あれから一週間が経ったが、相も変わらず俺の世界は黒一色だ。
色がない。光もない。そして俺の愛する、人間を映すことさえもない。
瞼さえ開いてしまえばそこには眼球が居据わっていて色も光も人間も映すことができるはずなのに、そのブラインドは隙間の少しもないほどにかたく閉ざされており、どうやったって開く気配を見せない。
俺は平和島静雄の手によって、視力を失った。
そしてその次の日から、平和島静雄は力を失った。





指爪譚





視力が無くても、仕事はやってやれない事はない。
カタカタと小気味よい音を奏でながら、指先でキーを叩いていく。俺の目は相変わらず何も映さないが、キーボードの位置などはとうに覚えてしまっているし、表示されるテキストを音声に変換してしまえばメールのやり取りだってできる。
仕事だけじゃない。普段の生活だってそうだ。視界が真っ暗なのは不便な事ではあるが、それでも支障と呼ぶには至らなかった。自分の家のどこに何があるか位は把握しているし、何よりこの家には他人においそれと触らせられないものばかりがあふれている。
札束いくつ分もの価値がある情報の入ったファイルの山、非合法の薬物や拳銃。極めつけにはデュラハンの首。ヘタに人を雇ったりして、掃除だ何だと棚を荒らして生首を見つけられでもしたら、それこそ大変なことになるだろう。

幸い、俺には給料を上げたり矢霧誠二に関する情報を渡せば大抵の事は片付けてくれる、優秀な秘書がいた。完璧に閉じてしまっている瞼のために表舞台に立てない俺の代わりに取り引きにも立ち会ってくれている。今までにも波江さんが赴くことはあったので、未だ俺の視力の事は誰にもばれていないと思いたい。
今のところ波江さん以外に俺の状態を知っているのは治療を施した新羅と、その新羅の元へ運んだ運び屋。それから加害者である平和島静雄だけ……なのだが、この平和島静雄が、唯一にして最大の問題だった。

問題というのは、視力を失わせたのを良いことに、俺を殺そうとするという意味ではない。まったくの、逆だった。
奴はどこまでも俺の予想を裏切る存在らしい。




「例の彼、今日も来てるみたいだけれど」

池袋、新宿――東京じゅうにはりめぐらせた「目」、情報源のひとつからの報告を聞いた波江さんは忌々しげな声で「どうするの」と吐き捨てた。俺はキーボードを叩く指をちょっとだけ休めて、波江さんの声がする方に向き直る。

「いつものように、どうもしなくていいよ。俺は忙しいからね、あいつに構っている暇はない」
「……玄関のセキュリティを破壊したりはしないのかしら」
「さぁ?俺には怪物の思考パターンは読めないみたいだから。多分、家に入りたい訳じゃないんだろ」
「……」

耳に刺さったイヤホンから、機械の感情のない声が流れていくだけの時間が過ぎる。しばらくの沈黙の後、スリッパがフローリングの床を滑る音が近づいてきた。
俺の座るパソコンデスクの後ろには大きな窓があり、その窓に面した地上の通りに平和島静雄がいるらしいのだ。
波江さんの足音が俺の背後で止まる。おそらく、階下の平和島静雄を確認しているのだろう。

「……そうみたいね。ガードレールに腰掛けてタバコを吸っているわ」

いつものバーテン服をまとった金髪が、その長い身長を折り畳んでくすんだ白いガードレールに腰をかけ、アメスピの箱からタバコを取り出して口に咥えながらマンションをじっと見ている様子が目に浮かぶ。
波江さんは「一体どういうつもりなのかしら」と声音に不機嫌を滲ませながら、椅子に腰掛けた俺の横を通って窓から離れていった。

「……さあ」

遠ざかる足音にかき消されてしまいそうな生返事をし、俺は最後に平和島静雄と会った日の事を思い出していた。


視力はすでになかった。
さすがの俺でも一種の混乱状態にあったのか、新羅やアイツの気配を感じ取れないほどにまで弱っていた。今自分が話している相手が脳内にイメージとして描かれた人間と一致しているのかどうか、もう確めようがないのにもかかわらず、確信がもてない事に苛立っては不安になっていた。それは対人だけではなく、自分自身に対しても例外ではない。あの時の俺は、自分自身のことも曖昧だった。
折原臨也という名前の男はあの日一度死んでいる。見えなくなっただけのことなのに、自分と外界の境界線がわからなくなってしまったのだ。本当に自分は折原臨也なのか。本当に自分は、いまここに存在しているのか。……奇しくも、一度溶けてしまった俺を再構成したのは平和島静雄だった。

