なぜ俺の前から消えるのですか。
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卒業祝いに、と7人で食事に行った帰りのことだった。そういえば今日は赤也はいないんか、と。ぽつりとこぼした仁王に、切原君は卒業しませんからね、と当たり前のことを返していたのは仁王のとなりを歩いていた柳生だろう。それが聞こえていたのはおそらく俺だけだった。振り返ることなく歩いている俺の前方では、酒など無かったはずなのに酔っぱらいのようにジャッカルに絡んでいる丸井と、それを叱りつける弦一郎、そしてなぜかそれを腹を抱えて笑いながら眺める精市がいる。
いつもの並び方だった。この時間になると人通りが少ない駅までの帰り道を、丸井とジャッカルが先頭で騒いで、その後を弦一郎と精市が部活の話をしながら続く。それに意見を出す形で俺が続き、最後尾にだらだらと歩く仁王に付き添う形で柳生が歩く。そして、そのどこにでも赤也は入り込んでいた。
ある日は丸井と一緒に騒いでジャッカルに諫められ、ある日は精市と弦一郎の会話に無理して入り込んではからかわれ、またある日は俺の隣でつらつらと何でもないことを話したり、精市と弦一郎の話でわからないことを俺に聞いていた。そしてまたある日は、仁王に捕まってからかわれながら、柳生に慰めてもらう。
くるくると自分たちの間を駆け回っていた存在がいないことに、自然だとは思わないけど不自然だとも言い切れなかった。部活をやっていた頃には当たり前だった光景が一人欠けて、けれどすでに当たり前になりつつある。これがもうすぐ当たり前になって、そしてもっと先には赤也が入り込んだのが当たり前になる。変化に順応した当たり前を繰り返して、そうやって人は過ごしていく。
当たり前を、寂しいと思うことは一時的な感情だ。そしてそれもまた当たり前である。その「当たり前」に疑問を抱いたことなど無かった。けれど、いま。
この感情が正解なのか、わからない。
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赤也に対する感情は、言ってしまえば恋情なのだろう。きっかけはどうにも言うことを聞かない小生意気な餓鬼を任されて、躾るうちにかわいくなった。それで正解だ。自分の言うことだけは必ず聞く、生意気だけれどもかわいげのある一つ下の後輩。優越感と、庇護欲。大元はおそらくこれで、そこに日々の些事が追加されて今に至るのだろう。
こちらから矢印が向いていて、その矢印が向いた先から同じ色の矢印が返ってくる。奇跡のような確率であるはずのそんな現象が、けれど確実に起こっていることを知った。知ったとき、覚えたのは歓喜よりも戸惑いだ。
同じ色であるという保証はない。俺には同じ色に見えても、違う色であるという事もある。よく似た色は存在する。なら、その矢印の色は。
その色は、恋情とよく似た何かでは無いという保証は、どこにあるのだろう。
少なくともその色は少し前まで尊敬だったはずだ。それがどう変質したのかは俺には推測でしか語ることができない。けれど、自分に影響されたことは間違いがないと考える。被保護者は保護者の影響を受けやすい。保護者と言うほど傲慢になるつもりもないが、近いものであるという自負はある。だから、俺の矢印に影響されて矢印の色を変えた赤也をそのまま受け入れることは、どうしても抵抗があった。
動くべきではないと、思った。赤也はああ見えてひどく臆病だ。こちらが動かなければ、向こうも動かない。だから、多少の無理は承知で気づいていないかのように振る舞って、卒業まで持ちこたえた。そして、今日の卒業式、俺はほうと息をついた。これで、耐えずに済む、と。
けれど、それが油断だったのだろうか。最後の最後、赤也に捕まって、そして言われたのだ。
『なぜ俺の前から消えるのですか。』
なぜも、なにも。
卒業するからに決まっている。そう言うのが正解だったのだろう。そこに俺の意志はほぼ介在しないのだ。少なくとも、卒業することに関して、俺だけの意志で止めることなどできるはずもない。だから、なぜといわれても困るのだと、そう言うのが正解だった。
けれど。
本当に、そこに俺の意志はないのだろうか。
俺は、もしかして、
赤也の前から、消えたいのだろうか。
*
「おかえりなさい。」
家族よりも誰よりも先にそう言って出迎えたのは、俺の家の門に寄りかかった赤也だった。遠くにある街灯の明かりに小さく照らされて、白い息を吐き出しながらそう言って笑顔を浮かべた赤也を前に、俺は困惑した。
家の方向が同じである赤也と俺は、部活のあった頃は毎日一緒に帰っていた。その際、何度か俺の家に寄ったこともあったから、家を知っているのは不思議ではない。だが、俺が部活をやめてから、赤也が俺の家を訪れたことはなかった。だからこそ、昼間の続きなのだと、否がおうにも悟ってしまう。
ああ。
正解を知っていたのならば、さっさとそれを吐き出してしまえば良かったのに。
迷ってしまったから、こんなことになるのだ。
「どうかしたのか、赤也。」
「昼間、言おうと思ったのに、言えなかったから、今言いに来ました。」
なにを、などと、聞くのも無粋だろう。わかりきった科白と、わかりきった回答を、それでも求める、ある種の儀式。俺にとってはそんな印象が強い。けれど、そんな科白を、どうしても聞きたくないといったら、赤也は怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。
どちらでもいい。そう思った。
「昼間、なぜ俺の前から消えるのかと、お前はそう言ったな。」
「……はい。」
「その科白を、そっくりそのまま返すよ。」
なぜ、俺の前から消えるのですか。
なぜ、お前は、一つ下の後輩なのですか。
たかが高校に上がるごときで、いちいち消えてしまうような、そんな存在でなかったら、俺はこんなに苦しまずに、済んだのに。
「……でも、」
「なんだ。」
「でも、俺、思ったんです。俺の前からいなくなってしまうのはいやだけど、多分、俺、柳先輩が先輩じゃなかったら、好きにならなかったと思うんです。」
だから、それはもう、いいんです。
なあ、お前はそう言うけれど。
俺はその言葉が、多分一番つらいんだ。
「……ごめん。」
ゆっくりと、その幼い顔が絶望に染めあげられるのを、止めることもできない。
そんな顔をさせてごめん。
お前を好きになってしまって、ごめん。
如月さんへ