69 雨空と明けない夜

 雨脚が町全体を覆うような深夜だった。
 皿屋敷駅近くの高架橋下にて、蔵馬は木箱に腰を下していた。眉間に皺を寄せたその表情は困惑に満ちており、今目の前で見聞きした事柄に対して、まるで思考が追い付かないといった様子だった。前掲姿勢のまま指を組み、そこへ顎を乗せれば、脳裏には先ほどの内容が反芻される。

 蔵馬の元に訪れた三人の妖怪は、言霊を手にしていた。聞けば、送り主は且つて盗賊仲間であった黄泉からだという。「一体どうなっている?」という疑念を抱きつつ言霊を壁に当てると、硝子が割れた音と同時に細い影が浮かび上がり、たちまち人の形へと変化していった。
 そこに現れたのは、盗賊時代とはまるで異なった出で立ちをしていた黄泉だった。竹馬の友、といえば聞こえはいいかもしれぬが、正直今更接触を図ってくる魂胆が読めず、蔵馬は訝しんだ。
 頭部に生える何本もの角、優れた聴力を持つ六つの耳は相変わらずであったが、光を失った双眸や微かに上がっている口角が、昔とは違った不気味さを漂わせている。そして影で作られた人物像であるにも関わらず、ひしひしと伝わってくる智賢で怜悧そうな顔つきがまた蔵馬を惑わせた。
 影の線で作られた黄泉は軽い挨拶を終えると、すぐに本題へと移った。どうやら黄泉はこの数百年の間で魔界を掌握できるほどの力をつけてきたらしい。その実力は、蔵馬や黄泉が生まれた頃から魔界を支配しようとしていた雷禅や躯と肩を並べられるほどだ。
 黄泉の目的はその二人を凌駕し、魔界を統一する事。そのためには蔵馬にも力を貸してほしいという事だった。そして余談ではあるが、数百年前、黄泉から光を奪った妖怪も捕虜しているのでそれも見て欲しい。それが黄泉からの弁だった。

「古い知り合いか?」

 蔵馬の肩が大きく震えた。咄嗟に声のした方を見やると、ポケットに手を入れたままゆっくりと近づいてくる飛影の姿がそこにあった。

「フン、驚いたか。お前らしくもなく、周りが見えないほど熱中していたな…。俺のところにも使いが来たぜ。こっちは躯からだったがな」
「躯も…!?」

 飛影もまた、先ほどの蔵馬同様言霊を向かいの壁にぶつけた。黄泉からの言霊のように、影で線が描かれ、やがて躯の出で立ちを露わにした。
 躯の上半身は顔全体が包帯で巻かれ、呪符が幾つも張られている。飛影の元に訪れた部下たちも似たような出で立ちをしていたので、躯本人からの弁で間違いなさそうだ。そして躯の顔に巻かれた包帯から覗く、炯々と光る右目が印象的だった。黄泉の時とはまた異なった不気味さを感じる。

「初めまして、飛影。俺が躯だ」

 躯の声は機械音が混じった中性的な声だった。彼が話すその旨は、先ほど黄泉も話していた雷禅の事だった。恐らく彼は先が短い。彼が亡くなった後、躯は黄泉へと総攻撃を仕掛ける計画を練っているというのだ。黄泉は「魔界統一」と謳っているが、恐らく自分好みの秩序を押し付ける魂胆だろう。その悪辣な手段を取るであろう黄泉を倒すため、部下になれという弁だった。

「魔界はもうすぐ正常に戻る。その時は俺の傍にいろ…」

 話しが終わると、躯を描いていた影は自然と薄れていった。

「よく喋る野郎だ。所謂引き抜きってやつか?」
「躯も、仙水と俺達のいざこざを知っているようだな…。奴らは魔界のあちこちで起きた妖気の衝突を余すことなくチェックしている」
「…どうやら面白くなりそうだ。俺は躯に会いに行く。…安心しろ、躯につく気はない」
「手っ取り早く戦闘能力を上げるには年中戦っているのが一番だ。躯のところに行けば戦闘には不自由しないという事か」
「せいぜい利用させてもらうぜ」

