛影は瞬時に刀をしまい、庭に出ると跳躍して森の中へ消えて行った。

「凪沙、大丈夫かい…!?」

 幻海は凪沙に駆け寄り、肩を抱いた。
 凪沙の首からは少量の鮮血が、瞳からは涙が伝っていた。



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