最悪だ。 東京から離れた、という物理的な感覚にもたらされた安堵。それによって張り詰めていたはずの緊張に僅かな撓みー…隙が生まれたんだと思う。 シズちゃんがいなくなった。 電車に揺られること数分。ようやく目的としていた横浜駅に着き、そこで巻き込まれた昼時の混雑の中で、俺はシズちゃんとはぐれた…いや、こんな状況だ。シズちゃんは攫われたと考える方がいいだろう。 波江や、波江が活用しているだろう俺の人脈の手の届きにくい所まで来たからと慢心していたのかもしれない。 先ほど携帯の電源は切れときつく言いつけたから当たり前かもしれないが、何度かけてもシズちゃんの携帯はお留守番サービスに接続します、というお姉さんが応対するだけで、俺はあてもなくただ東奔西走するしかなかった。 「くそ、っ…」 ぐるぐると似たような道を走ってみたものの、いっこうに俺の姿のシズちゃんを視界に捉えることができなかった。 不幸中の幸いとも言えようか、シズちゃんの身長は俺よりも高いので、混雑の中人を探すのには適していた。 ーま、見つからなきゃ意味が無いんだけどね。 自嘲しながら、走り続けた事による疲労感とまだ見つからない事への焦りが入り交じったため息をつくと同時に、腰のあたりにがっしりと、細い手がまきついた。 「静雄さんっ!」 俺の腹の中とは裏腹な、元気に響く聞き慣れた軽快な声。 それに引っ張られるように上半身をねじり振り返ると、黒髪の長いみつあみが目に入った。 「…舞流。それに九瑠璃か」 にこりと笑いながら眼鏡ごしにこちらを上目遣いで見るセーラー服の少女と、二メートルほど離れた場所ですこし俯きながらこちらを見つめる体操服の少女。まごうことなき俺、折原臨也の妹だった。 血縁関係は確かにあるんだから、「もしかしてイザ兄…?」などとマンガでよくある兄妹の特権ミラクルセンサーを発動するまではいかなくても、何か変だなくらいには気付いてほしかったが、無邪気にこちらを見上げる赤い瞳には疑いなど一切浮かんでいなかった。妹たちよ、お兄ちゃんは悲しいぞ。 こっそりと心中で嘆いていると、まるでその泣き声が聞こえたかのようなタイミングで舞流が「あれ」と語尾を上げながら呟いた。 「なんで静雄さんがイザ兄の携帯持ってるの?」 どうやら手に持ったままの携帯に反応しただけのようだ。嬉しいような悲しいような、虚しいようなありがたいような。 実は前から、舞流や九瑠璃には俺とシズちゃんが入れ替わった事は言わないでおこうと思っていた。 前からというのは、ドタチンと狩沢と遊馬崎と渡草に会った時だ。お分りだろう、狩沢の時の二の舞はごめんだという事だ。 兄である自分が言うのも何だが、舞流と九瑠璃は狩沢達に勝るとも劣らない相当イタイ人種だ。 俺とシズちゃんが入れ替わったんだ、等とでも言ってみればきっと彼女達の頭のリミッターは外れ大声であらぬ事を叫ぶのだろう。 俺は妹達が気付いていない事をいいことに、俺とシズちゃんの間に起きた異変を隠し通すことにした。 「…えっ、と。臨…也に頼まれて。…そう、臨也知らない?」 「イザ兄?…うーん、そういえば最近あんまり見ないかなーリアルでもネットでも。ねえクル姉」 「…同……」 こくん、と俯きながら聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で肯定する九瑠璃。それなのに体操服なんかを着てるんだよ?我が妹ながらほんとうに中二病だよ。 そう心中で貶めながらも、久しぶりにリアルの世界で会った妹達に懐かしさがこみあげるが、今はアイタタな妹達に構っている暇はない。 「そっか。ありがと…な。じゃあ、俺急ぐから」 とにかく一刻も早くシズちゃんを見つけだすため、早々にこの場から立ち去ろうと片手を上げて走りだそうとした俺の腕をがしりと掴んだ二つの小さな手のひらがあった。 「無茶はしないでね」 「…駄目」 …兄の知らない間に妹というものは成長するものなのか。 右手で舞流の、左手で九瑠璃の頭を撫でてやりながら「無茶はしない」と半ば自分に言い聞かせるように言って、その場を離れた。 頭ではこれからの綿密な計画を忙しく組み立てながらー… ****** ああ、なんだって俺はよりによってノミ蟲なんぞの身体に入っちまったんだ。 きつく後ろ手で縛られた縄は、俺の常識では簡単に引きちぎれるレベルのそれなのだが、臨也の腕力では難しいらしい。動かすとぎしりと縄の擦れる音だけが響いた。 臨也に連れられて横浜駅に着き、切符を改札に通した瞬間に意識を失った。あまりよく覚えていないが、おそらく何か睡眠薬のようなものを嗅がされたのだろう。気がつばこのザマだ。 俺は心のどこかで「臨也の言う通りにしていたらなんとかなる」と思っていたのだろう自分自身を心中でボコボコにする。少しでもあのノミ蟲に期待した俺がバカだった。 「くそっ…」 思わず洩れた声に、長髪をなびかせた女が振り返った。 「…貴方、死にたくないの?」 女の経験があまり無い俺にはあまりそういった事はよくわからないが、整った顔をしたストレートの髪の女――臨也がナントカ波江、と言っていた――は、世間一般に言って美人という部類に入るのだろう。そんな美人なこいつが臨也とどんな関係なのかは知らないが、臨也曰く、こいつが臨也ーつまり臨也の体の俺を殺そうとしていることは間違いないだろう。 ならば、女の問いに対する答えはノーに決まっている。 「死にたくねえな」 「…ここが、どこかわかる?」 充分な間を置いて、訝しげに眉をひそめながら投げ掛けられた問いに、改めて自分の周りを見渡してみる。メゾネットタイプのデザイナーズマンションの一室。おそらくここは臨也の部屋だ。中に入った事はあまり無いが、僅かに残る記憶と、臨也の体の俺が縛り付けられているという状況から考えてそうに決まっている。 「臨也の部屋…だろ」 波江とかいう女は、自分から聞いたくせに「そう」とさほど気にした様子もなく呟いて、考え込むように腕を組んだ。やたら広い窓からオレンジ色の夕日が顔を出し、女の顔を染める。 ちらりと一瞥した時計は午後五時近くを告げていた。 続き |