拝啓、朝マックに告ぐ(if相澤/10万打リク)



※卒業後数年経ってる軸

 顔を出した朝日が、徹夜明けの目によく染みる。昨日は普通に早番の日勤だったのに、予期せぬ敵事件が発生して駆り出されたから、休憩を挟みつつとはいえもう一日以上活動してるため、眠気がすごい。どうやら無事敵グループを確保、人質の救出も叶ったらしく、通信を受けた後衛の支援部隊まで安堵の空気が漂った。それなりに張り詰めてたからなあ。私も少しだけ気が抜けて、くわあ、と欠伸を零す。眠い。最近働きすぎだからまじで眠い。

「ビアンカ、お疲れ様」
「お疲れ様で〜す。怪我人は?」
「どうやら軽傷だけのようだから、このまま解散で大丈夫そうだ」
「わっかりました〜」

 受け渡しにやってきた警官に話を聞くに、ヒーローにも人質にも重たい怪我を負った人はいないらしい。派手にドンパチやってる音が後衛まで聞こえてきていたけれど、さすが優秀だ。よかったよかった。現場には、一気にお疲れうぇいムードが漂っている。事前に今日のラスト現場だと聞いているので、完全に終わりだ。本日の営業は終了しました、である。すれ違うヒーロー達におつかれさまです〜、と声をかけあい、私も帰路に着こうかと、今回の事件の主導に当たる事務所へと方向転換した。出張ってほどではないけどちょっと遠方で活動する時は、ヒーロー専用のね、タクシーを手配してもらうのだ。くあ、と小さく欠伸をこぼす。自宅まで、タクシー使って一時間は余裕でかかるだろう。あ〜、さっさとヒーロースーツ脱ぎたい。機能性に優れたスーツは、着心地は悪くはないけれど、やっぱり仕事モード! って感じがするから、さっさと着替えたさがある。

「緩名」
「ん? あ、せんせ〜」

 ひょこ、っと現れたのは、学生時代の恩師だ。怪我のこともあり、ヒーローとしての前線は引いてはいるといえ、現場に立つことを辞めたわけじゃない先生とは、最近なんだかよく顔を合わせる。まあ、“抹消”と“バフ”が必要な現場なんて、それなりに大きな案件が多いのだから、被ることもやむなし、って感じだけど。

「おつかれ」
「先生もおつかれえ」
「眠そうだな」
「んね、ねむい。朝日が目に染みるんだよね」

 隣に並んで、先生の進む方向へ着いていく。眠たくて普段よりも更にまったりな歩みにも関わらず、先生が歩調を合わせてくれるからなんだか嬉しくなった。しかも、ホラ、と手を差し出してくれて、支えまでしてくれる。最高じゃん。恩師杖。
 肩に回った腕が、よたよた歩きの私をほぼ抱えるように歩かせる。介助?

「そのまま帰んのか」
「うん、ちょっきー」
「報告は?」
「ん」

 くい、と指を差して弊事務所の事務員さんに向ける。私たちからの視線に気付いた事務員さんが、おっけーと指で丸を作った。ね。

「なんか食って帰るか」
「んええ……いいけど、ねむい」
「食事を最後に取ったのは?」
「……昨日、の、昼すぎ?」
「なにが食いたい」
「んー……」

 ねむい。ぽやぽやしてきた。確かに空腹感はあるけれど、眠さの方が勝っている。なにがたべたい、なにが……。ううん、考えがまとまらない。しかもちょっと寒い。ヒーローとして気を張っている時はマシなのに、安心した途端これだよ。早朝ってマジ寒さ限界突破してるよねえ。

「さむい」
「犬かおまえは」
「えへへ、ぬくい」

 寒くて、先生の脇腹にぐりぐりと鼻先を擦り付けた。早朝の澄んだ冷たい空気って、鼻の奥がツンと痛くなることない? すーっ……とそのまま、冷えた鼻先をあっためるように息を吸い込んで、……。

