71 引き合うさびしさの引力

「てめえ、ふざけんじゃねえ!」

 闇に包まれた本堂にて、蝋燭の炎が大きく揺れた。淡い明かりの中、桑原が幽助の胸ぐらを掴んだ動きによるものだった。
 礼盤の前には幻海が腰を下しており、仁王像の前ではぼたんと雪菜が心配そうに様子を伺っている。

「本気なのか…!?」
「本気だよ。俺は魔界へ行くことに決めた」
「行ってどうするんだ!魔族になって、人間界を襲いにでも来るのかぁ!?」
「…さぁな」

 幽助は目を細め、静かに返した。
 桑原はその答えに納得がいかず、睨みが鋭くなると同時に怒りが込み上げた。幽助の返答が悪辣極まりないことがどうしても受け入れられなかったのだ。これまで共に戦ってきた戦友…いや、悪友だと思っていたのに。まるで裏切られた気分だった。
 幽助の右頬に鈍痛が走り、身体は反動で飛ばされて本堂入口の扉に身体が打ち付けられた。桑原が拳を振るったのだ。
 夜風が本堂に入り、蝋燭の火が一瞬にして消えた。緊迫した空気が漂うが、幽助はむくりと起き上がると「てめぇのへなちょこパンチもこれが最後だと思うと名残惜しいもんだな」と悪態をつく。そしてゆっくりと立ち上がった。

「…ともかくよ、どうするかはあっちに行ってから考えらぁ。今言えることは、魔界には強い奴がたくさんいる。それだけだ」

 一歩、一歩、着実に歩んで行く幽助。じきに桑原と対峙した。

「…それだけのことがよ。俺をどうしようもなく魔界へと駆り立てるんだ」
「話しになんねぇな。じゃあてめぇ、霊界探偵の任務はどうなるんだ!?」
「その心配はない」

 桑原の問いに答えたのはコエンマだった。本堂入口に立ち、幽助の背越しに桑原を見つめている。

「霊界は浦飯幽助から霊界探偵の任務をはく奪した。それに、浦飯幽助抹殺指令も出たままだ」
「まっ、抹殺指令だぁ!?」
「そういうわけだ。言い訳じゃねぇがよ、このまま人間界にいても俺は霊界の追っ手に抹殺されるだけの運命だ」

 今まで黙考していた幻海がゆるりと立ち上がり、蝋燭に火をつけ始めた。微かに揺れる火を見つめ、目を細めている。過去に思いを馳せているのだろう。

「…懐かしいねぇ。まだ霊力が目覚めていなかった頃の幽助は、たかだかこんな暗闇での戦いでも悪戦苦闘しておった。だが、今の幽助はあたし手に負えないほどの力を身に付けた。あたしたちに出来ることは、こいつの身体の中の魔族の血が間違いを起こさない事を祈るだけさ」

 幻海は幽助の近くまで来ると、眉根を上げ強い眼光で彼を見やった。

「幽助にしか分からない血の疼きが始まってしまったのさ。そしてこいつはなんでも決着をつけて納得しなけりゃ気の済まない…そういう男なのさ。だからこそ、一緒に戦ってきたんだろうが?」

 桑原を宥めるよう、幻海は視線を流した。彼女にそこまで言われると反論の余地がないのだが、桑原の中では未だ煮え切らない思いがあった。

「けど…どうやって魔界へ行く気だ!?魔界を繋ぐ境界トンネルはもう塞がっちまったんだぞ!?」
「塞がった穴はもう一度開ければよい」
「また開ける、だぁ…!?」


 凪沙は一瞬、大きな霊力の動きを感じた。…恐らく霊界特防隊が来たのだろう。まさしくコエンマの言う通りだった。きっと本堂では、いよいよ幽助が魔界へ旅立とうとしているに違いない。
 凪沙はベッドで寝転んでいた身体をゆっくりと起こした。…身体が鉛のように重い。酷い倦怠感だった。軽く頭痛もするが、鞭を打ってでも今だけは行かねば。
 ベッドから降りると、ふと壁掛けの鏡を見た。普段はそこで身だしなみを整えたり、休日に出かける際軽く化粧をするために購入した、お気に入りの鏡だった。これの前に立つときは、高揚感が高まっている事が主なのだが。…今はどうだろう。

