68 満ちない夢のまま

 入浴を済ませ、身なりを整えた凪沙は幽助と肩を並べて縁側に腰を下した。
 凪沙は一週間程眠りについていたためか、仙水との戦いはついこの間の事だったが妙に長い時間が経ったような感覚だった。隣にいる幽助もすっかり元の姿に戻っていたからこそ、なんだか久しく感じるほどだ。
 月明かりが二人を照らし、影を作った。

「…さっき、起きたばかりなんだって?」
「うん。おばあちゃんに聞いたら、戦いの後からずっと眠ってたみたいで…」
「凪沙、覚えてねーのか?みんなでプーの背中に乗った途端、コロッと寝たんだぞ」

 まるで飛影みたいだったぜ。と、幽助は、凪沙が眠っていた間の旨を話してくれた。
 洞窟を抜けた後、ぼたんや幻海、海藤や柳沢、そして後に合流した螢子と静流も出迎えてくれていた。特に螢子は凪沙を一番心配していただけあり、「無事で良かった」と涙して喜んだそうだ。因みに、凪沙は蔵馬に抱かれ、入魔洞窟を歩んでいた最中、身体はいつの間にか人魚から人間の姿に戻っていたらしい。
 また、凪沙は戦いの中で膨大な妖力を使い切ったがため、自身の治癒力は既に残っておらず、ぼたんがすぐに応急処置をしてくれたので大事には至らなかった。そして桑原におぶわれた飛影もまた深い眠りについていたので、凪沙と共に幻海邸で療養する運びとなったのだ。

「え、じゃあ飛影も一緒に帰ってきたの?」
「ああ。ばあさんが一緒に連れて帰るって言ってな。プーに運んでもらったはずだぜ。飛影と会ってねえのか?」
「うん…。多分、私よりも早く目が覚めたんだと思うんだけど…」

 じゃあ、やはりあれは夢ではなかったのだろうか。
 照れるやら嬉しいやらで、誤魔化すように頬を指で掻く凪沙。幽助はTシャツから覗く両腕の包帯を見やると、視線は彼女の顔へと改めて向けられた。
 凪沙の顔は頬や口元に傷跡が少々残り、痛々しい様をしている。ぼたんの治癒術はあくまでも応急処置だったので、傷が残ったのは致し方あるまい。

「傷、痛くねえのか?」
「平気だよ」

 幽助の問いに笑顔で答えたのは恐らく凪沙なりの気遣いだろう。だが、幽助としては、思い人の切ない様を見るのは、やはり心苦しかった。
 幽助の手が、自然と凪沙の頬に伸びた。親指で口元の傷跡をゆっくり撫ぜると、こそばゆい感覚が凪沙の身体に走り、硬直する。
 二人の視線が絡んだ。月夜に照らされる幽助の瞳は、何度か見たあの色をしている。強い眼差しに惹きつけられ、凪沙は緊張が走った。

「…ゆ、うすけ?」
「ちゃんと、守ってやれなくてごめんな」
「そ…そんな事ないよ!私、幽助にたくさん助けてもらったよ?…ううん、幽助だけじゃない。みんなにだって…。私がもっと強くて、戦い方も上手だったらよかったんだけど、修行不足だったみたい。…でも、私は嬉しかったよ。幽助が守ってくれて…今もこうやって、生きていてくれて。…ありがとう」

 凪沙の顔もまた、月夜に照らされた。ふわり、と夜風が二人を優しく撫ぜる。柔らかく靡く凪沙の髪からは清潔感のある甘い香りが漂い、幽助の鼻腔を掠めた。

 柔らかく微笑み、優しい眼をするこの少女に、幽助の心が奮い立たされる。幽助の瞳が揺らぎ、凪沙の口元に触れている指先もぴくん、と微動した。
 仙水との死闘が終わり、虚無感が支配する乾いた心に水が注がれ、じんわりと浸透してゆくような、そんな感覚が走った。
 …このまま抱きしめて、頭を撫で、その唇と口づけを交わせたら。自分の欲のままに凪沙を手に出来たら。
 凪沙に触れる指先が震える。だが、その一方で脳裏に過るのは、やはりあの男。戦友である彼を裏切りたくない気持ちと、己の欲が天秤にかけられ、揺れる。それは幽助の理性が必死に戦ってる証拠だった。
 …今は、駄目だ。自分の事も決められないようじゃ、恐らく凪沙と本気でなんか向き合えやしない。以前の前言撤回もしたいところだが、まずは己の迷いと葛藤と、決着をつけるのが先だ。
 幽助は一度、ぐっと強く瞳を閉じ、俯いて黙考した。そして一拍程置くと顔を上げ、凪沙の頭を無造作に撫で始めた。