「おい、寝るな」
「ぁえ」

 危ない危ない、立ったまま寝てた。声をかけられてハッと目を覚ますけれど、もう本当に眠りに落ちたい。眠い。……お腹減った。

「おなかすい……」
「緩名、こら、言いながら寝るな……ったく」

 パチン、パチン、シャボン玉が弾けるみたいに、意識のスイッチが切れていく。呆れた声を出すくせに、ぐいっと腰を引かれて、身体が浮く。圧迫された腹部に、ぐえっと声が漏れた。

「……家がそれなりに近いが、寝ていくか」
「しゃス」

 聞こえてきた言葉を、半分も理解しないまま反射で頷いていた。

「相変わらず仲が良いですねえ」
「すみません、タクシー手配お願いします」
「はい、すぐ来ますよ」
「それから、──、──」
「ああ、ちょっとお待ちください」

 私を抱えたまま、先生が事務員さんとなにかを話している。くすくす、微笑ましそうな笑い声が耳に届いた。うう、寒い。吹いた風が冷たくて、キンキンに冷えて耳が痛い。隠すように目の前の人間カイロに縋り付くと、抱え直された。首筋に顔を埋めると、男の人にしては長い髪が、冷たくなった耳を風から隠してくれた。



 タクシー内の心地よい熱は、振動も相まって寝るには最適で。五分程意識を飛ばして、ふと気付いた時には、再び抱き上げられていた。重たい目を薄く開くと、何度か見た事のあるマンション。飲み会終わりの飲み直しだったり、鍋パ会場として何度か来たことのある、先生の家だ。そういえば、寝に来るか、と聞かれた気がする。自宅でも寝袋で生活しているのかと思ったけど、意外とちゃんとベッドもあるんだよね。私は知ってるんだ。思いっきり寝たろ。
 目を閉じる。力を入れていない指先が、ふらふらと揺れて先生の背中を叩いていた。こうやって、相澤先生に抱き上げられたことが何度かあったなあ、と少し懐かしくなる。主に私が死にかけたりピンチの時とかだけども。傷だらけで、少し歪で、分厚いこの人の手が、少しだけ遠慮がちに触れてくるのが、思い返せば大好きだった。頭を撫でられることは、今でも、というより、卒業してからの方が増えたような気がするけれど。こうやって、抱っこされるのはめちゃくちゃ久しぶりだ。懐かしさと、あの頃、この人にこうやって抱き上げられるのが好きだったのを思い出して、胸がきゅうと締め付けられた。痛みにも似た感覚に、少しだけ息が浅くなる。思えば多分、あれは恋だったんだろう。

「緩名」

 鍵の開く音が静かに響いて、靴を脱がされた。少し硬いシーツの上へと寝かされる。ぬくもりが離れるのが惜しくて、寂しさが沸き立った。呼びかける声が聞こえる。夢みたいだな、と寝ぼけて回らない頭で思った。……夢なのかもしれない。私のことを呼ぶ声は、優しい甘さを孕んでいる。そう思うと、確かに私に超絶都合のいい夢だ。目元にかかっている髪を、優しく指先が払い除ける感覚。やっぱり、夢かも。実際の私はタクシーに乗せられて、片道一時間はかかる帰路を走っているのかもしれない。タクシーの運転手さんに起こされて、自宅マンションに着いた頃には当たり前に先生はいなくて、眠たい重い身体を引きずって自分で這う這う部屋に帰るんだ。ベッドまでの道のりが遠くて、道半ば、冷えたこたつで寝落ちる未来が見えてくる。夢かあ。

「……緩名」

 低音は心地よく鼓膜をくすぐる。好きだった人に呼ばれると、自分の名前が特別に感じるよねぇ。乙女だ。でしるなら、どんな顔して私を呼んでるのか、目を開いて確かめたいのに、身体はいやに言うことを効いてくれない。やっぱり夢だ。夢の中ってなかなか思い通りにいかないもんね。

「緩名」
「……ぅえ?」

 三度目の呼びかけと一緒に、緩く頬を摘まれて目を覚ました。思ったよりも近く、ベッドの横にしゃがみこんだ先生が私の顔を覗いていて、その距離にびびってちょっと声出た。早朝の相澤先生、無精髭も絶好調で、目も絶好調にバキバキだ。にしても、夢じゃなかったらしい。摘まれた頬は大して痛くはないけれど、夢だったらたぶんない程度には痛いかもしれない。