 飛影が踵を返し、ポケットに手を入れて歩み始めた所で「でも、飛影」と蔵馬が呼びかけた。飛影は振り向かなかったが、歩みは一旦止めた。

「魔界へ行くなら、それは貴方が決めたことだからいい。…でも、本当にいいのか?」
「…どういう意味だ」
「凪沙ちゃんのことだ」

 蔵馬は立ち上がった。未だ背を見せる飛影の肩が微かに震えたのを見逃さなかった。

「入魔洞窟から地上へ向かっていた最中、俺が凪沙ちゃんを抱いていた。彼女の妖力はとっくに限界を迎え、深い眠りについていたんだ。その間、彼女の身体はいつの間にか人間の姿に戻っていたんだが…妖力は消えなかった」

 飛影はゆっくりと振り返った。普段通り鋭い目つきだが、瞳の奥が揺らいでいるように感じるのは気のせいだろうか。
 蔵馬は飛影と視線を絡ませたまま、続けた。

「これは俺の推測にすぎないが…。今回の戦いで凪沙ちゃんに眠る人魚の血が大きく覚醒し、身体が妖怪になろうとしているんじゃないか?もしかしたら、飛影が魔界へ行くことを知ったら、きっと凪沙ちゃんは…」
「もう、いいだろう」

 蔵馬の言葉を遮るよう飛影は言い放った。これ以上の言葉はまるで愚問だ、と顔に描いてある。

「…その、“もしかしたら”になったらどうするんですか?」

 それは幻海も懸念していた事と同じだった。
 それに加味して、雷禅、黄泉、躯の名が出た戦いの場へ招待されている。これが何を意味するかは、飛影も蔵馬もある程度は理解していた。恐らく、今までの闘いとは全く異なり、次に敵となるのは、という事や、命の保証についても、心のどこかで危機感はあった。
 自分が妖怪である限り、そして今までもそうやって生きてきた限り、戦いの場から逃れる事など念頭にもなかった。こうして生きている限りは常に戦闘が纏わりつき、死の淵に立たされる事が永遠に続くであろう。その永遠に終止符が打たれるのは、ただ一つ。己の死を意味する時だけだ。魔界へ行けばその終止符を打つ機会が遅かれ早かれ、必ず来るだろう。
 蔵馬からの問いに、飛影は黙考するほかなかった。四次元屋敷で凪沙の先祖の話しを聞いた時から薄々と気が付いていた。あの時はまだ凪沙が完全な人間だったが、今は半妖怪だ。…だからと言って、彼女が魔界で生きていくとなれば、今以上に危険が伴うのは明確だ。現に人間界にですら、仙水のような強敵に目をつけられていたのだ。これが魔界、となれば、最早言わずもがな、だった。

“あんたに、凪沙は守れるのかい?”

 幻海からの言葉が反芻する。同時に、仙水との戦いで、痛みと苦しみに耐え、血を流し限界まで妖力を使って戦った凪沙の姿が、脳裏に過った。

「…飛影、」

 しびれを切らした蔵馬が再度問う。眉根を寄せ、飛影の心情を察するかのよう彼に近付いた。

「不安、なんですよね?」

 長年の付き合いからか、飛影の考えている事はなんとなく蔵馬も汲んでいた。彼からの指摘に、飛影は一瞬大きく目を見開いたが、反論する余地がなかったのか、ポケットの中で拳を握った。

「そして、貴方は迷っている。…凪沙ちゃんを魔界に連れて行くかどうか」
「…だったらなんだと言うんだ」
「貴方の気持ちも分かります。俺も仙水との戦いは…見ていて心苦しかった。無力でしかなった自分を恨みましたよ。でも、彼女は貴方の叫びを機に力を発揮した。即ち、凪沙ちゃんは飛影の近くにいればこれからも妖力が伸びる可能性はあるんじゃないですか?」
「俺と一緒にいれば、だと?フン…馬鹿馬鹿しい。俺は戦いたいが為に魔界へ行くんだ。何故凪沙のお守りまでせんといかんのだ。俺はお前と違ってそこまでお人良しじゃない」
「散々凪沙ちゃんの事を溺愛しててよくそんな言葉が言えますね…。じゃあ、彼女を人間界へ置いていくと言うのですか?」
「当たり前だ。凪沙は半妖怪だが、元々人間として育ったんだ。俺とは何もかもが違う。魔界の穴は塞がったんだ。人間界に危険が迫るのも早々ないだろう。…凪沙は、このまま人間界に残った方がいい」

