▼ 鱗粉を剥がれた蝶の末路
どうやったって直らないのだと、なまじわかってしまうこの医療に長けた頭脳が今ばかりは恨めしかった。いっそ、新野先生にどうにかしてくださいと縋ってしまえたらよかったのか。けれど、悪夢のようなその現象は確かに現実だと己が目で確認できて、それがただひどく辛かった。
「彼に言うのは、私に任せていただきたいのです。」
そう新野先生に頭を下げれば、先生は「いいのですか。」と静かに聞いてくる。後悔はしないのかと。理性を失うようなことはないと信頼されている自負はある。幾人もの友人の死を見送ってきたし、仏とは時にかくも無常なものであると他の同級生より理解している自覚はある。仏は、一度紡いだ糸を変えることはないのだ。
「きみの目は、治らない。」
そう告げれば、「だろうな。」と言う落ち着いた声が聞こえた。薄々感づいてはいたのだろう。なんといっても、横なぎに一直線に切り裂かれたのだ。眼球が完全に傷ついていて、修復などできようはずもなかった。
真っ白い、肌触りのいいさらしの下にあるのは、切れ長の綺麗な黒耀ではない。そこのあるのは、もはや生々しい傷跡を残す、光を映さぬただの球体だ。
こうなったのは、誰のせいでもなかった。ただ、実習中、ひどく実力のある忍と、彼が戦ってしまったこと。そして、彼の実力が、その忍に及ばなかったこと。それだけだ。
「今、きみのご両親のところに使いを出した。数日中に迎えが来るはずだ。」
「ああ、ありがとう。」
ひどく淡々とした、事務的な会話。こんな会話をしたいわけではないけれど、保健委員としての矜持が今事実を伝えに来たこの場で泣き崩れることを許してくれない。ああ、早く鎮痛剤が効いてくれればいいのに。そうすれば、副作用で君は眠れる。
そうすれば、ぼくはなくことができると言うのに。
「いさく、」
「なんだい?」
あくまで優しく、けれど哀れむことはしない。それが、送られるものに対してのせめてもの気遣いだと、ぼくは思っている。
「お別れだな。」
「…そうだね。」
「別れる予定じゃ、なかったんだけどな。」
奇跡的に、同じ城に就職が決定していたのだ。これでまたしばらくお前の不運に巻き込まれなきゃいけないのか、なんて笑いながら軽口をたたかれたことはそんなに遠い日の話ではない。だと言うのに。
別たれるはずのない道は、もう選ばせてくれることはなく、強制的に引き裂かれるのだ。
きっと、彼はもう会うことすら許してはくれない。会えば、知られてしまうから。
己の瞳に宿る、愛しい愛しいと言う言霊を。
「もう、伊作がこの部屋を出たら、」
「うん。」
「二度と、会うことは許されない。」
「…うん。」
そうだね、そうだ。
ああ、だから。
「……留さん、」
「…ああ、伊作。悪い、顔を、こちらに。」
息をするように、顔を引き寄せられて口接けられていた、それすら。
もう、自分が彼の手をとって、己の頬にその傷だらけの手を宛てねばならないのだと。
知りたくなかった、けれど、突きつけられることを希んでもいたのだ。
するりと、なじんだ温度が、ことさらゆっくりと輪郭をたどる。
まるで、もう固くなることがないその手のひらに、最後の傷を刻み付けるように。
「 っ、」
さよなら。
交じり合った吐息はふたり分のそれでかろうじて形を成した。
言いたくなど、なかった。少なくとも、こんな形では。
せめて、せめて、いっそ目の前でもなんででも、死んでくれればまだ良かった。
こんなことを言うのはただの身勝手からなのだと、理解はしていても、それでも希う心は止められない。
こんな、ひどく危うい、生殺しの状態で、それでも生き続ける彼を、会えもせずにただ想うことしかできないなんて。
「こんな別れ、のぞんでなかった…!」
鱗粉を剥がれた蝶の末路
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