「飯買って来るけど、何食いたい」

 ぱち、と瞬きをして、少し頭を覚ます。何食いたい、なにくいたい、なにくいたい……。

「朝マックのほっとけーき……」
「……それ飯か? まァ、わかった」
「んふふ」

 咄嗟に答えると、わかられた。展開についていけなくて惚けていると、私の身体に先生が毛布をかける。……重た。毛布に羽毛布団に包まれると、一気に身体から力が抜けた。重たい布団って、眠〜くなるよね。それでも起きようと瞬きを繰り返すと、「寝てていいよ」と撫でられた頭のぬくもりに、じゃあ、と目を閉じた。



「ハッ」

 パタン、とドアの閉まる音で目を覚ました。視線を巡らせると、飾り気のない、生活感は微妙にある、物が少なめの男の部屋って感じの部屋だ。なんとなくだけ、見覚えはある。窓から射す日差しは、まだ朝の柔らかい様子をしているから、そんなに長いこと寝てたわけではないんだろう。まだまだ眠いし、なんならあと半日でも余裕で寝れそうだけれど、少し寝たことでちょっとだけスッキリした。トイレ行きたい。

「さむ」

 ベッドから起き上がって、ヒロスの上着を脱ぐ。現場用のベンチコートは流石に脱がしてくれていたけれど、ヒロスのコートの下は肩丸出しのワンピースだから、流石に先生も躊躇したんだろう。まあそりゃあそう。ただ寝にくいから脱ぎたい。着替えたい。あと出来ればシャワー浴びたい。
 剥き出しの肩を擦って暖めながら寝室を出ると、すぐリビングがある。寝室もリビングも暖房を効かせてくれているけれど、流石にチューブトップのワンピは冬の気候にあってはなかった。リビングを素通りして、玄関に繋がる廊下へ出る。右手側には先生の仕事部屋が、左手側にはトイレと浴室があるのだ。何回か来たことあるから知っている。だいたいマイク先生とかとベロベロに酔った時に来ることが多いから、そこまで鮮明に記憶してるわけではないけど。トイレを済まして、手を洗いに浴室に入る、と。

「あ」
「……起きたのか、おはよう」
「うん、おはよう」

 シャワーを浴びていたらしい、先生とバッタリしてしまった。少女漫画かあわやTLエロ漫画の導入っぽいけど、先生は既に上下黒のスウェットを着て、髪を拭いている段階だったのでセーフだ。……私、もしかして結構寝てたかも?

「ごめん、普通にシャワーも浴びてないし、ヒロスのままベッド使っちゃった」
「ん、ああ、別に気にしないよ」
「え〜、や、私が気になる」
「……」

 洗面所を借りて、手を洗いながら謝った。だって、自分のベッドでもシャワー浴びてないの嫌なのに、他人のベッドなんて尚更申し訳なくなる。別に私自体が事件現場に突入するわけじゃないし、そんなに動き回るポジションでもないとはいえ、なんかいやじゃん? あ、顔も洗いたい。化粧は薄くしかしてないけど、すぐに落としたい。たぶん先生が運んでくれていた鞄の中に、簡易お泊まりセットが入ってるから持ってくればよかった。うわ、この化粧崩れかけのギリギリの顔見られてんのか。ちょっと凹むかも。

「じゃあ、」
「うん?」
「浴びてくるか? シャワー」
「お……ぅ、」

 少しまごついて、持ちかけられた提案に、驚いて言葉が詰まった。シャワー……浴びたい。けれども、流石に、流石に! 男の家にひとりで上がって、シャワー借りるのは、……どうなん? でも、これが先生じゃなければはい挿入ってノリはあるけれど、相澤先生だしなぁ。下心なんてないだろうし、わりとこの人抜けてるところあるし、私って元生徒だし。それも超仲良しの。単なる親切心からだろうな、っていうのがわかっちゃうのだ。クレバー天才私様には。ので、「うん」と頷いた。私が先生に下心があるからって、相手も私に下心があるとは思ってはいけない。

