巷では、行方不明になった人の事はあまり知られていなかった。
なんせ証拠というものがない。死体も無ければ、消えた人間の共通点も場所もばらばらで、関連性のない行方不明事件として別々に調べられていたからだ。
警察に追われることなく食事を進めるハルトは、最も賑やかな所へ迷い込んでしまうまでに3人の女と2人の男を喰い、夜の華やかなネオンを睨みつけ、舌打ちをする。
喰うのに夢中で意外にも人気の多いところに出てしまったようだ。
ハルトはなるべく暗がりの路地を歩いていたが、そこは微かばかりで、少し抜ければワイワイと人が行き来する都会の中心だった。戻るのに時間がかかりそうだ、と面倒くさそうに考えながら、戻る道を捜し歩く。
夜ということもあってか、帽子を深くかぶっているハルトの顔は誰にも晒されないまま、なんとかホテルまで半分と言うところまで来る。建物が無くなり、木や草花が整えられた公園。ここは先ほど細身の男を喰った所でもあった。
あと少しだ…。と思いながら夜の公園を突っ切ろうとした時、遠くからピアノに音が微かに聞こえた。
様々な雑音が交差する都会で、その微かだが流れるような音は、異様に綺麗で心惹かれるものがある。
音楽など全く興味の無いハルトだが、この日は…。否、このメロディーにはなぜか足が止まり、ふらふらとそちらに向かってしまっていた。
なんという曲なのは知らない。とてもゆるやかに流れるが、音の数は多く、暴力的にも聞こえる。
半分千切れたハルトの耳にもそれは正常に、より美しく聞こえ、惚けた様に目が細まっていく。
いつまでも聞いていたい。
初めて、そう思うほど、ハルトの心は音色に惹かれて行った。
公園の隣には、大きなコンサート会場があるようで、ピアノの音はその中から聞こえる。公園の草木の延長にあるコンサート会場は近代的なつくりの建物だが、草木に合い、自然な居心地良さを醸し出していた。
音が良く聞こえる裏口付近の草むらに隠れ、ハルトはその演奏を静かに聞いていた。
本当は中に入って直接聞きたいが、人が大勢いるし、この顔では入ることはできそうにない。
眼帯と、無数の傷が残るこの顔は見るのもを怖がらせ、遠ざける。悪くて警察を呼ばれることもあるのだ。
生きづらい。と思ってしまいそうになるが、ハルトはその思考を遠ざけるように目を閉じ、流れる音の美しい風を感じていた。
曲が変わる度に、受ける印象も違う。
それに合わせて自分の表情が動いていることに、ハルトが気が付くことはない。
悲しそうな音には、微かだが眉を寄せ。楽しそうなものには、口端を上げる。安らかなものにはリラックスしたように顔が緩んだ。
ピアノと言うものを初めて聞いたわけれではないが、この中で流れる旋律は何故か心の奥底まで染み入る様に響く。
楽器が変わることはないだろうから、弾いている者に何か惹かれるものがあるのかもしれない、技術であったり、その者の表現、感性だったりする。ハルトはこの音を生み出す人間に会いたいと、ほんの少しだけ思った。
ほんの少しだけだ。本当にほんの少し、だけど、この世界の何にも心を動かされることなどなかったハルトとしては、これは大きな変化だ。誰か特定の者に食事以外で興味がわくなんて。ここにもしテオフィールがいたら、目をこれ以上ないほど開けて、一晩中笑ってからかっただろう。
だが、誰もいない、ピアノの音だけが響く裏口付近の真っ暗な草むらの中には、ハルト一人。
なんの雑音も邪魔しない、一人の穏やかな空間が作り出された瞬間だった。
否、一人ではないかもしれない。
このピアノを弾く者と、ハルトと二人。見知らぬばかりか、片方はハルトの事など微塵も知らないと言うのに。
すでに二人は、ピアノの旋律に合わせて緩やかに踊りだしていた。
何かを喰った重さの無い、軽やかな動きで相手の手を取り、踊りだす瞬間をハルトは心の中に思い浮かべる。