あの日のちいさな、拳骨というにはあまりにも非力すぎる衝撃。その一発で、平和島静雄に無条件で殴られる人間―折原臨也―というアイデンティティーを俺に与えて以来、平和島静雄はあの力を使うことをやめたらしい。あの異常な膂力を受けるに値する対象全てにまで及んでいるらしいのだから、驚きである。どんなに彼を苛立たせることがあっても、ぼうっとつっ立っているだけ。心配した上司がしばらく仕事を休むように言えば、今度は何を思ったか、雨が降る日も風の冷たい日も、太陽が昇ってから沈むまで俺のマンションの前の通りに居据わり続けるようになった。
波江さんが俺に「平和島静雄が前の通りにいるようだが、どうするか」と声をかけてくるのも、もはや毎日の挨拶代わりとなりつつある。街では俺の視力に関する情報よりもむしろ、平和島静雄が最近暴力をふるわないだの、折原臨也のマンションに通っているだのという情報が飛び交うようにすらなりつつある。ただ立っているだけなのだから平和島静雄の行う嫌がらせにしては随分と大人しい。が、しかしあまりにも大人しすぎるあまり、俺に何かあったのではないかという疑いの目が、ゆっくりではあるが確実に向きはじめている。
仕事を進めるスピードは前よりも格段に遅くなってしまっているのに、何か異変があったと感付かれてはいけないので受ける仕事の量を変えるわけにもいかない上、平和島静雄のせいで視力の事がばれてしまったりしたら問題どころではなく情報屋廃業の危機だ。

ピンポン、と機械音がメールの着信を告げる。こうしている間にも、五体満足だと思われている折原臨也にはひっきりなしに情報や仕事が流れ込んでくるのだ。俺はひどく忙しい。それなのに、俺をこんなにしたアイツは俺の仕事のことも視界のことも何もかも知らないで、毎日見えもしない俺の姿をぼんやりと階下から見ている。

細長い指でタバコを挟み、口に近付けて着火。寒空に広がる吐いた紫煙のゆくえを追うように視線を上げ、俺の住む階で視線を止める。地上から部屋の中を見ることは当然かなわないが、折原臨也が存在するだろうフロアの窓をただ、じっと見ている。
そんなイメージが、もうずっと瞼の裏側にこびりついて消えない。


「波江さん、ブラインドを下ろしてくれないかな」
「……どうして」

波江さんが戸惑うのも無理はない。そんなことをした所で意味など無いのだ、ブラインドを下ろした所で視界はとうに遮られているのだし、内側に勝手にはりついた平和島静雄のイメージが剥がれ落ちて消えてくれない。そんなことはわかっていた。もしも瞼が開いていて奴の姿を見ることが出来ていたなら、瞬き一つで操作ができただろうが、視力が無いばかりにこびりついてしまった像を洗い流す手段がない。
だから、無意味とはわかっていてもなにかしらせずにはいられなかった。はやく、この映像を消したい。

「ブラインドを」

静かに、だが力を籠めて繰り返すと、やがてスリッパが静かに動き、返事の代わりとでもいわんばかりにアルミの羽がシャン、と乾いた音を奏でた。


音に誘発されたのだろうか。
俺のイメージの平和島静雄と俺の視界との間にもブラインドが下りてきた。事務所と同じ型のベネシャンブラインド。しかし羽は開いてしまっており、隙間だらけだ。角度を調整しようとプラスチックのポールを探したが、どこにあるのか見つけられない。
ブラインドの向こうの二つの眼球は俺が目を逸らしてもぴったりとついてくる。隙間から漏れるナイフのように鋭い視線は揺らぐことはなく、俺の瞼を内側からゆっくり抉るように、ただそこに居座り続けた。

だめか。
思わずため息を吐くと、今度は波江さんが俺を追い立てるように言った。

「もうすぐ取引の時間よ。手を動かして頂戴」
「……わかってるさ」

あいつに割く時間なんて一分だってないのに、あいつは立っているだけで俺の邪魔をする。

ガチリと歯が噛み合った音がしてようやく、もう親指の爪に白い部分が無いことに気が付いた。


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