 飛影の言葉の語尾に憂いが含まれ、視線が落ちたのを蔵馬は見逃さなかった。まるで自分に言い聞かせてるように見えたのは、気のせいではないだろう。
 凪沙との関係が始まってから、飛影は随分と丸くなった。捻くれて憎まれ口を叩くのは相変わらずなのだが、彼女を見つめる瞳や接し方が、まるで知り合った頃に比べると別人のようだった。凪沙を慈愛し、独占欲も魅せる彼の事だ。魔界へ行くとなれば当然凪沙も同伴させると思っていた。危険が迫ろうとも「俺が守る」と豪語し、彼の実力なら有言実行も余裕だったはずだ。ましてや、凪沙の身体が半妖怪なのであれば寧ろ好都合と捉えるべきであろうに。
 恐らく凪沙を失いたくないという思いが根源にあるのだろうが、その背景を思案すると、蔵馬は気が付いた。…もしかしたら、凪沙の先祖の事と何か関係しているのだろうか。

「飛影、あなたが本当に迷っているのは魔界の事も含め、凪沙ちゃんの先祖が関係してるんじゃないですか?」
「―――ッ!?」

 意表を突いたのか、飛影の瞳が大きく揺らぐ。反応からして図星のようだ。手応えを感じた蔵馬は続けて問うた。

「…そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?貴方が凪沙ちゃんと知り合った頃に話してくれた“知り合い”の件を」
「…!チッ…余計な事ばかりベラベラと喋りやがって…!」
「恐らく、調べれば簡単な事でしょうけど実証がない。やはり本人の口から聞くのが一番です。話したくなければ俺独自のルートで調べ上げますが、凪沙ちゃんとの接触は否めないですよ?それでもいいですか?」

 わなわなと肩を震わせる。やはり凪沙の名を出されれば弱かった。
 飛影は不承不承と、簡単ではあったが潮の存在を話した。彼女とどんな関係だったかまでは流石に言えなかったので、魔界にいた頃彼女と関りがあった、程度の弁だ。

「その潮さんってのが凪沙ちゃんのご先祖様だったと…」
「もういいだろ、この話しは…!」
「いえ、まだです。潮さんとはどういった関係かは存じませんが…飛影がそこまで一途に一人の女性を想っていたとは。いやはや、驚きましたよ」
「俺がいつそんな事を言った!?」
「全部顔に描いてありますよ?」

 獰猛な狂犬の如く飛影は声を上げたが、表情と一致していないだけに蔵馬はあっけらかんとしていた。
 なるほど。そういった背景があるのなら、人魚族と飛影に接点が生まれるわけだ。恐らく、彼を丸くさせる感情を教えてくれたのも、潮だったのであろうと合点した。

「まぁ、潮さんとの関係を加味してでも、貴方は魔界へ行き、凪沙ちゃんは人間界へ残す。そういう事でいいんですね?」
「さっきからそう言ってるだろう…!」
「いえ、でしたら俺にも言い分があります。…俺は飛影と違いますから」

 蔵馬は飛影を見下ろした。長身な男に顔を覗きこまれるほど、不快はことは無い。飛影の眉根がピクリと上がった。

「貴方の事だ。凪沙ちゃんとの関係は中途半端にするとは到底思えない。きっと貴方たちなりにけじめをつける事でしょう。…もし、そうなったら、俺は俺のやり方で動きますよ?いいですね?」
「フン、勝手にすればいい」
「…凪沙ちゃんを残して魔界へ行く、っていうのはそういう意味でもあるんですよ」

 含めた笑顔を魅せる蔵馬の背後に、黒い影が見えているのは気のせいではない。盗賊だった頃の血が騒ぐのか、その力強い眼光は狙った獲物は逃しはしないと謳っているようだった。
 一瞬、飛影は怯んだ。本音を言うと、やはりこの男は敵に回したくない。だが、凪沙の身が危険に晒されることと天秤にかければ、自然と答えは見つかってしまった。…本当は見つけたくなかったのだが。自分が出した答えは、即ちそれも意味するという事だ。

「俺には関係のないことだ」

 目を逸らし、憂いを帯びた視線は横に流れた。
 今度こそ踵を返し、そのまま闇に消えた飛影の背を、蔵馬は黙って見つめていた。

「本当に…いいんですね…?」

 かまをかけたつもりであったが、どうやら飛影も本気のようだ。そうとなれば話しは早い。こちらも、時期を見計らおうか。

 雨脚は止むことなく、雫は尚も地に打ちけられていた。



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