座敷牢の申し訳程度に置かれた本の中で、一番好きだった。醜い獣が美しい姫の手をソッと取り、踊りへ誘う。あの何とも言えぬ心の高鳴りが、胸いっぱいに溢れそうだった。
目を伏せて、ピアノの音に集中していたためか、警戒心を露わにした声をかけられるまで、ハルトは背後の人間に気が付かなかった。
「おい、…こんなところで何をしている!」
「…ッ」
邪魔に入った声に振り向くと、カッと明るい光に照らされる。
蛇の目は退化していた名残か、突然の光などには弱く、色と言うよりは熱を追うため、唯一残っている片目が、弾けるようにそれらを拒絶した。
「く…っ…」
片目を覆って光から逃れるように俯いたハルトに、光の元はさらに近づいてくる。
「コソコソと何をしているんだ!両手を上げろ!」
「……」
「早くしろ!」
目を庇ったまま数度瞬きしたが、白い残像が邪魔をして、視界が狭まっていた。とてもじゃないが、眼力は使えないだろう。
ハルトは溜息を吐いて、大人しく両手を挙げて立ち上がる。
面倒事に巻き込まれるのは嫌いなため、偶にこうして怪しまれ捕まっても、構わなかった。
どうせテオフィールが迎えに来るか、蛇の姿になれば、どこへとも逃げられるから。
「何もしてねぇよ…」
呟くように言うが、警察だろう男は、マグライトを向けたまま近づき、ハルトの深めにかぶられた帽子を取り払った。両手を上に挙げ、目も使えない今では、無防備にされるがままになる。
「なっ!?」
ぼんやりと白んだ視界で男が驚いたことに気が付いた。
ライトで照らされたハルトの顔は傷が多い。擦り傷、切り傷ならまだしも、裂けた口を縫い合わせた痕や、耳が半分千切れた後は異様に不気味で、恐ろしい。
誰が見てもそう思うだろう。これは本物なのか。仮装をしているのか。もしかしたら、頭のおかしいジャンキーかもしれない。
「なんだ、その傷は…」
「……」
驚愕と嫌悪と異端の目で見られ、ハルトは返す言葉を取りやめた。こうなれば何を言っても薬中として落とされるのが目に見えている。それに傷について言うのは疲れる、なんでもいいから早く済めばいいと、だんまりを決め込んだ。
無反応の相手に警官は眉を寄せて頭上に挙げられた腕を取る。
手錠をはめるのだ。
「醜い顔だな…犯罪歴がわんさかありそうだ」
「なんもしてねぇよ。ただここで演奏聴いてただけだ」
「タダ聴きか。金がないホームレスでも、こんな顔してないだろうがな、薬は?」
「ねぇよ、偏見野郎」
「なんだと、嘘を言うなっ!」
後ろ手に拘束され、抵抗できないハルトだが、その口の悪さは納まらず、警官はカッと頭に血を上らせてマグライトを振りかざした。
ガツッという音と共に、ハルトはその場に倒れる。犯罪者に対し、容赦のない態度をとるこの警官は、力を緩めることなどせずにマグライトで顔を殴ったのだ。
「ぐッ…、ってぇな…」
まだぼんやりとした視界では上手く避けられず、切れたであろう口端から滲む血の味を舌で転がし、ペッと吐き出す。ハルトは堪えた風でもなくシラッと悪態をついた。
「ろくな警察にならねぇな、てめぇは」
若いのかどうかもわからないが、手錠を付けるにあたって、まだぎこちなさが残る男を新米だと判断したハルトは、鼻で笑うように言った。
言われた男はまさにその通りであったためか、更に鼻息を荒くして憤慨し、もう一度マグライトを振り上げる。
徐々に開けてきた視界に、振りかざされた腕を見て、ハルトは、あぁ…。と目を細めた。
自分は何をしているんだろうか。
こんな人間一人、目が見えなくとも喰ってしまえるのに。
それでも、なぜか、ハルトはこの場でその行為に至ることができない気がした。
今は止んでいるピアノの旋律に、自分が酷く似合わないのはわかっている。だから、せめて、その音が心で響いている間は、空腹と言う狂気は閉まっておこう。
振り下ろされる腕をぼんやり見ながら、今までにない感情を自分なりに理解しようとした。
足りないモノがたくさんある、自分なりに―――。