夏はもう終わってしまうのだろう。鼻から吸い込んだ夜の空気からは次の季節の香りがするのだ。目を閉じて耳を澄ませば、チリチリと鈴虫の小さな鳴き声が聴こえた。幼い頃は大好きだった彼等の歌声も、素直に楽しむことができない。それは夏の終わりを告げ、寂しい季節がやってくる現実を私に突き付けるのだから。

「一人で泣く癖…、いい加減直したらどうだ…?」

私は明かりの灯らない小さな和室に居た。視覚が不自由な分、私に向けられたであろう声がはっきりと聞こえる。けれど、その声はずっと前からよく知っていたものだったから、部屋の隅でうずくまっていた私は顔を上げない代わりに膝を抱える腕により力を込めた。

「泣いてない…。仮に泣いてたとしても、晋助には関係ないもん」
「ククッ…」
「何が可笑しいのよ?」

若干苛ついたような声を彼にぶつけてしまった。これじゃあ子供みたいだ。悔しさから小さく口元を歪めながら顔を上げると、すぐ目の前で私を見下ろしていた晋助と目が合った。「強情な女だ、お前は」そう呟いた晋助は畳の上に胡坐をかいて私と同じ目線で話し始めた。

「敵と俺らの戦力差は歴然。ンなこたァ、数を数えらんねェ餓鬼にだってわかる。けど、それに怖じけづく奴は誰もいねェ。どうしてだろうな」

さも可笑しそうにクツクツと喉で笑う晋助は、私より上…、木目の天井の一部分をぼんやりと眺めているようだった。なんの悪意もない彼の一言だったけれど、それは私の心拍数を速めるには十分すぎるものだった。

「ねぇ…、もし…、」
「あァ?」
「もし、私がさ…、戦うのは嫌だって言ったら、晋助は私のこと見損なう…?」

身を乗り出して私は重々しく晋助に質問をした。
圧倒的な戦力差と、疲弊しきった数少ない攘夷志士。きっと明日、長い間続いていた攘夷戦争に終止符が打たれるだろう。そんなことは誰もが気付いているのに、決して口にしない。違う。口にしてはいけない空気が漂っているのだ。勝てるわけないとわかっているのに、ちゃちな鎧を着て、たった一本の刀を握って、自分より遥かに大きな「からくり」の前に立たなければならないという事実を疑問に思う私は何か間違っているのだろうか。
晋助の膝に両手を置いてじっと彼の両目を見つめてみるものの、私の問いに対するの答えは何も得られなかった。代わりに晋助の口から息が吐き出される音が秋を迎えつつある夜空の中に微かに聞こえた。

「ごめん…、私、変なこと言っちゃったね…。やっぱさっきのなし。もう忘れて?」

私はアハハ、と笑ってみせたが、そのぎこちなさが、より場の雰囲気を悪化させていくような気がした。さっきから自分の情けなさに苛立ちがつのるばかりだ。今更たくさんの命を無駄にしたくないなんて考える私は馬鹿げてる。今日までに亡くした仲間を裏切るような考えは脳内から消し去らなければならないのだ。だけどやはり…、と心中で反論しそうになる自分を窘めるように拳をきつく握ると、私は畳の目を数えるように俯いた。

「あぁ、忘れてやる」
「うん…、ありがとう……」
「名前、」
「んっ……!」

不意に名前を呼ばれ、私は晋助に視線を向けた。彼はどんな感情もその瞳に浮かべないまま、私の腕を引いて身体ごと抱き寄せた。ちょうど晋助の鎖骨に私の額がのるようにして、誰からも私の表情が見れないように隠してくれているようだ。耳を澄ますと、ドクンドクンと人間が生きている証である心臓の音が2つ聴こえた。

「今夜だけ、お前が攘夷志士であることを忘れてやらァ」

予想外の彼の言葉に、数秒間私は息をすることをすっかり忘れてしまった。思い出したように呼吸を始めても、喉が詰まっているかのように苦しくて、小刻みに震えた吐息だけが外へ零れていく。鼻の頭がツンと痛んで、私は必死に唇を噛み締めた。ずっと心の奥の感情を塞き止めていた重たい塊がスッと消えて、油断するとそれが涙となって溢れ出てしまいそうだ。これ以上何も言わないで。言っちゃ駄目。そんな言葉を胸に秘めながら、嗚咽が漏れてしまいそうな口を必死に片手で塞いだ。

「お前は、今、ただの女だ。泣くことの何が悪ィ?」

泣かないと決めていたのに、晋助の一言で隠しきれない程大粒の涙が一つ、頬を伝って落ちた。ずっと、ずっと、私はこの言葉を誰かに言って欲しかったのかもしれない。頭をゆっくりと撫でてくれる大きな手が「泣いてもいい」と、弱い私を許してくれているような気がして、私は謝罪と感謝の言葉を震える声で落とすと、声を殺して深々と彼の着物に涙を落とした。

「なぁ…、」
「ん……?」
「最後に一つだけ…、てめぇの願いを何でも叶えてやるって…、言ったらどうする」
「願い……?」

晋助に包まれたまま、私は同じ言葉をもう一回だけ鼻声で呟いた。
私の願いとは何だろう。晋助が「何でも」と言ったのなら、今から2人で安全な場所へ逃げることも許されるはずだ。そうすれば、私と晋助は未来を生きることができる。

「ふふ…、」
「何笑ってやがる?」

彼に指摘されて初めて自分の微笑に気がついた。なぜなら、自分でも気づけないほど無意識に笑っていたのだ。けれど、それは喜びなんかじゃなくて、自嘲の笑みだった。自分の為に晋助の志を壊すことなんてできるわけがない。それに、私も逃げるつもりなど毛頭ないのだ。幸福な未来を約束することが叶わないのなら、私は何を願おう。
深く息を吸って気持ちを整理してから、私はゆっくりと晋助の胸板を押し返して顔を上げた。今夜は満月のはず。けれど、月が薄い雲に隠されているせいで、こちらに月明かりは届いていなかった。部屋の明かりも、月明かりもなければ、まともに晋助の顔を見ることができない。けれど、微かに聴こえる息遣いや彼の体温で、今ここに晋助が居るとはっきりと感じられた。

「私の願いはね…、私は晋助と共に生きたって、死ぬ間際にだって忘れないくらい、私に晋助を刻み込んで欲しいの」

彼の返答を待つほんの一瞬の間、あんなにもうるさかった鈴虫が一斉に黙り込んだ気さえした。フッと小さく笑ったらしい晋助は私の名前を呼ぶと「今日は目ェ閉じるんじゃねェぞ」と一言だけ囁いた。

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