朱に交われど 一
2012/08/12 09:10
その日の明け方、まどろみの中で三郎は懐かしい夢を見ていた。
セピア色に染まりつつある幼き日の記憶に埋もれていた、ひとりの少女の夢だ。
その少女は名を出雲と言った。
確か歳は同じ、当時十ばかりであったろうか。
裕福な家で育ったことがすぐにわかるような、緋色のあざやかなべべを着て、 ぷくりとした頬はさくら色に染まり、長いまつげの縁取る瞳はまるで水に濡れた黒曜石のような輝きを持っている。
だれもがはっと息をのむような幼子であった。
三郎は幼いながらに雷蔵とふたり、恋心のような淡い憧憬を抱いたものである。
聞けば祖父が甲賀卍谷の忍だという出雲は、当時なにかしらの用があってひと月ほど学園に滞在していたように思われる。
なにしろ四年もむかしのことだ、そうそう細かいところまで覚えてはいない。
さすがは卍谷に生まれ落ちた娘というべきか、生まれながらに忍としてのさだめを持った出雲はその当時わずか十歳であるにも関わらず忍術についての幅広い知識と技術をすでに有していた。
とうぜん学園に入学したばかりの三郎たちがまったく知らないような忍の業も、彼女にとっては当たり前の事として備わっていたのだ。
だからといって出雲はそれをひけらかすことはなく、しかし問われればそれに対して己の持つかぎりの知識を精一杯与え、またわからなければ共に一から知ろうとする勤勉さも持ち合わせていた。
夢に見たのはおそらく出雲との別れの日であった。
春のあたたかな風が駆け抜けていく、学園の敷地内の小高い丘のうえだ。
いちめんに白詰草が敷き詰められた上で、器用にその白詰草を編みながら出雲は何度も何度もおなじ言葉をくりかえしていた。
「わたしも、いつか三郎ちゃんや雷蔵ちゃんたちと一緒にお勉強がしたいわ」
珍しくふてくされた顔でそういう出雲は、三郎と雷蔵の何倍も別れを惜しんでいた。
卍谷では蝶よ花よと育てられ、その一方で祖父によるきびしい忍びのいろはを叩き込まれた出雲はおなじ年頃の子どもと遊んだことがない。
この学園へ来てはじめて同年の友達と呼べる人間ができたのだ。
惜別を惜しむ気持ちは周りの大人たちもよくとわかっていた。
「いまはまだ子どもだから無理だけど、大きくなったらわたし絶対にこの学園へ来るわ。お爺どのをえいって丸めこんで、卍谷から出てくるから、それまでわたしのこと、忘れないで……」
出雲の、悲しそうにゆがんだ瞳から涙がひとすじ零れたと同時に、辺りを季節外れのさくら吹雪が覆い尽くす。
あっ、と思って手を伸ばすが掴んだはずの出雲の腕はさくらの花びらとなり風にさらわれていった。
あとには白詰草の花かんむりだけが物悲しげに落ちていた。
そこで目が覚めた。
障子から差し込む青白いひかりに細めた目じりは涙で濡れていて、とんだ感傷に浸ったものだと三郎は自嘲気味に寝返りを打った。
隣の布団はすでに畳まれていて、雷蔵の姿はない。
情けない姿を見られなくてよかったと涙を拭い、のっそりと起き上がる。
ひどく懐かしい夢だった。
彼女のぬくもりやおしろいの香まで感じられるようにいきいきとした夢だったが、夢で「忘れないで」と言われるまですっかり彼女のことを忘れてしまっていた。
日々の多忙さを思えば無理もない話だが、人とは薄情なものである。
互いに泣いてわめいて別れを拒んだというのに、これでは彼女に顔向け出来ないじゃないかと三郎はひとり言つる。
ふしぎと夢に見れば今まで忘れたことすら忘れてしまっていたというのに、彼女に会いたくなってしまうのだから男とは現金なものである。
三郎は真新しい青色の忍装束に腕を通しながら出雲の姿を思い描く。
同じ歳の出雲だが、齢十にしてあの美しさだ。
今頃はとうに結婚して子を成していることだろうが、願わくはそうならず、再会できればうれしいことだ。
鏡台に面し、そんなことを考えながら髪の毛をとかしていた。
―― ふむ、今日は出雲の姿でも真似てみようか。
頼りはむかしの記憶だけだが、この天才にかかればたやすいものだと三郎は紅を取った。
さて、相も変わらずこの鉢屋三郎の変姿の術は見事なもので、食堂に入るなり、
「出雲ちゃん? それ、出雲ちゃんの顔だよね?」
と、顔を紅潮させながら雷蔵が食いついてきた。
やはり、四年後の彼女はこんな成りをしているのだろう。
三郎は相当な美少女の姿をしていた。
それこそ、すれ違う誰もが目を奪われて心ほだされるような純美さと、それでいて男だけを虜にしてしまうようなかおりたつ濃艶さを併せ持った姿だ。
自分の想像していた出雲の姿と、雷蔵の想像していた出雲の姿が合致したことに少々げんなりし、また雷蔵が出雲のことを忘れていなかった事実にわずかな不愉快さを覚えながら席に着いた。
「そう。出雲。今朝夢に出てきた。ガキの頃の姿だったけどな」
「偶然だね。僕の夢にも出てきたよ。やっぱり子どものころの夢で、出雲ちゃんが卍谷に帰るのが嫌でみんなでわめいたときの夢」
味噌汁をすすりながら、三郎は思い切り顔をしかめた。
味噌汁に映る少女の美しい顔が醜くゆがむ。
なんと、見た夢まで一緒だというのか。
「おれもその夢だった」
「へえ。何か、予知夢とかだったらおもしろいよね。ふたりがふたりとも同じ夢をみるなんて、そうそうないと思わない?」
「そうそうあってたまるかよ」
「そりゃそうだ」
雷蔵はころころと笑いながら湯呑に手を伸ばした。
両手にそれをもてあまし、どこか呆けたような表情で、
「出雲ちゃん、きっと綺麗になっただろうね。僕、出雲ちゃんが初恋だったんだ」
なんて言い出すものだから、三郎はますます面白くない。
「おれも」
と、だけ返して、そこで会話が途切れた。
ごく稀にだが人は時として人の常識を超え、自然をも凌駕するような不思議な力を持つことがある。
この時代「陰陽師」や「祈祷師」など仰々しい名でよばれ、 いわゆる神懸かり的存在として扱われた人たちのことだ。
とうぜん誰もがこの力を持つわけではない。
しかし、ふとしたはずみに一時的にその力を得ることもある。
このふたりが同時に懐かしい幼なじみの姿を夢に見たのも、その不思議の力が何かを予感させていたに他ならないのだ。
そしてその予感は見事的中し、後に三人は実に四年振りの再会を果たすことになるのである。
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