「…酷い、顔」

 眉が下がり、泣き腫らした目、血色の悪い顔色。みんな、これを見たらどう思うだろう。こんな酷い有様で本堂に行くのは正直気が引けたが、幽助の旅立ちを見送らぬわけにはいかなかった。

「しっかりしろ、私…!」

 両頬をぱん!と一発叩き、気休めではあるが顔を洗ってからおぼつかない足取りで廊下を歩んで行った。

 本堂に近付くにつれ、少しずつ会話が聞こえてくる。主に聞こえるのは桑原の怒鳴り声だった。恐らく、彼だけは人間であるが故、幽助、蔵馬、飛影の三人が魔界へ旅立つのが納得出来ないのだろう。安易に想像出来た。
 凪沙が本堂の横から姿を現すと、桑原が飛影に殴りかかり、幻海に止められている最中だった。周りには幽助は勿論、蔵馬、コエンマ、ぼたん、そしてもう一人見慣れない少女がそこにいた。その少女は水浅葱色の髪に着物を召しており、紅い瞳をしている。

「桑原、やめないか!まだ三人が戦うと決まったわけじゃない!」
「戦わねぇと決まったわけでもねぇだろう!?」
「和真さん、魔界の全てが醜い争いだとは限りません。魔界は私の故郷なんですから…」
「ゆ、雪菜さん…」

 あの少女は、雪菜というのか。凪沙の足が止まった。
 桑原は雪菜に宥められると、渋々手を下し項垂れた。その瞬間、飛影は凪沙の気配を感じ取ったのか、桑原の背越しに彼と視線が絡んだ。

「…ッ!」

 息を呑み、身体が強張る。そして逃げるように目を逸らしてしまった。…この間の一件から、飛影とはこの数日間会っておらず、正直顔を合わせる余裕など皆無だった。

 「凪沙ちゃん!」

 凪沙の不安を他所にぼたんが声を掛けてきた。全員の視線が自分に集まり、今度は別の意味で緊張が走ったが、飛影から意識が逸れた事も相まって「遅くなってごめんね」と小走りで近付いて行く。勿論、上手く笑っているつもりだ。

「お、凪沙!見送りに来てくれたんだな!サンキュー!」

 幽助が挨拶代わりに、無造作に凪沙の頭を撫でる。そして「ちょっと桑原の事、慰めてくるわ」と小声で話し、そのまま桑原の肩を抱いて少し離れて行った。
 ぼたん、雪菜、幻海も本堂へ続く階段を降りて凪沙の元へ来た。ぼたんは久々の再会であり、雪菜は初対面での期待もあってか、二人は笑顔だ。だが、幻海だけは深みのある視線を凪沙に送っている。これでも笑っているつもりだが、どうやら祖母の目は誤魔化せなかったらしい。

「凪沙ちゃん、もう怪我は大丈夫なのかい?」
「うん。ぼたんちゃんが治癒術をかけてくれたおかげだよ。助けてくれてありがとう」
「それなら良かったよ。心配してたんだから!…あ、そうだ、凪沙ちゃんに紹介しなきゃね」

