◎ Thanks,see you again!
「おにーさんおにーさん、そのまま歩くと彼の住処が壊れてしまうよ。」
いささか舌っ足らずな声に意識を引き戻されて、反射的に立ち止まる。顔を上げると、目線の高さには細い細い、光に浮き出る白い糸があった。
「蜘蛛の巣…?」
「そうだよ。セーフだねー。」
先ほども聞いた声が聞こえて、蜘蛛の巣に当たらないように一歩下がってから振り返る。すると、乾の腹の辺りまでしか届かないような背丈に、染めた後のない少し長めの髪を耳の下あたりで二つに結んだ少女が立っていた。着ているのはこの辺の公立中学の制服だが、スカートの下に学校指定であろうハーフパンツタイプのジャージをはいていることで、幼さが際だっているような印象がある。
ふむ、と分析をしてしまうのは一種の習い性だ。幼なじみに教えられて行うようになったこれも、もはや反射的に行える。かの有名なシャーロック・ホームズは握手をしただけで相手の職業を当てたと言うが、その方法に則ると目の前の少女に言えることは「見た目よりも優先順位が高い何かを持っている」と言うことだった。
乾の周りには見た目に頓着しない人種が多い。テニスに文字通り命を懸ける奴ばかりだから、髪を染めるだの服を買うだのに金を使うくらいならシューズの一つでも買った方がいいと考える色気のない連中ばかりだ。
そんな乾の周りの人間と比較しても、この少女はことさら見た目に気を使っている様子が見えない。だから、テニスでなくとも、何か見た目以外に興味を抱いている物があるのだろうと予測した。
しかしそれは何だろう、と考えて、彼女にかけられた第一声を思い出した。少女が「彼の住処」と呼んだそこは、顔を上げれば蜘蛛の巣だった。そしてそれに対する肯定。今までの言動を見るにおそらく少女は人見知りをしない性格なのだろうが、それにしてもわざわざ見知らぬこんな大男に声をかけてきたのは、少なくとも乾に対する親切心からではないだろう。
つまり、
「君は、虫が好きなのかい?」
「……すっごい、何でわかるの、おにーさん!」
「……秘密だよ。」
説明をしてもよかったが、さすがにこんな小さい子にまで気味悪がられたくはない。大したことはしていないが、場合によっては警察呼ばれますよ、とは忌憚ない後輩の言だ。
「おにーさんは虫は嫌い?」
「……嫌い、ではないかな。」
正直に言えばあまり考えたことはない。種類や生態に対する知識欲はあるが、それだけだ。好き嫌いとかの認識の外にあった。気持ち悪いだの怖いだのと言うことはないが、特別好きでもない。
けど、それを正直に言うのはさすがにはばかられた。虫が好きなのだろうこの少女を傷つけるのは目に見えてるし、説明も面倒くさい。だから、曖昧にぼやかすことにした。
「じゃあすき?」
「う〜ん……どちらかというと、好きの部類にはいるかな。」
ああ、小さい子と話すというのはここまで神経を使うものなのか。妹を持つ大石や桃城などは至って自然に会話をするが、それがこんなに大変なものだとは思わなかった。
こつでもあるのだろうか。しかし、これこそ理屈ではないのだろう。
なんだかすぐに泣いてしまいそうでらしくもなくヒヤヒヤする。制服を着ているからおそらく中学生なのだろうが、あまりにも小さくてとる態度に困る。おそらく、中学一年生女子の平均身長よりも5・3センチほどちいさい。
「おにーさん、私さ、虫を飼っているの。虫が好きだから。」
「へえ。」
「でねえ、チュッパはね、緑色のが好き。緑色はきれいだから。」
「うん。」
「でもね、お母さんはね、無理しなくていいよって言うんだ。逃がしても生きていけるよ、もっとおいしいのがあるよ、って。」
「うん。」
「おにーさんは、なにが好き?」
どんな答えを求めているのか、唐突な話題変換からは図ることができない。ただ、嘘は見破られる気がした。また、つく必要もなかった。だって、自分はこの子の名前も年齢も知らない。それはこの子も同じだ。
「そうだな。テニスが好きだ。」
「テニスは将来、役に立たないね。」
「はは、そうかもね。それでも、テニスが好きだよ。」
うん、そうだ。テニスが好きだ。無理なんかしていない。もしかしたらテニスより好きになれるものも、得意になれるものもあるかもしれない。それでも、テニスが好きだ。
「そっか!」
にかり、白い歯をのぞかせて笑う少女に、そうだよ、と頷き返す。
「じゃあ、またね!」
「ああ、また。」
ひらり、手を振って、今度は蜘蛛の巣を避けて歩き出す。大石や桃城ならここで頭の一つでも撫でるのだろうが、そうはしなかった。
行きずりの他人のさよならにしては、上々だろう。
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