「スウェット的なの借りていい?」
「あー……どうぞ」
「あ、下着とかはあれ、持ってるの。鞄に」
「ん」

 化粧水とか、替えの下着は持っているのでそこらへんの懸念はない。先生が持ってきてくれるみたいなので、おまかせした。シャンプーとか……使い捨てのテスターをいろいろポーチに入れてた気がするんだよね、たしか。



 シャワーを浴びた。スッキリ、サッパリ、爽快だ! やっぱりシャワーはいい。目も結構覚めた。欲を言うならお風呂にも浸かりたいが、そこまでは流石に自重だ。お風呂を借りるのは初めてだったけど、先生の家のお風呂って意外と綺麗でちょっと驚いた。定期的にハウスクリーニング来るって言ってた気がするな、そういえば。このマンション自体雄英と提携を結んでる社宅的なもんだから、その一部なんだろう。歯を磨いて、顔に化粧水等を染み込ませて、髪から水気を取ってドライヤーで乾かしていく。……このドライヤー、めちゃくちゃすぐ乾くんだけど、たぶん髪には超悪そうだ。先生の匂いのするスウェットをお借りして、……下、どうしよう。

「で〜っか」

 一応、スウェットは上下置いてくれているけれど、トップスはダボダボだがまあいいとして、ズボンはちょっと……はけそうにない。腰周りのサイズが違いすぎるのだ。だからといって、履かないで出ていくのは流石に痴女を極めてるというか、私、今から先生を襲います! の気概が出すぎている気がして、ちょっといたたまれない。申し訳ないけれど、今度代わりのジェラピケを進呈することにして、後戻りできないくらいにスウェットの腰紐をギュッと絞った。もう私専用だ、これ。

「お風呂ありがと〜」
「ああ」

 リビングに戻ると、先生はパソコンを開いて、テレビを流していた。朝のニュースだろう。右上に表示される時刻は午前九時少し過ぎ。あ、やっぱ結構寝てたかも。体感では三十分だったけど、その三倍は寝てるわ。

「いい加減テレビ台買わない?」
「いるか?」
「えっ、絶対いると思う」
「そうか」

 先生の家のテレビはフローリング直置きである。テレビも床も可哀想だ。あと私も見にくい。先生が背もたれにしているソファに、ぐでーっと寝転んだ。明日も休みだし、明後日は普通に日勤だし、あ〜! 最高〜!

「ビールでも飲みたい気分」
「朝だぞおまえ」
「冗談冗談」

 でもそれくらい爽快なのだ。パタパタと足を動かして音を立てると、やめなさい、と先生らしく注意をされた。はあい。

「飯あるぞ」
「あっ、朝マック! ほんとに買ってきてくれたんだ」
「まァ、食いたいって言ってたからな」
「んふふ、ありがとう。ほぼ寝てたからあんまり記憶ないんだけどね」

 クイ、と先生が親指で指したのは、見慣れたM字の袋。身体を起こして、ソファにちゃんと座ってその袋を漁った。

「……多ない?」
「好きなの食べなさい。残りは俺が食う」
「そんなに食べれる〜? 先生」
「いけるだろ、これくらいなら」
「わか〜」

 おっ、グラコロもある。サラダも、ハッシュドポテトも、定番朝マックメニューたちもいる。私はお目当てのホットケーキを取り出して、ちょっと冷めているので電子レンジを拝借だ。

「先生どれ食べる? あっためてくる」
「ん、どれでもいいよ。任せる」
「おっけ〜」

 短い時間だけレンチンする。あ、ポテト三つもある。先生の胃がヒーローらしく若いことは知っているけど、朝からこんなに食べたら胃もたれしないのかな? まあ大丈夫か。先生用にコーヒーを入れて、自分用には白湯だ。朝にはちょうどいいよね。

