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▼ 惑わせたのはそちらのほう

 おまえいい加減髪切ってこい、と先輩に名刺サイズのカードを渡されて、ええ、と思わずぼやいた。髪型、なんて今まで気にしたこともなかったことをいきなり指摘されて、反射的に頭に手を伸ばす。けれど朝鏡すら覗かない七松が、今自分がどんな髪型かなんて覚えているはずもない。だから、ええ、そうっすかあ、なんて思わずいったら、社会人として最低限の清潔感を保つことが云々と説教が始まってしまった。この先輩は面倒見がいいが説教が長い。しかし仮にも会社の先輩なのだから逃げるわけにもいかず、どうしたものかなあ、と頭をかいていると「七松、」係長の声がした。


「あ、はい!」


 天の助け、とばかりに声のした方を振り向けば、いつの間にか係長が背後で自分の髪をガン見していた。この人はあまり表情が変わらないからなんだろうと思っていると、視線を七松の顔にずらして口を開いた。


「確かにこの髪はいけないな。今週の日曜日は呼び出しがかからないようにしてやるから、ここに行ってきたらいい。」


 先ほど反射的に受け取ったカードを指さされて、やっとそれが美容室の紹介状なのだと気づいた。見た目にやたらと気を使うこの先輩の行きつけなのだろう。美容室になど行ったこともない。地元では床屋がデフォルトである。しかしまあ美容院も床屋もそう変わりはないだろう。要は髪が切れればいいのだから、じゃあ行ってみます、と頷いて、昼休みにでも予約することにした。


 *


 新規なのに美容師の指定などあるはずもなく、お任せで、と予約して訪れた七松は、竹谷と名乗った灰色の髪を無造作に跳ねさせた青年に担当されるらしかった。中、高、大とバレーをやっていたおかげでかなり体格のいい七松よりも目線は頭半分くらい下だが、意外と筋肉はある。キャプテン時代の名残でまじまじと観察してしまって、ではご案内しますね、というその美容師の笑顔に我に返った。
 シンプルだが洗練されている、という雰囲気はあまりあの先輩のイメージには合わなかった。あの人はもっと派手なところに行っていると思っていたのだが、意外だった。けれど、この高級感のある店内は正直言って自分には場違いだ。シミ一つない壁や床に、どこかきらきら輝いているように見える備品なんか、今まで通ってきた近所のおばさんが一人でやっているようなところとは大違いで、七松らしくなく、どこか身の置きどころのない感覚を味わっていた。


「緊張しておられますか?」

「!ああ、まあ。」


 ふかふかの白い椅子に座るよう促されて、くるりと回転されて鏡の方に向き直る。するり、何気なく髪をさわる感触に思わず身を震わせながらも答えれば、「あ、すみません!」とあわてて謝られた。


「すみません、少し気になってしまって……。七松さん、これ染めてます?」

「いや?」

「へえ、きれいな色ですね。」


 黒を極限まで磨いたような、深い色だ。
 ぽつり、落とされたそれに、なんだか変な気分になる。褒められているのだろう、ということはわかる。けれど、ろくに手入れもしたことのないような自分の髪を褒められるなんて思ってもいなかったし、そもそも七松のような人に対して髪を褒めるなんて女のようなきめ細やかな行為をする者はいなかった。だからだろう、どことなく、口説かれている気分になる。


「で、どんな髪型になさいますか?」

「ん〜……」


 ああそっか、どんな髪型にするか決めなきゃいけないのか。地元にいたときはいつもと同じように、っていえば事足りたけど、さすがにそれでは通じないだろう。先輩にどんな髪型にすればいいのか聞いてくればよかったなあ、とあの偉そうな顔を思い浮かべて、同時に思い出したのは繰り返された「社会人として」という言葉。


「じゃあ、社会人らしく!」

「……ぶはっ!」


 とっさに口を押さえていたけど、七松がそう言った瞬間、竹谷は隠しようもないほど思いっきり吹き出した。


「あ、ちょっとひどいぞ!何で笑うんだ?!」

「いや、だって……なんですか社会人らしくって。」


 おれそんな注文聞いたの、初めてですよ。
 くつくつと笑いながらまた髪をさわる竹谷に、あまりいやな感じは抱かなかった。注文をしたのに笑われたのだから不愉快に思ってもいいのかもしれないけど、改めて考えれば自分が変なことを言ったのだという自覚は七松にもあるし、なにより竹谷の態度は嫌みがない。だからこそ、七松はまるでふつうの友人に対するように、笑いながら抗議したのだろう。


