週末婚の続き




ピンポン。明るい機械音が部屋に響き、俺はキーボードを叩いていた指をはたと止めた。パソコンに表示されている小さな時計を一瞥する。もう日付が変わろうとしている時間だっていうのに、一体誰だろう。相談に乗ってほしいと言っていた少女達の一人か、それとも燻らせていた火種の一つか、はたまたオシゴト関連か――いずれにせよ楽しみだとほくそ笑み、脳内で候補を五人十人と並べながら玄関のモニターを覗く。と、そこには予想だにしなかった人物が立っていた。
一瞬のうちに緊張が体を駆け抜ける。
慌てて充電器のコードを手繰り寄せてその先に繋がっている携帯を掴み、待ち受け画面を表示させる。黒のゴシック体が示すFRIの三文字を確認してから、俺はもう一度モニターを見た。
見間違いじゃ、ない。戸惑いのあまり僅かに震えだす指でなんとかロックを解除しスリッパを響かせて玄関に向かい、片手で鍵を開けながらあわてて髪の毛を撫で付ける。来るなら来るって連絡の一つでも入れてくれれば――。ひとりごちていると、おもむろにガチャリと音を立ててドアノブが回った。





終末婚





シズちゃんは玄関に立つ俺の顔を見て一言、「おう」と言った。手に提げていた大きな銀色のビニール袋をゴトリと床に置き、見慣れた革靴を丁寧に脱いでいく。
いつもの酔っ払ったシズちゃんは靴なんてものはポイポイとその辺に脱ぎ散らかしていくか、土足で上がっていこうとするのを俺が必死に止めてようやく脱ぎだすかの二つに一つなので、こうして片足を上げて靴紐を弛めていく様子というのは何だか新鮮だ。

「珍しいね」
「うん?」
「シズちゃんが酔ってないの」

俯いて靴紐と格闘するシズちゃんを見ながら床に置かれた袋を持つと、手の中で僅かにビニールが伸びていく感じがした。シズちゃんは平然とした顔で持っていたけど、これはけして軽いわけじゃない。左手に持ちかえると、袋の隙間からラッピングされた瓶の口ようなものが見えた。

「あ、ここで飲む気だ」
「ん?…あっ、手前」

見やがったな、と言うがいなや、いつのまにか靴を脱ぎ終わったシズちゃんが俺の手からひょいと袋を奪っていく。

「まあ、その…なんだ。……たまにはいいだろ、付き合えよ」
「…うん、たまにはいいかもね」

シズちゃんはそうだよな、たまにはいいよな、と繰り返しながら何度も頷いたあと、来た時と同じように瓶の入ったビニール袋を片手にぶら下げ、玄関の右端に寄せてあるスリッパに足を突っ込んだ。
週末にしか使われることのない、シズちゃん用のスリッパ。俺の愛用のものと色違いのそれをつっかけて、毎週の足元の覚束ない姿からは想像もつかないような足取りで廊下をスタスタと歩く。いつものギャップからそう思うだけなのかもしれないが、やたらと早く足を動かすシズちゃんの後を慌てて追おうとすると、シズちゃんはくるりと顔だけで振り返って「臨也、シャンパングラス二つな」と言った。

「え、それシャンパンなの」
「気にすんな。もらいモンだ」

てっきり安物のワインか何かだと思っていた俺は予想外だとギクシャクする足をくるりと半回転させて台所に向かう。

シャンパングラス、か。
一人暮らしだから当たり前といえば当たり前なのだが、食器棚を開けて普段は使われることのあまりない大皿や高価な食器の並ぶ上段のほうを見ても、シャンパングラスは数種類、それも一つずつしかない。シズちゃんはそれでもいいと言うだろうが、俺は二人で別のデザインのグラスを使うというのは、なんとなく嫌だ。
どうしようかと逡巡しつつもう一度上段を眺めると、奥のほうに以前仕事の関係で貰ったグラスの箱が身を隠しているのが見えた。奥に追いやったきり一度も光をあびることのなかったそれは背伸びしても届かないところにでんと構えている。ひとりなら踏み台を準備するところだが――、