「ん」
「ん」

 先生にコーヒーを渡すと、こっちを見ないまま受け取られる。なんか、いいな。指先がほんのかすかに触れたのに、胸がきゅん、と縮まった。
 先生がパソコンを閉じる。作業、たぶんお仕事だろう、終わったのかな。並んでソファに座って、買ってきてくれた朝ごはんに手を付けた。ぼーっと見にくいテレビのニュースを見つめながら、ホットケーキを齧る。甘い。美味い。久しぶりに食べるとなんか美味しく感じるよね。……シチュエーションもあるかもしれない。再チンしたことで、余計に油っこさの増した気がするポテトを頬張る。うん、油だ。おいしい。

「食べる?」
「ん、くれ」

 戯れに、ホットケーキを差し出して言えば、予想と反して頷かれた。はい、とナイフとフォークごと渡そうとしたけれど、先生がパカリと口を開けるのを見て、ひとりこっそりむう、と頬を膨らませる。なんか、めちゃくちゃ信頼されてる感じ、する。なんかわかんないけど、モヤモヤなのか、嬉しいのか、分からない感情が渦巻く。なんなんだろうね、朝から。胸焼けかな。
 メープルシロップの染み込んだ、重たいホットケーキを持ち上げて口に運ぶと、当たり前のように咥えられる。どろんとした視線は、見ているのか見ていないのかわからないニュースを追ったままだ。舌の先が、唇についたメープルを舐め取る、その仕草がやけに色っぽくて、寝不足の朝の脳には刺激が強すぎた。同時に、もっとムッとした感情が沸き立ってくる。

「……先生さあ、もう少し警戒心持った方がいいんじゃない」
「なんだそれ」

 ハ、と鼻で笑われた。でも、そうだ。先生みたいな人が、こんな、気の抜けた姿を見せ付けて、なのにめちゃくちゃ優しく接してきたら、並の女ならもう食い付いてるところだ。先生は生徒のことは生徒としてしか見れないんだろうけれど、私たち生徒だって、年が離れていようと女なのだ。優しくて、面倒みが良くて、意外とちょっと抜けてる人だから、元生徒誰にでもこうやって接して、恋心を弄んでいる可能性もあるのかもしれない。だって、学生相手にならもっとカッチリしてるのに、私が卒業して大人になってからはずっとこんな感じなんだもん。いや、ひとりで家に上がるのは流石に初めてだけどね!?

「……この部屋、私以外連れ込んでないよね?」

 だから、思わず、恋人の浮気を疑う彼女みたいな発言が出てしまったのも仕方がないだろう。

「おまえが連れ込んでるだろ」
「三奈とか鍋パのとかはいいの!」
「マイクか」
「マイク先生も、まあ、いいの」

 たしかに、先生の部屋に同期を連れ込むのは私の役目だ。突撃恩師の鍋パーティとか、だってめちゃくちゃ楽しかったし。そうじゃなくて、と身体ごと横に向けて先生を見上げると、テレビを見ていたはずの視線は、今は完全に私を向いていた。身を乗り出してしまった身体の勢いは止まらず、前のめりになったのを先生の膝に手を付いて支える。より、距離が近くなって、すぐ近くで上下する、浮き出た喉仏が見えた。

「……なに?」
「……ッ、!」

 それから、そう、掠れた、吐息のような声で囁かれるから、耳まで熱くなるのも、また仕方がないと思う。

「緩名」

 重たい低い声が、ゾワゾワと鼓膜を撫で上げる。膝に付いた手を退けようとするけれど、それよりも先に重ねられた、大きな手が押さえつけてきて、退かせられない。長い指の先が、かさついた指の腹が、手首の内側をなぞるのに、大袈裟に肩を揺らした。
 目、が。緩名、と私を呼ぶ声は、ここのところすっかり聞き慣れてしまったけれど、確実な甘さを孕んでいて。なによりも、目が。隻眼ではあれど、雄弁な程とろける目付きで、私を見ていた。そういえば、先生が私を呼ぶ時の顔を、しっかり見たこと、ここ最近なかったかも、しれない。こんな顔をして、呼んでいたんだろうか。でも、つまり、それは。