「だって先輩が社会人らしくってうるさいんだもん。」

「そうなんですか。もしかして社会人1年目ですか?」

「そうだぞ!」

「へえ、なつかしいなあ。」


 そういいながら、失礼します、と言って首にタオルを巻き、ケープをかぶせる。その動きはとても手慣れていた。けれど、竹谷の見た目は七松と同い年くらいか、下手をしたら年下に見える。七松より身長が低いことがそう思わせるのかもしれない。その竹谷から、懐かしい、という単語を聴くことは違和感を覚えた。


「なつかしい?」

「そうですよ〜。就職して、今年で3年目ですかね。1年目は覚えることたくさんあって大変でしょう。」

「そうだな!」


 3年目。専門学校に行っていたとしたら、22歳の七松より一つ上くらいだろう。自分と大して年も変わらぬのに、自分が今いる位置を自分よりも少し前に乗り越えてきた竹谷は、随分と大人に見えた。


「じゃあ、髪型なんですけどね、」


 七松の横に立って、鏡の前のテーブルから雑誌をとるその指先を見つめた。ふとした瞬間、ごく自然に自分の硬い髪をさわるその指は、自分より細いくせに妙に大きかった。



 *



「こんにちは、七松さん。」

「ああ、よろしくな!」


 予約より少し早い時間にきたが、レジの前のソファに座って待っていれば、竹谷はすぐにやってきた。


「今日はどうされますか?」

「いつもの感じで頼む!」

「社会人らしく、ですか?」

「ああ!」

「かしこまりました。」


 いたずらっぽく笑いながら問うてくる竹谷に頷き返せば、竹谷はクスクスと笑いながら七松の髪に手を伸ばした。竹谷はよっぽどあの注文がお気に入りらしい。ここにくるのは3回目くらいだが、七松と髪型の話をする度に思い出してはクスクスと笑っていた。
 その顔は、嫌いではない。ただ、微妙に違うなあ、という違和感を抱き続けて、ここに通っている。


「……七松さん、また髪の毛石鹸で洗ったでしょう。」

「お、わかるか!すごいな!」

「わかるに決まってるでしょう!ぱっさぱさじゃないっすか!もう、せっかくきれいな髪なんだから、せめてシャンプーくらい使いましょうって前回も言ったのに……」

「細かいことは気にするな!」


 ああ、この方が好きだ。「かしこまりました。」なんて、この店の雰囲気みたいに少し落ち着いている感じよりは、初めて髪型の注文をして吹き出していたあのときや、今みたいに少し怒って、わざとらしくため息をついている方が七松は好きだった。何となく、この方が竹谷らしい。


「じゃあまあ、シャンプーしましょうか。こちらへ。」

「おう!」


 頭半分ほど低い灰色の頭のあとについて、シャンプー台へ向かう。カット台の椅子よりもさらにふかふかの椅子に寝ころべば、まだですって、と苦笑しながら背中を起こされる。


「先にタオル巻いちゃいますね。」

「あ、そっか。」


 前回も先に寝ころんでしまって、このやりとりをした気がする。初回は言うまでもない。手早くタオルを巻かれて、背中から首筋、そして頭と竹谷の手がゆっくりと七松の体を引き倒す。最後に襟足の髪をかきあげるようにしてシャンプー台の中に髪を全部入れてしまえば、竹谷の手はあっさりと離れて七松の顔にガーゼをふわりと乗せる。


「じゃあ洗っていきますね。」


 竹谷のシャンプーはとても気持ちいい。地元の床屋のおばさんもプロだけあってやはりうまいが、男女の差というか、大きな手にがっしりと支えられて、男にしては細い指に丁寧に洗われるととても気持ちいいのだ。以前そう言えば、「就職したばっかりはシャンプーくらいしかさせてもらえませんから。」と笑っていた。けれど、そのあとに、でもありがとうございます、と珍しくはにかんだような笑みを浮かべていたことの方が、七松の印象に残っていた。


