うしなう

イギリスはそれを捨てた。
ただ、それだけの話。

雨が好きだ、とイギリスは思った。しとしとと降り続く雨を、まぁるいその瞳に写しながら。雨が好きだと、ただ漠然とそう思った。
だからなんとなく、そう呟いてみることにした。
「おれは、雨が、すきだ」
静かな雨音は、室内のそんな声にまで干渉しない。しかし長い間黙っていた所為で掠れた声は、不明瞭な文字の羅列しか生み出さなかった。だからイギリスの耳にはほとんどその響きを残さない、けれど、イギリスはひとまず、それで満足する。安心した、と、そう言い換えてもいい。だって、この部屋には――イギリスの世界には、今や自分以外、誰もいないのだから。感情の吐露を聞かれることも、その曖昧さを咎められることも、だから、ない。それを改めて思い知らされたようで、イギリスは安心した。安心できた。

イギリスは、イギリスを知っている誰もが思うよりも、ほんの少しだけ、頑丈な精神を持っている。本当は、こうやって取り留めもないことを考えている時(人はそれを、落ち込んでいると言うらしい)に、無用な慰めなど必要ないのだ。イギリスは、ちゃんと、一人で立てる。
そのことを知っていた唯一の理解者をつい先ほど手酷い言葉で突き放したところなのだが、イギリスのくすんだような緑の目には、涙一つ浮かびやしなかった。
自分でも驚くほど、それを手放すのは簡単だった。
もっともっと、泣き喚いて後悔するのかと思った。昨日まで、彼はイギリスの、国としてではなく個人として使える心の、全てだった。決して狭くないそのスペースを、統べられていたと言っても、過言ではない。
こんな気持ちになるのは、まだほんの小さな――広い広い森の中、ぽてんと途方に暮れたように立ち尽くすしかなかった、ひどく無力な子供であった時以来初めてのことだったけれど、イギリスは自分の感情を難なく受け入れることが出来た。
それにまず驚いて、しかしすぐに、そうではないと気付く。
今、イギリスは空っぽになったのだ。いつも、とは言わないが、ここのところずっと満ち満ちていたイギリスの中の、どこか知らないところにあるグラスが、今、ついさっき空っぽになった。
だから、自分の醜いところも、嫌なところも、全てすんなりと受け入れることができる。
それがいいことなのか悪いことなのか、イギリスには分からなかったけれど。
少なくとも、イギリスはそんな自分を好きにはなれなかった。

恋が、終わったのだ。一つの、長い長い恋が。
イギリスはゆっくりと目を閉じた。まるで一仕事やり遂げたような、そんな心地よい倦怠感がイギリスの身体を覆っていた。それは多分、恋が、終わったから。
もっと恣意的な言い方をしてしまえば、失われた。イギリスを形作っていた恋が、愛が。
しかし失われた、と言うと、まるでそれが勝手に手の中から零れ落ちていったみたいな錯覚を起こしてしまうだろう。けれど、残念ながら、事実はそうではない。
その恋を蹴ったのは、手放したのは、他ならぬイギリス自身なのだから。
それを失われた、と、誰かの所為にするような言い方をするのは冒涜だと思った。それは無論、誠実にこの恋を形作ってきた、イギリスの恋人――フランスに対して。
だからイギリスは、自分の中でこの表現を使ってしまったことをひどく恥じた。

――しかし、事実、失われた恋もある。

イギリスの中の恋の話である。
イギリスが、恋人であるフランスに対して抱いていた恋は、正しく『失われた』と言って、全く差し支えない。と、思う。
穏やかに、そうとは気づかないように、静かに。それはイギリスの中のグラスから、零れていったのだった。そして零れ落ちたそれらの恋が何になったかというと。
それは勿論、愛に姿を変えたのである。
こうして、日を追うごとにイギリスの恋は失われた。恋は愛に、愛に、愛に。
そうしてイギリスの決して小さくないその器が愛で満たされて、しばらくして、その中に、見えてしまった。
――恋でも、愛でもない、なにか。
ちらりと覗くそれが何なのか、イギリスは考えたくもなかった。
いや多分、それを自覚した時から正体はわかっていたのだと思う。イギリスは、そういう奴だ。
それには目があって、耳があって、そして、ひどく恐ろしい暗闇色をしていた。
イギリスは自分の中にそれを一目見たとき、一体どう思っただろう。
だって、それは、とてもよく似た顔をしていた。世界の全てを敵だと思い込もうとして、失敗した、あのちっぽけな子供だった時のイギリスの顔に。行き場のない憎悪に塗れた、あの醜い顔に。とてもよく似ていた。
恋は失われて愛になり、得体の知れない何かを産んだところで、ようやくイギリスは気づいたのだ。

『もう、俺は恋をしてはいけない』

それを自覚してからは簡単だった。今まで甲斐甲斐しくイギリスの世話を焼いてきたあのいけ好かない髭面に、思いつく限りの酷いことを言ってやるだけでよかったのだから。いつもの軽口みたいな罵倒じゃない(あれもいわゆる一つの愛情表現だった。フランス以外には、とうとう理解してもらえなかったけれど)、そんなことはフランスならわかってくれるはずだった。そんな確信ですら辛かった。
良心が咎める、ということは実はあまりイギリスにはない。イギリスは演技がとても得意で、それを嘘だと思わずに言葉を発することが出来る。自分自身に嘘がつける。だからこそ今の地位があるのだし、そんな自分の性格というか性質を恨んだことはあれど、しかしどうせ治らないと昔から諦めていた気もする。その癖で、どれだけ泣いたって。最初から壊れているものをみんなとおんなじ形にしようなんて、そんな烏滸がましいこと、願ってはいけないのだ。初めからそこに螺子はなかったのだから。
フランスのことを、イギリスは確かに愛していた。
けれど、それは、切り捨てないという意味では決してなかった。

泣くという行為は、死の代替行為だとイギリスは思う。それが悲しくて流す涙なら尚更。
だからイギリスは泣くべきだったのだと思う。色んなことを想って、泣くべきだったのだと思う。
しかしイギリスのかさかさの頬は渇いたままだったし、フランスがよく好きだと言ったエメラルドの瞳も少しだって潤んでやしなかった。あの馬鹿で、お人好しで、その癖どこか遠くにいるみたいに冷めている男を傷付けたから、自分が泣く資格はないなんて殊勝なことを思った訳では、決してない。悲しいけれど、寂しいけれど、本当にこれこれっぽちも涙が出なかったのである。
ああ、イギリスという奴は、こういう奴だよ。とイギリスは思った。
イギリスはちゃんとフランスを愛していたけれど、その彼を切り捨てても、涙なんて出やしないのだ。それが余計に、悲しい。
フランスは変わらないだろう。どれだけ傷付けられても、恋人じゃなくなっても、変わらないだろう。ずっとイギリスの隣に在り続けるだろう。今までと同じように、しかし線を引きながら、イギリスの世話を焼いてくれるだろう。それが悲しくて、寂しい。
イギリスはもう誰も愛することができないだろうけれど、もうフランス以外は愛することができないだろうけれど、フランスはちゃんと、誰かと幸せになってくれればいいな、と思った。だけれど、それが無理なことくらいわかっているから、やっぱりイギリスは“そういう奴”なのだった。フランスだって、イギリスと同じだ。きっともう、誰も愛せやしない。
それを考えて一瞬だけ愉快な気持ちになって、そしてとても悲しくなった。それでも泣くことだけはできなかった。
ただ穏やかに流れゆく時間の中で、イギリスの目を滑っていく窓の外の雨音は、確かにひどく大きくなっていたのであった。


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