 ぼたんが雪菜の肩を抱き、軽く前へ促した。

「はじめまして、凪沙さん。雪菜です。和真さんから度々話しは聞いていました」

 桑原が一体どんな説明を彼女にしていたのか、一瞬不安が過ったが凪沙は軽く自己紹介をした。

「ぼたん、雪菜、凪沙。続きは後でやりな。…いよいよ、幽助が旅立つぞ」

 幻海の声の元、三人は特防隊を見やった。

「浦飯幽助、そろそろ出発の時間だ」

 特防隊が手を翳し、霊力を連続的に空中へ送ってゆく。バチバチ、と電流が流れるかの如く、光が徐々に具現化されるとじきに円形になった。魔界への入口が完成されたのだ。

 幽助は目を閉じ、プー助の顔を撫でながら、深い吐息を漏らした。
 不安も勿論あったが、それを上回る期待が己を魔界へと駆り立てる。それを改めて実感し、噛みしめていた。
 ゆっくり双瞼を開ければ、皆が神妙な顔つきで自分を取り囲んでいる。中でも一番印象深かったのは凪沙だった。
 凪沙は、自分を見てくる幽助の眼差しに気付いた。彼のその目は、今まで何度か見た事がある。それは、誠意と覚悟を担った時のものだった。
 …本当に、行ってしまうのか。幽助の決めた事だから応援したい気持ちも山々だ。その一方で幽助の身を案じ、そして純粋に寂しさを感じることから、凪沙は困惑する他なかった。ましてや、後日飛影や蔵馬もこの穴を通ることを思うと、余計だった。

 幽助は踵を返し、まじまじと穴を見つめた。

「複雑な気分だぜ…。仙水が必死になって開けようとした魔界の穴をよ、おめーらの手にかかりゃこうも簡単に開いちまうんだな」
「…浦飯、」

 幽助が声のする方へ振り返った。桑原が背を向けている。

「俺達ァちーっとばっか、選んだ道が違っただけだよなぁ…?」

 表情は分からないが、声色から切なさや寂しさを感じる。悄然している背もまた、桑原の感情を物語っていた。

「桑原…」
「俺、絶対受験受かるからよお。…自慢すっからな」

 桑原の切なる思いが周りにも十分伝わった。雪菜は桑原を案じ眉を下げ、ぼたんはすすり泣きをしている。
 共に戦ってきた仲間との決別ほど、悲しく、寂しいものはない。陰鬱な雰囲気が漂った。
 そんな中、特防隊の一人が駆けてきた。

「準備完了しました」
「…浦飯幽助、」
「あぁ。…じゃあ、行ってくるぜ」

 幽助は桑原を見やったが、彼は俯いたままだった。恐らく気持ちの整理がつかないので卑屈になっているのだろう。それを察した幽助は飛影、蔵馬に笑みを見せた。

「…飛影、蔵馬!先に行ってるぜ」

 飛影は相変わらず無表情だったが、蔵馬は「また後で」の意を込め、微笑している。
 幽助が穴へと歩み寄り、それを引き留めるようプー助が鳴き声を上げた。プー助もまた、寂しいと嘆いているようだった。

「余計な事だが、生きて帰れると思うなよ…?」
「へっ。帰ってくるときは、向こうから穴開けて来っからよ。またその穴、塞いでくれよな」
「フッ…。行け」

 特防隊の一人が顎で穴を示した。

「幽助、本当に行っちゃうのかい…!?」

 涙ながらに問うぼたん。振り向いた幽助の瞳には迷いや翳りは一切なかった。

「あぁ。…じゃあな!」

 幽助はぐっ、と力強く脚力を入れ、高く跳躍した。身体は瞬く間に魔界へと続く闇へ染まっていった。

「…ッ幽助―――!!」

 ぼたんの悲痛な泣き叫ぶ声が、辺り一帯に響いた。



***



 幽助の見送りが済んだ後。幻海、蔵馬、コエンマ、ぼたん、雪菜は客間に集まった。ぼたんのすすり泣きが未だ止まず、雪菜が宥めている。幻海、コエンマ、蔵馬もまた、複雑な思いからか、腕を組んだまま口を噤いでいた。
 飛影は幽助を見送った後、すぐに森の中へと姿を眩ませた。凪沙と顔を合わすのも、ましてや雪菜の手前余計な姿を見せたくないという思いもあったのだろう。
 その一方で、桑原と凪沙は肩を並べて縁側で腰を下していた。「少し、話そう」誘ったのは凪沙だ。桑原の心情を察し、凪沙もまた飛影に対して同じ思いを抱いてたからこそ、だった。

「桑ちゃん、志望校決まったんだね」
「あぁ…。骸工大附属、受けようと思ってな。浦飯に啖呵切っちまったからには絶対受からねぇと。…そういや、立花が俺等と知り合ったのって、確か進路希望調査票がきっかけだったんだよな」
「…そうだったね」