「え、うわ、なに!?」
「…なんでもねーよ!傷、早く治るといいな!」

 頭を撫で終えた幽助はいつものあっけらかんとした笑顔を見せた。
 そして凪沙に伸びていた手を引き、空を仰ぐと大きな月夜をぼんやりと見つめる。

「俺…凪沙に聞きたいことがあってよ」
「何?聞きたい事って…」

 凪沙は手櫛で髪を整える中、幽助に問うた。

「仙水との戦いの中で人魚の力が目覚めただろう?あれ、どんな感じだった?」
「どんな感じ?って…どういう…こと?」
「なんつーか、その…。自分じゃない誰かが、話しかけてきたり、とか…?」
「…うん、あったよ」

 凪沙は事の次第を話した。
 仙水の攻撃を受けて気を失っていた間、潮と名乗る先祖が己の意識に声を掛けて来てた。それがきっかけで入魔洞窟では、霊丸や治癒術に加え、歌や心理術も操れるようになったのだ。
 幽助はそれを聞き、以前幻海と話した“飛影の知り合い”の件とようやく合点し、確信した。やはり凪沙の先祖は潮という女で間違いなかったらしい。
 だが、今ここでそれを話すと色々とややこしいので、静かに胸の内に留めた。

「そうだよなぁ…。…実は俺、あの戦いからずっと気になってたことがあってよ。魔族大覚醒をした時、俺じゃない誰かが仙水に霊丸を撃ったって言った話、覚えているか?」
「うん…。覚えてるよ」

 寧ろ、忘れられるはずがなかった。
 魔族へと変貌を遂げ、殺伐とした雰囲気を放っていた幽助だが、あれはどう見ても自分の知る幽助ではなかった。あの仙水に容赦なく攻撃を続けたあの様は、出で立ちから顔つきまで、もはや全くの別人格だった。
 あの時の幽助には、仙水とはまた違った恐怖心が駆り立てられたほどだ。

「そうか。あの時は怖がらせて悪かったな…」
「ううん。でも、あの力が目覚めたから仙水を倒せたんでしょう?」
「あぁ。…ただ、どうも俺の中で納得いかなくてよ。仙水を倒した後、もし魔界に残ったら人間界の事が気がかりになっただろうし、かと言ってこっちにいりゃ全部中途半端だ。だからな〜んか物足りねぇんだよな。…で、今日の昼間、コエンマと会ってきんだ。したら霊界の奴ら、俺への抹殺命令を未だ取り消してねぇみてぇだし、今後どうしたいのか迷っているなら、ばあさんの所に行けって言われてよ。そんで今に至るってわけだ」
「え、ちょっと待って。じゃあ、幽助の命は今も狙われてるって事なの?」
「まぁな。でも、それはそれでいいんだ。こっちでマトモに闘える奴なんていねぇから退屈してたところだしな。だから心配すんな。…で、ここへ来たおかげで、ようやく一歩踏み出せそうでよ」

 幽助がそう言いながら懐から取り出したのは、一枚のメモ用紙だ。それを受け取り開くと、幻海の字で“初代霊界探偵 佐藤黒子”と書いてあった。

「初代…霊界探偵?」
「あぁ。とりあえず、その人ん所に行けって。世間話でも参考になるって言われたんだ」
「そうだったんだ…」
「…なぁ、凪沙も魔界へ行った時、気にならなかったか?」
「…え?」
「その…上手く言えねーけど。自分の先祖がここに住んでて、どういう風に生きて…とか。俺の場合は仙水との喧嘩を邪魔されたから、納得いかねーイラつきの方が大きいんだけどよ、凪沙はまた違うだろう?」
「…そう、だ、ね…」

 凪沙は改めて魔界という所に思いを馳せた。
 仙水との戦いで訪れた魔界…。あの時は戦いに全ての神経と意識を集中させていたため、寧ろそんな余裕など一切なかった。だが、今幽助に問われ改めて思いを巡らせると、潮が魔界でどのように生き、そして飛影とどのように過ごしたのか、確かに気にはなる。
 しかし、その一方で不安もあった。人間であった仙水はS級妖怪クラスの強さで、幽助はそれを上回った。その双方の闘いは目が離せなかった反面、桁違いの強さを見せつけられた。その結果恐怖心に塗れ、飛影の腕にずっと抱かれていたのを覚えている。その戦いはまさしく、飛影が教えてくれた「強さが全て」という魔界の秩序そのものだったのだ。
 決して魔界に興味がないわけではないが…。再び足を踏み入れる勇気は、果たして自分にあるのだろうか。

「…魔界の事は確かに気になるし、また行ってみたいとは思う。でも、正直言うと怖い気持ちもあるんだよね」
「いや、無理もねえよ。…あのさ、話しが二転三転して悪いんだけどよぉ」