「終わりになりまーす。起こしますよー?」

「おーう。」


 竹谷はひどくおもしろくて、七松が店に来ても、最初はどこかかしこまっていてこの店のように落ち着いて丁寧な接客をしてくるのに、会話を重ねていくうちにこんな風にフランクというか、悪く言えば雑な接客になっていくのだ。しかもそれが次に七松が来たときはリセットされて、また落ち着いた雰囲気に戻っている。二回目に来たときはその態度に戸惑ったものだけど、そういう性格なのだろう、と察してしまえばほんの1時間くらいの間に徐々にほどけていく態度がおもしろくもある。
 髪にタオルを巻き付けられたままカット台の方に誘導されて、椅子に座る。後ろに立ってすぐにタオルをほどくかと思われた大きな手は、滑って七松の肩に置かれた。


「あのですね、マッサージのサービスがこの間から始まりまして、希望があれば肩のマッサージを無料でさせていただきますが、どうします?」


 全く予想していなかった言葉にきょとん、としていると、まあそんな本格的なもんじゃないんですが、と鏡越しに竹谷が苦笑う。けれど、仮にも七松はサラリーマン、意識はしていないけれどおそらく肩の筋肉は凝り固まっているだろう。そのサービスは正直ありがたくて、頼む、と七松は頷いた。


「はーい、じゃあ失礼しますね、と。」


 ぐ、と力が込められて、肩の筋肉がもみほぐされる。ぐいぐいと遠慮なく込められる力は七松が男であることを考慮して強くしているのだろう。力加減どうですか、という後ろからの問いに、ちょうどいい、と返した。


「にしてもなかなかうまいな。」

「一応マッサージ講習受けに行かされましたからね。っと、七松さんなかなか凝ってますね。」

「なんだかんだパソコン使うからなあ。」


 七松が就職したのは警備会社だが、社員なのだから当然警備以外の事務処理も行わなければいけない。警備だけしてられれば楽なんだけど、とぼやけば、七松さんらしい、と笑われた。


「なんで?」

「だって七松さん体育会系っぽいですもん。」

「そういうおまえは鍛えてはいるけど背え小さいな。背伸びしてるし。」

「ちょ、言わないでくださいよ!気にしてるんですから!」


 髪を切るには問題がないが、肩をマッサージするには少し七松の体格は竹谷にとって高すぎたらしい。背伸びをしながら体重をかけるように一生懸命七松の肩をマッサージする姿はおもしろいと言うよりはかわいらしい。そんな感想を抱いて、あーあと七松は内心自嘲する。おもしろいだけで、終わっていられたらよかったのに。
 そもそも、この店だって一回きりでもう来ないつもりだった。こんな落ち着いて上品な店は、七松にはあまり合わない。もっと安くて適当な床屋で十分なのに、それでも渡された会員カードの番号に再び電話をかけたのは、この竹谷という美容師が少し気になったからで。
 はじめは、一つしか違わない、下手をしたら年下に見える外見の割に、自分よりも大人っぽく見えるその雰囲気。そして、ろくに手入れもしないこの髪を、何のてらいもなくさらりと綺麗だと言った、好青年的な顔に似合わぬその言動。
 つぎは、何気なく自分の髪をさわってくるその指が思いの外綺麗で、そしてその指に髪を触れられるのが心地よかったこと。
 あとは、最初の大人びて落ち着いた雰囲気からふとのぞく、怒ったりあきれたりする表情。その奥にもっといろいろな表情があるだろうに、会う度にリセットされるからなかなか奥に進めない。
 もっと欲しいと思ってしまって、あーあとつぶやいた。


「え?なんかいいました?」

「いや、楽になったなー、って。なあこれ出張とかやってないの?仕事終わりとかに頼みたい!」

「さすがにそこまでのサービスはやってないっすね。うちの店に髪切りに来てもらったらまたできますが。」


 苦笑しながらタオルをほどくその指を、鏡越しに見つめる。いつか、その指を手に入れて、その苦笑のもっと奥まで見せてもらうから。

 覚悟しておいてくれ。



もうひとつの世界でさまに提出。(2012.03.27)

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