 受験の話題を機に、桑原と凪沙は共に思いを馳せた。
 まだ、一年にも満たないはずだが。あの件をきっかけに凪沙は幽助や桑原、蔵馬や飛影との関係が築かれていった。母を亡くして間もなく幻海に引き取られたが、あれから本当に色々な事があったとつくづく思う。
 実は霊力を持って生まれていた事から、自分に人魚の血が流れていた事実や仙水との戦い、それらを通してコエンマやぼたんとも知り合う事が出来た。何よりも、何も知らずに母と暮らしていたあの時も平凡であったが、今の生活も決して嫌いなわけではなかった。寧ろ、様々な人との関係が今の自分を作っているのも事実であり、その中でも一番大きな存在となっているのはやはり一人しかいなかった。

「なぁ、飛影も魔界に行くんだろう?おめぇ、よく送り出す気になったな」
「…本当は、そんな気ないよ。上手く説得できなかっただけ」
「はぁ…。アイツも頑固な所あるもんなぁ。立花みてぇな一番親しい奴でも止められないんじゃ、どうしようもねぇよな…」
「そう…だね…」

 桑原の言葉は決して間違ってはいなかった。現に、感情に任せて訴えた結果、こうなったのだから。凪沙は無意識に、首元に貼られている絆創膏に指が伸び、触れた。
 魔界にいる妖怪とは、如何ほどの強さを持っているのだろう。飛影の無事を祈る他術が見つからないその一方、先程のやりとりがふと脳裏に過った。

「…ねえ桑ちゃん。雪菜ちゃんがさっき言ってたんだけど。魔界が故郷だって事は…雪菜ちゃんも、もしかして妖怪なの?」

 先程雪菜と対峙した際、確かに妖気は感じたのだが。確認の意味で凪沙は問うた。

「あぁ。雪菜さんは氷女って妖怪だ。クソみたいなジジイに、金裁きのために無理矢理人間界に連れて来られたんだよ」

 桑原は垂金の別荘での一件を簡単に説明した。それに関連して、仙水との戦いで凪沙への仕打ちが、まるで雪菜への戒めを連想させたことを桑原は話した。
 氷女もまた、人魚族ほどではないが、コレクターや闇市で話題になる種族らしい。

「それでよ、雪菜さんには生き別れた兄がいるらしいんだ。さっきも浦飯に、魔界に行くなら雪菜さんのお兄さんの情報を頼んだんだが、な〜んかよそよそしくてな。アイツ、この話題振ると毎回そうなんだよなぁ」
「…へぇ。お兄さんがいるんだ」

 妖怪にも兄妹…いや、家族っているのか。今まで盲点だったな、と思うその一方、凪沙の脳裏にふと疑問が過る。
 幽助には温子が、桑原には両親と静流が、蔵馬には志保利が、そして雪菜には兄がいるらしいのだが。…そういえば、飛影にも兄弟や家族っているのだろうか。本人から聞いた事がないのもそうだが、同時にある事に気付くと思わず目を見張ってしまった。

 …もしかして。私って飛影の事、何も知らないんじゃ…?

「その兄貴って奴ァよ、あ〜んな可愛い子を置いて一体どこほっつき歩いてんだろうな。もし会えたら一回ぶん殴ってやりたいぜ」

 凪沙は桑原の声でハッと現実に戻った。隣では桑原が雪菜について熱く語り始めている。
 凪沙は相槌をして聞き流しながらも改め、雪菜の容姿を脳裏に描いた。確かに彼女は妖怪とは思えぬほどの、純真で可愛らしさが滲み出た物腰の柔らかそうな雰囲気が印象的だ。水浅葱色の髪も綺麗に結ってあり、白い着物を召した姿は氷女という名に相応しい出で立ちともいえる。勿論、あの瞳の紅色もとても綺麗だった。
 …紅い、瞳。そういえば飛影の瞳も同じ色をしていたな、と凪沙はふと思ったが、その時は特に深くは考えなかった。



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