「あァ?何で取れねえとこにしまうんだよ」

箱の位置を説明して取ってほしいと頼むと、シズちゃんは文句を言いながらも食器棚に手を伸ばした。
俺はというと、食器がどかされ、箱の見える面積が少しずつ増えていくのをぼんやりと見ているだけ。別にシズちゃんに任せて自分は休もうと思った訳じゃない。手伝う事があるかと近づくと「危ねえだろうが」と軽く小突かれたからだ。
今日は金曜日だし、酔ってもいないようのに、シズちゃんはなんだか優しいから、俺まで調子が狂う。

「…使う機会が無いと思ってたからさ。あー、もうちょい右の奥。気をつけてよ」

そんな心配しねえでも割らねえよ、と苦笑する声と一緒に、カチャカチャと音を立てながら食器をどかされていく。
食器の心配というよりも……いや、わざわざ訂正するほどでもないので、そう言うならそういう事にしておこう。

「……そうだよ、その辺り全部高いんだから」
「わーってる、っと。ホラ、これでいいんだろ」

やがてお目当ての赤い箱を探り当てたシズちゃんがほい、と手渡したそれを慎重に受け取り、食器の配置を直すシズちゃんの横で、おそらく貰った時ぶりに箱を開けた。
フルートタイプのグラスが二つ並んでいる。パタンと食器棚を閉めたシズちゃんが箱の蓋に書かれたブランド名をちらりと見やって「おお」と感嘆を洩らした。

「シズちゃんのと一緒で、貰い物だよ」
「にしても、なあ。……なんかもっと別のねえのかよ。あれ、そんな高えやつじゃねえし」
「え?あのシャンパン、貰い物なんじゃないの」
「あ…ああ、うん、わかんねえ。高えのかもしれねえな。…あー、グラス洗うわ」

まるで無理やり会話を終了させるように、シズちゃんはそそくさと箱からグラスを取り出して水道をひねった。さっと水で洗ったグラスに乾いた布巾を被せ、慣れた手つきの指がキュッと音をさせながらグラスを一周する。すっかり曇りのなくなったそれを照明をあててやれば、グラスはまるで自分の出番だと言わんばかりにきらりと輝いた。

出番なのは、こっちもか。
シズちゃんが磨き上げられたそれを両手に一つずつ持ち、やたらと神妙な顔をしているのを見て、そういえば昔シズちゃんがバーテンをやっていた事を思い出した。
あの時はまだシズちゃんと今よりもかなりの距離があったし、くだらない自尊心が邪魔をして結局店には行けなかったから、こういった形でもその片鱗が見られてよかった。
なんて柄にもないことを考えて、思わず頬が緩みかけていたのに気が付いてぶんぶんと頭を振る。ちらとシズちゃんを見たが、幸いなことに気が付いていなかったようで、まるで観察するかのようにいろんな角度からグラスを眺めながらリビングへと消えていった。
よかった。あんなのを見られでもしたら、この後どんな顔したらいいのかわからない。
小さく息を吐き、広い背中を姿を見送りながらつまみを用意するために冷蔵庫を開ける。常備するようになったグレープフルーツジュースを除けばドレッシングやマーガリンや調味料の類しかない、なんとも寂しい状態だ。メニューをしっかり決めて必要な分だけの食材を買いに行くようにしているせいか、下段を開けてみてもフルーツはおろかチーズすら無かった。せめてクラッカーか何かないかなと戸棚をごそごそやっていたら、待ちくたびれたシズちゃんからリビングから「早くこいよ」と声がかかる。

