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▼ 水の中に入るたびに誰かを思い出す伊助

 ぽつりと、人気のない噴水があった。
 梅雨時特有の、今にも降りだしそうな曖昧な空模様にぴったりの、どんよりとした雰囲気の噴水だった。人気のない美術館の裏庭。時期外れだからか、極端に減った水量は伊助の足首くらいまでしかない。泥がたまり、落ち葉が浮かぶその池は、足をつければおそらくぬめりと滑るのだろう。小学生のときにやらされたプール掃除を思い出した。
 履いている泥だらけのスニーカーと靴下を脱いで、足を下ろせば、おそらくまた、あの、深い深い海を覗きこんだかのような深緑が、まぶたの裏をよぎるのだろう。

 冷たい水に体を浸すと、決まって見えるものがある。深緑の髪に、もっともっと深い水面の色を瞳に宿す男を、泳ぎながら追い掛けている。今の伊助と同い年くらいだろうその男は、はじけるように笑いながら冷たい水の中をすいすいと逃げ回る。無声映画のようなそのワンシーンが、延々とまぶたの裏を巡るのだ。
 いつの記憶なのかはわからない。小さい頃の記憶だろうか、と考えたこともあったけど、あんな男は親戚にもいないし、第一伊助は物心つく頃には水に浸かることを恐れる子供だった。小さな頃は、自分にまったく覚えのないあの記憶が恐ろしかった。風呂は平気なのに、水に入ると必然的に思い出すあの記憶を厭うて、水に入ることを頑なに拒んでいたはずだ。間違っても、あんな風に相手が楽しそうに笑いながら泳ぐことはできなかっただろう。
 あの記憶は、今はそれほど嫌いではなかった。確かにプールの授業なんかだと、一時間ずっとリフレインされ続けるそれに参ってしまうこともたまにある。けれどそれ以上に、あの記憶の中にいる自分がひどく嬉しそうで。ときどき無性に、ひんやりとした水に足を入れたくなる。
 スニーカーの中に靴下を入れて、噴水の縁に座った。底は案外深くて、座ったままでは爪先すら水面に届かない。ぐ、と身を乗り出して、水の中に立とうとした、とき。


「ちょっと、そこ今から掃除するんで、入らないでください。」


 どこかくぐもった、年にしては低い、落ち着いた声。けれど、その声がかたどるのは大人げない意地悪じみた言葉なのだと、知っていた。

 水を弾くしなやかな腕と、飛び散る光の粒。濡れたせいでより深くなった深緑が、太陽を弾いていた。


『つかまえた、三郎次!』


「やっと追い付いてきたか、伊助。」


 深い深い水面の色が、ぐにゃりと歪んだ。

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