遠くから聴こえる鍵盤ハーモニカの音が ぼんやりした意識に次第に濃くなっていって、かすむ視界のなか身体を起こす。流しの下の開きにもたれて、ようやく状況を理解した。朝からビールを飲みながら台所の床で寝てしまうなんて。だめな大人のいい見本みたいなことしてる。部屋の中はコーヒーのいい匂いでいっぱいだ。


ふらふらする足取りでベッドに座ると、椅子の上で鍵盤ハーモニカを吹いている伊助ちゃんが目に入った。わたしが教えてあげた曲を、一心不乱と言ってもいいくらい真剣に演奏してる。
この子、ほんとなんにでも一生懸命なんだなぁ。ちょっとした冗談も、横着も、ぜんぶ残らずひろってはまっすぐに投げ返してくるんだ。方向音痴なキャッチボールとはまるで逆の、伊助ちゃんはほんとうに素直でまっすぐな子。

ちいさな でもささくれだった指が不器用に動いて鍵盤を押しているのを見ていたら、なんとも言えない気もちになってきて 中断されることはわかっていたけどおもわず声をかける。


「伊助ちゃん」


案の定楽器から顔をあげた伊助ちゃんと、ぱっちり目があった。


「どうしたんですか」
「あのさ、わたし、仕事さがそうかな」


寝起きのみょうなテンションのせいもあったけれど、うすうす考えてはいたことだから いきおいで言ったのではない。

なんだか気恥ずかしくなって、こんどはわたしが顔をそらした。

面映ゆいって、こんな感じかな。


「貯金が少なくなってきちゃったのもあるんだけど、それだけじゃなくて。わたしが働いて、それで、伊助ちゃんもお家帰るまでここの近くの学校に行ったらいいかなとおもうんだけど」


ちらりと前をうかがえば、伊助ちゃんは鍵盤をしずかにテーブルに置いた。 眉をさげた どこか情けないような顔でへにゃりとわらって、


「いいですね」


その声があまりにやさしくて、なんていうか慈愛みたいなものがあって わたしはますますはずかしくなり、はがれかけのペディキュアを見つめながら つい弾んだ声になる。


「で、でしょ?それで…いっしょに暮らそう。カレー以外の料理も勉強するからさ。伊助ちゃんも小学校行ったらもっといろんなことできるし、きっといまよりもっと楽しく、」


わくわくがふくらんで ふたたび顔をあげると、



目と鼻の先にいたはずの伊助ちゃんが、忽然と消えていた。


「…伊助ちゃん?」


立ち上がって部屋の中を見回す。伊助ちゃんの姿はどこにもない。


「伊助ちゃん?」


こんなせまい部屋で隠れる場所なんてあるわけないけれど、台所、おふろ場と名前を呼んでも返事はない。さっきまで彼がすわっていた椅子にふれるとまだほのかに温もりがのこっていて、ああ、


帰ってしまったんだ。直感がそう告げた。


ほんの数秒前まで吹いていた鍵盤ハーモニカも、グローブとボールの入った紙袋もまだここにあるのに、伊助ちゃんだけこの部屋からいなくなってしまった。

ぐわん、ぐわんと耳の奥でなにかが鳴って、思考はぴったりと止まるのに なんで?ばっかりがあふれてくる。伊助ちゃん、帰っちゃった。うそでしょ、もうここにはいないなんて、

帰っちゃったんだ。

フローリングの冷たさだけが足の裏に痛い。それでもまだ希望は捨てきれなくて、はっとおもいたって窓ガラスを開けベランダに出る。


そこには、朝コーヒーをこぼしてしまったシャツが きれいな朽葉色に染まって干されていた。


秋の終わりの抜けるような高い空と、朽葉色のシャツのコントラストが目にしみて、さっきまでそれを染めていた伊助ちゃんの指先があざやかによみがえって、まるでスイッチを押したように、両方の目から涙があふれだしてとまらなくなった。


瞼も鼻先も焼けるように熱い。かみしめた唇はただ痛い。うずくまって腕に目を押しつけてみても、涙は次から次へとこぼれた。身体のなかがからっぽになってしまったみたいに、痛くて痛くてしかたなかった。


吹きこんでくる冷たい風に 干されたシャツと髪を揺らされて、わたしはひたすら それに耐えるように泣いた。



鞄にいれっぱなしの携帯が鳴るのが聴こえたけれど、それどころじゃない。痛みと寒さとからっぽの身体に動けないでいると、携帯は鳴りやんでとたんに静けさがおとずれた。しかし、数秒経ってまたもやけたたましい音を立てはじめたので、たまらなくなって立ち上がり、画面も見ずに通話ボタンを押す。


「もしもし。なまえ?」
「……」
「最近よく電話して悪いな。今いいか?実家の片付けしたら私のガキのころの服が大量に出てきたらしいんだけど、伊助が着るかなとおもって…」
「……」
「…なまえ?」


ぐす、と鼻をすする音が聴こえてしまったのかもしれない。三郎が電話越しに戸惑っている気配がした。


「泣いてるのか?」
「…泣いてないってば」
「……家だな?今から行くから、そこで待ってろ」
「いい、来ないで」
「…ひとりになったのか?」
「……三郎は伊助ちゃんの代わりにはならないし、したくないから」
「…それならなおさら行く。待ってろ」


一方的に切れた電話をテーブルに置くと、周りのひとをもっと大切にしないとだめですよ と伊助ちゃんのことばが脳裏をよぎった。


三十分もしないうちに、三郎はこの部屋に来るだろう。


開け放たれた窓のそとで揺れる、きれいに染まったシャツだけが 伊助ちゃんがいたことの証拠になってしまった。

彼が片づけてくれたこの部屋で、あと三十分だけ わたしは伊助ちゃんとふたりきり。


111003



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