花子は軽度の全般性不安障害であった。先天性か後天性かはわからないが、医学書を片手にいくつか問診してそれが発覚した。抗不安剤であるベンゾジアゼピンの使用や、アルコール依存も無い。一応体を検査してみたが、他の不安要因は無かった。
カルテを作りながら、私は眉をしかめた。やれやれだ。私の専門は外科だっていうのに。
とりあえず命の危険があるわけでもなし。軽度とはいえ一人では家の外に出る事が出来ない心持のようだが、日常生活にそれほど問題があるわけでもない。私は専門外の医学書を閉じて伸びをした。
「なにしてゆの?」
「!!?」
ガタガタン!と音を立てて、私は椅子ごとひっくり返った。ごちん!「いっ…!」頭を打ち付けてしまって、痛む後頭部を撫でながら目を開く。逆さまの世界でピノコちゃんがきょとんとした顔をしていた。次いで開くドアとブラックジャックの「どうした」という声。ブラックジャックは私たちの様子を見て「またか…」と呟いた。
「ピノコ、コーヒーをくれ」
「あらまんちゅ!」
私を助け起こしたブラックジャックは、倒れた椅子を直してから隣の椅子に座る。そして私が開いていた医学書を覗き込んだ。
「あんたが持ち出していたのか」
医学書の事を言われているとすぐにわかった私は「すみません…」と、声を絞り出す。出てきた声は思った以上にか細くて、文字通り絞り出したような声だった事に少々驚いた。
「ここには本といえばその医学書かピノコちゃんの雑誌しかありませんから…つい。本当にすみません。ましてや黙ってお借りするなど」
「いや…いいさ。それにしてもそいつを読みふけるほど退屈なら外に出てみたら良いんじゃないかい?」
頬杖をついて私を見上げるブラックジャック。首が辛そうだ。私はとりあえず椅子に座った。ブラックジャックの視線も私についてきて、彼は横を向くだけの格好となった。
「いえ。何かに熱中しているのが好きなので…」
「でも急に近くから声をかけられたら対応しきれないだろう?」
確かにその通りだった。図星過ぎてぐうの音も出ない。
私はここに置いてもらえると決まったその日から(、と言うか、この家の中に入った瞬間からなのだが)、事あるごとに驚いてひっくり返っているのだ。おかげで体にはアザとたんこぶが絶えない。前々から少し人よりも神経が過敏だとは思っていたけど、慣れれば問題無いはずだ。
「それは…すみません。慣れます」
「そうか」
「何おはなちちてゆの?」
「!!!」
再びひっくり返りそうになった私の背中をブラックジャックが押さえた。
「ピノコ、出来るだけ視界に入る場所から話しかけてやれ」
「そうなの?わかったのよさ。…はい、先生。コーヒー!…花子たんにも!」
「ありがとうピノコちゃん」
ニコニコしているピノコちゃんからコーヒーを受け取って礼を言う。そして手を貸してくれたブラックジャックにももう一度礼を言った。
「慣れるまで何年かかるのやら。…それから、今度からは一声かけて医学書を持ち出すこと」
いたずらっぽく、そして厳しくそう言われてしまって、私は「…はい」と返事した後は口をつぐんでコーヒーを一口飲むだけにとどめた。
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