「ん?」
「っ、なんか、あの、」
「うん」
「あ、の」

 顔が熱くなってくる。その視線の意味に、気付けない程鈍くもいれなくて。

「私以外に、こういうの、してるとやだなって……」

 視線を泳がせたいのに、至近距離にある先生の顔から硬直したように動かせない。視界の端で、喉仏が大きく上下して、「つまり」と端的に、続きを促してくる。たった一言、でも、確実な誘導尋問だ。

「つまり? えっと、つまり……嫉妬した」
「うん」
「……相澤先生、が、好きだから」
「……うん」

 震える声で、結論を伝える。よく出来ました、とわざとらしく、先生のように褒められた。そ……えっ? そういうこと?

「……私、まだ相澤先生のこと好きだったの?」
「勝手に過去形にしないでくれ」
「ええ、だってえ……」

 そう……そうなのか? いやそうなんだろうな。っていうかそうだわ。腑にストンと落ちた。今世での初恋を、わりとこう、今いい感じの距離感に収まって、時々ドキドキするけど青春の名残を浴びてるみたいな……そんな感じだと思ってたのに。

「バレてた?」
「おまえ以外みんな知ってるな」
「ええ……はず……」

 そうか……みんな知ってんのか……みんなってどのみんな!? 少なくとも、相澤先生がいる時は絶対誘いをかけてくる人々には筒抜けなんだろう。筆頭プレゼント・マイク。恥ずかしすぎる、と前のめりの身体をさらに倒して、ぽす、と先生の肩に顔を預けた。自覚してない恋情が周囲に筒抜けなことほど恥ずかしいこと、ないでしょ。周りからしたら微笑ましいのかもしれないけどさあ!?

「アイツらにはおまえから報告してやれ」
「ん……それはいいけど……いやよくないけどさあ……」

 言いながら、ぎゅう、と抱き着いてみる。抵抗されない。学生の頃には、それはダメだろ、としっかりNGを出されたのに。どころか、私の背中にちゃっかり手が回された。抱き締められると、やっぱり安心感と、それ以上に今までにないほどのドキドキが駆け抜けていく。あ、これヤバいやつだ。好きなの自覚したらまじでヤバいほどドキドキする。語彙力まで終わってるわ。

「……先生は、……」

 抱きしめられたまま少しだけ距離を取って、先生を見上げた。私のこと好き? なんて、流石にもう成人した男女の間でわざわざ聞くことでもないのかもしれない。でも、私はやっぱり言葉で欲しい、と思ってしまう。まだガキなのかも、私。

「好きだ」
「……わあ」

 少し不安になったら、真正面から伝えられた。どストレートだ。

「……これでも、結構アプローチした方なんだが、おまえ全く気付かねェから」
「それはそれは……」

 言われてみれば、である。先生ってマジ優し〜な! って思ってたけど、あれ私だったからなんだ。いや本当に、全然気付かない私ある意味すごない? それだけ、先生に甘えきっていたんだろう。
 ごめ〜ん、の意味を込めて見上げると、言葉とは裏腹に愛しさで満ちた瞳をしているから、やっぱりちょっと恥ずかしくなる。だって、こんなん、愛じゃん……!

「せんせ、」
「ん」

 見つめているのが恥ずかしさ天元突破して、その胸にもう一度身体を預けようとすれば、頬をそっと覆われた。そのまま、迫ってくる唇。触れる直前、窺うような間があったから、少しわらって目を閉じると、ようやく重なった。

「……」

 唇が離れる。ほんとうに、ただチョンっと触れるだけのキスなのに、柄にもなくめちゃくちゃ照れた。照れすぎて無理すぎて両手で顔を覆う。もう、こんなんで鼓動がえげつなくなってるから、ズルすぎるんよ。

「……死ぬかも、私」
「なんでだ」

 フッ、と鼻で笑う、その吐息も色っぽくて。テレビはいつの間にか、ニュース番組が終わり、ネットショッピングのよくわからない商品が紹介されている。目を覆う私の手を取り、二度目に触れた唇は、ハッシュドポテトの味がした。



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