「名前」
長期休暇を利用して京都に遊びに来た彼女は、この部屋に居るのが当然なんだと錯覚してしまうくらいに馴染んでいる気がした。
揃いのスリッパにマグカップ。柄にもなく買ってみたそれらがそう思わせているのだろうか。
「んー? なあに、赤司くん?」
「こっち、来て?」
名字での呼び方はやめないかと何度提案しても、中学の頃からの癖はなかなか抜けないらしい。
向き合うよう設置したソファーの片方に座っていた名前は、テーブルの上にしおりを挟んだ本を置くとパタパタと足音を立てて僕の前へとやってきた。
僕は、もう一対のソファーに腰かけたまま「どうしたの?」と質問されるよりも早く名前の手を引いて、彼女を抱き締めながらソファーへと沈んだ。
「びっくりしたぁ……」
「ふふ、嫌だったかい?」
まるで名前が僕を押し倒したような体勢だ。
最初は驚いたように目を見開いていたが、僕の言葉に「むしろ嬉しいかな」と答えると、微笑みながら指を絡ませてきた。
「赤司くん、甘えたかったんでしょ?」
「さあ、どうだろう。でも、名前が言うのならそうなのかもしれないね」
「もう……。赤司くんは昔から人に頼るってことを知らなさすぎなの」
「そう? 何事も自分でやった方が最高で最善の結果を出せるからそうしているだけだけど」
「それも知ってる。でもね、そんなことじゃいつかキャパシティオーバーで壊れちゃうんじゃないかって、いつも怖くなるの」
「壊れる、か」
きっと無意識なんだろうけど、名前の手に力がこもる。
こんな時、すまないと言うべきなのか、それとも心配してくれてありがとうと言うべきなのか僕にはわからなかった。
「大丈夫、僕は壊れたりしない」
不安に揺れる瞳が縋るようにこちらを見た。
手を握り返して、また、空いているもう片方の手でゆっくりと髪を梳くように撫でると、名前は何も言わないまま首筋に顔を埋めた。
「家も、学校も、何もかもが僕に勝利のノルマを課してくる。それを嫌だとは思わないし、むしろ当然のことだと思っている。ただ、毎日が息苦しい。それだけだ」
「それだけって……! なんでそんな簡単に済ませられちゃうの……?」
名前は苛立ちを抑えるようにして僕から身体を離した。
同じように僕も上半身を起こして正面から向かい合う。僕自身の問題なのに 名前は苦しげに顔を歪めて涙を堪えていた。
彼女は、上手く表現できない僕の感情を映し出す鏡のようだと、ふと思った。
「僕には名前がいる。だから大丈夫なんだ」
「わ、たし……?」
頷いてみせても、彼女の不安はまぎれないらしい。
「君だけは僕のことを心配してくれる。今みたいにたくさん甘やかしてくれる。それだけで、息苦しさなんてどこかへ消えてしまうんだ」
「もう……赤司くんのばか……」
からかわないで、と言いつつも、名前の顔に浮かんだ不安はさっと消え去った。その代りに頬がほんのりと色づいて、視線も僕から手元へと移ってしまう。
「君になら馬鹿と言われても構わないさ」
「なっ………!」
「名前」
2人の距離をもう一度縮めるように名前を抱き寄せる。
僕だけを見て欲しいと頬に手をそえて、親指でそっと唇をなぞった。
「僕に酸素を頂戴?」
本来なら息苦しくなるであろう深い口づけは、僕にだけ他とは異なる効果を与えてくれているらしい。
全身が何かで満たされて、しかし、これだけでは足りないと子供みたいに駄々をこねる自分がいる。
彼女がいなくなってしまったら、とそんな漠然とした不安をかき消すように、何度も唇を重ねた。
お前がいなきゃ息もできない
ヴェルディ様からこのタイトルをいただきました!
「息もできない」のフレーズに、彼女に無意識にでも依存していて、離すことなんて絶対にできない赤司くんがふと思い浮かびました。
そのため、彼女大好きモードの赤司くんはどうやって甘えるのかな、なんて考えながら、とても楽しく書かせていただきました。
ヴェルディ様、素敵なタイトルをありがとうございました!
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