「あのさ、つまみ無いんだけど」
「んなもんいらねえから、……早く座れ」

ボスンと一度、急かすようにソファーを叩いてからシズちゃんはソファーに座ったままビニール袋からシャンパンのボトルを取り出した。仕方なく手ぶらのまま、シズちゃんの隣に空いたスペースに腰掛ける。
いつもは水の入ったコップが置かれているだけのガラスのテーブルにペアのグラスが並んでいるのを見ると、なぜだか何となく緊張してきた。
おちつけ、別に今までだって週末はシズちゃんと一緒に過ごしてきたじゃないか。
俺の心臓がばかみたいにうるさく脈打つ音が聞こえないシズちゃんはしれっとした顔でビニール袋からシャンパンのボトルを取出し、左手の親指でコルクを押さえながらボトルを斜めに傾ける。右手で底をつかみ、ゆっくりとねじると、やがて、スゥ、と僅かに空気の漏れ出る音がしてコルクが抜かれた。一連の動作は流れるように手慣れていて、いつものバーテン服がやたらと似合って見える。

ゆっくりと注がれていく、淡く色づいたシャンパン。グラスの中で細かい泡が集まってははじけていく様子につい目を奪われていると、すっと伸びてきた細長い指が視界からグラスを持ち上げていった。焦点が移る。シズちゃんは俺のほうをちらと見てから無言で小さく頷き、グラスを胸の高さに掲げると香りを味わう事もなくぐいと傾けて喉を震わせた。あまりにも性急だったので飲み干すのかと思いきや、一口飲んだだけでグラスをテーブルに置き、折り曲げられた膝に肘をついてうつむく。

「……おいしい?」
「ん、……ああ」
「そっ、か。……あー、」

会話の生まれない時間を楽しめるほどの余裕は無い。
言葉を濁らせながら必死で話題を探して頭を巡らせると、ふいに、テーブルの上の一口ぶん減ったシャンパンが目に留まり、そういえば貰い物だと言っていた事を思い出した。

「そうそう、貰い物って言ってたけど。…いつも一緒に飲んでるの、確かあの先輩だよね。いいの?」

本当はよく行く店の名前も知ってるけれど、確かめるようにそう続けた。こうして二人でいる時はシズちゃんから聞いたことのある情報しか口にしないというのが俺のルールであり俺なりのプライドだ。
そんな水面下の駆け引きなど知りようもらないシズちゃんは、相変わらずうつむいたまま、ぼそりと聞き取りにくい声で言った。

「……今日、は、トムさんとは一緒に飲めねえから」

今日、は。
そこだけ、まるで栓を押し出すようにゆっくりと発音し、また黙ってしまう。シズちゃんは、卑怯だ。

じゃあ何で今日、俺の所に来たの。
その一言が言いたい。シズちゃんの口から答えが聞きたい。だけど、それを口にしてしまうとあの土曜日が来なくなるかもしれないなと考えると怖くて、結局俺もシズちゃんと同じように口を閉ざしてしまう。
本当に言いたいことを言わずに相手の出方を待っている。お互い卑怯だ。

沈黙を潰すようにグラスを揺らしていると、ふいに伸びてきた手がそれを奪っていった。あんなに慎重に扱っていたのが嘘みたいに、すこし乱暴とも言える仕草でテーブルにグラスを置き、俺をじっと見つめる。さっきよりもずっと、いたく真剣な表情をしていた。

「……なあ、今日が何の日か…わかってんだろ」

今日はただの金曜じゃない。そんなことはわかってる。だから、こんなに緊張するし会話も続かないんだということも、わかってる。俺が知りたいのはそんな事じゃない。今日、シズちゃんがここに来た目的だけが知りたい。
シズちゃんの言いたい事、他の人と飲まない理由、ここに来た意味。全ての予想はついていたけど、あくまでそれは俺に都合のいいものだ。ちゃんとシズちゃんの口から聞きたい。なんで今日来たの。

答える代わり、聞く代わりに、ちらりと時計を見る。もう数分で日付がかわろうとしていた。明日は12月25日。

「…今日、は」
「……うん」
「……酔いのせいにする気、ねえからな」

熱い手がぐいと腕を引っ張って、鼻先がくっつきそうな距離にまで近づいてくる。濡れた唇も鼻も頬も、耳までもが真っ赤だ。
――もう酔ってるんじゃないの。
言えなかった言葉と一緒に口の中でシャンパンがはじけて、週末だけの恋人ごっこが、今日、終わる。











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