 幽助が申し訳なさそうに凪沙を伺う。一体何をそんなに詫びるような事があるのだろうか。凪沙は不思議そうにしている。

「…俺、さっきからずっと気になってることがあって」

 幽助の表情が転じて、怪訝そうにしている。凪沙の頭上にはますます疑問符が上がった。

「多分…いや、間違いねえと思うんだけど。今日凪沙と会ってからずっと、妖気と霊気の両方を感じるんだ。今は人間の姿になってるはずなのに、何で妖気を感じるんだろうって…」
「…え。う、そ…」

 自覚は無かったのだが、幽助の見立てに嘘は感じられない。と、同時に入魔洞窟内で潮と交わした会話が脳裏に過った。

「私のご先祖様…潮さんが言ってた。私の身体、半妖怪だって…」
「え、まじ?」
「それって…幽助と同じで、私の身体も妖怪になろうとしてるって事なのかな…?」

 瞳の色以外は髪の長さも、足も、全て人間の出で立ちに戻ったはず。だが、身体の奥底に眠っていた妖力が目を覚まし、疼いたままなのだろうか。
 答えの見つからない新たな疑問が浮上し、凪沙の表情は曇った。



 幽助と凪沙の会話を邪眼で見聞きしていた飛影は、額にある邪眼を閉じると、包帯を巻きつつ己の瞼を上げた。
 自分が目覚めてから四日間、眠っている凪沙の傍らに付き、ずっと見守っていたの。だが幻海邸に幽助が訪れたのを機に、静かに彼女の部屋を後にしたのだ。この様を幽助に見られたくなかったのも勿論だが、己の精神状態が揺さぶられている中で彼に会いたくなかったのも、また事実だった。

 幻海邸を後にした飛影は、寺の隣にある森の中に入り、大木の太い枝に腰を掛けていた。そこは普段幻海と凪沙が修行をしている森だった。
 そして浮上したのは、幻海邸に訪れた幽助は必ず凪沙と会うに違いないという確信だ。余計な事をしないだろうな、と案じて邪眼で見ていたものの、やはり予想通りだった。
 幽助が凪沙の頬に触れた瞬間嫉妬心が湧き上がったが、幽助の性格上中途半端な事はきっと出来ないはずだ。なんでもかんでも自分でケリをつけねばならぬ、変なところで真面目な彼だったからこそ、飛影は幽助も、そして凪沙も信じ、二人の様子を見守っていた。…恐らく、どこぞの狐の皮を被った男はまた別なのだろうが。と、頭の片隅で余計な事を考えていたのは、また別の話しだが。
 結果幽助の理性が勝利し、安堵したのも束の間だ。その後の会話は予想に反したものだったので、飛影の懸念は益々拍車をかけたも同然だった。
 先日の幻海との会話が、現実になろうとしている。今は恐怖心が抑制しているだろうが、あの様子なら凪沙も近いうちに「魔界へ行きたい」と言い出すかもしれない。
 悪い夢なら冷めてくれ、と願いたいところだが。…悪い夢など、過去に散々見てきたじゃないか。今更何を言うか。と、らしくもなく自嘲的な笑みを浮かべていた。…その瞬間。

「――っ!!?」

 近付いている、ただならぬ妖気。それに気が付くと鞘に手を伸ばし、体勢を整えた。
 …どこだ?どこから来る?神経を張り巡らせ、縦横無尽に瞳を動かす。そして気配が上から来ると気付いた瞬間、飛影が避けると同時に大木の枝が鈍い音と共に折れ、落下した。
 飛影は枝から少々離れた所に着地し、刀を構えた。

「お待ちください。我々は戦いにきたのではありません」

 暗闇から姿を現したのは、頭から上半身にかけて布を巻いた三人の妖怪だった。
 本人達は力を抑えているのだろうが、飛影ほどの実力者には隠せていないも同然な強い妖気を感じる。故にただ物ではない事を悟った飛影の眼光は鋭くなるが、対峙している一人の妖怪が懐に手を伸ばすと、球体を投げてきた。
 淡く光るその球体を飛影は左手で受け取った。それは言玉だった。

「躯様からです。貴方様を魔界へ招待するよう弁がございました」
「…なんだと!?」
「では、我々はこれで…」

 それだけ言い残すと、三人の妖怪達は暗闇の中へ姿を眩ませた。

 飛影は言玉を見やると何かを察し、懐へしまうと跳躍して木々を伝った。
 先ほど頭の片隅で思い浮かべたのは、虫の知らせだったのだろか。少々不服だが、これを話せるのはあの男しかいない。
 
 目指すは、皿屋敷市だった。



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