ピノコの甲斐甲斐しい看病のおかげで、あの女は翌日の昼にはすっかりと元気を取り戻していた。
「すっかり良くなったようだな。……ほら、飲みなさい」
この毒見はすっかりわれわれの定例となった。自分で一口飲んだ水を彼女に差し出すと、ゆっくり口が開かれる。このやり取りももう慣れた。ごくん、と彼女が喉を鳴らしたのを見て、私は吸い飲みを下げてサイドボードに戻した。
「……あの」
ふいに掠れた声が聞こえてきて驚いた。「今…きみが喋ったのか…!?」振り返り問うと、ビクッと肩を揺らした彼女が頷いた。「そうか、きみは日本人だったんだな」
「何から何までお世話になって…ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。先生…?はお医者様ですよね。……苦しい時辛い時、先生のおかげで私は助かりました」
久々に口を動かしたので少々疲れたのだろう。少しずつ、ゆっくり休みながら、彼女は喋り続けた。
「それからあの女の子…ピノコちゃんと言うんですか…?初日に私は気分が優れなくて、とても美味しいお粥だったのに、一口も食べてあげられませんでした。それがすごく申し訳なくて…。本人に直接お礼と謝罪をしたいです。……それからあの…お二人とも私に何かを与えてくださる時、必ずご自分で一度口に入れていたのが…気がかりで…。私は風邪を引いていましたし」
なんと、彼女は別に毒を気にしていたわけではなかったのか。これには正直驚いた。ただ単に戸惑って最初の一口が口に出来なかっただけだったということか。
「なんだ…私はてっきり毒見をしないと口に入れられない育ちなのかと思っていたよ…」
「えっ!?そ、そんなことは!ごごごごめんなさい!」
慌て過ぎて唾液が器官にでも入ったのか、彼女はげほごほと激しく堰をした。
「大丈夫か」
背中をさすってやると、彼女はだんだん落ち着いてきた。「だいへん…じずれい、じまじだ…!」それでも弁解の言葉を述べようとする彼女の口に吸い飲みを突っ込んで塞いだ。「んぐぅ!?」驚いた彼女だが、「まあ…飲みなさい」と声をかければ大人しく水を飲んだ。声が掠れていたし、そろそろ飲み物が必要な頃だろうと思ったのだった。
「そう言えば、きみ、まだ名前を聞いていなかったな」
「…あっそうだ、そうでした。…申し遅れました。私、花子といいます。…私の恩人である先生のお名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
「…ブラックジャックだ。しかし、きみ、最初の日の事を覚えていないのか?あの雨の日だよ。そもそも君がここに居るのは私の所為なんだが…」
少しだけ後ろめたくて語尾を濁すが、彼女はやはり覚えていないようであった。しばらく考える素振りをして、眉尻を下げた。「気が付いた時、私はすでにこのベッドの上でした」私は溜息を噛み殺して、あの時の一部始終を説明した。
「…失礼ですが、それは第三者から見れば完全に私の方が悪いですよね…。そんな雨の日に崖の前で突っ立ってぼんやりしているだなんて、明らかにおかしい人です。先生が親切心で声をかけてくださったんですよね?…それなのに驚いて自分から崖下に飛び込もうとするなんて失礼極まりないです…。うっ…自分の事ながら頭が痛いです……」
頭を押さえながら病衣の胸元を握る彼女は、思いの外感情が豊かだ。今まで怯えた様子か具合が悪そうな所しか見ていなかったのでなんだか新鮮である。そして自分の意見をしっかりと言える芯のある女性であり、はっきりと物が言える性格なのだと思った。
「重ね重ね非礼をお詫びします…。治療費は必ずお支払いします。差し出がましいのですが、今私は持ち合わせがありません…少しの間、待っていただけないでしょうか」
「…いや、きみの治療は私の責任でもある。いくら金にがめつい私でも、こういう時までは取らないさ…。それで、きみは何故あそこに?」
この話はこれでおしまいだとばかりに話を変える。私がそう問うと、彼女は目線を泳がせて、そして下を向いた。
「ちょっとですね…あの……ええと、路頭に迷ってしまっていまして」
ためらいがちに言われた言葉は、あまりにも重たかった。
「ほう…?」
「なんて説明したらいいんだろう…ちょっと、家を追い出されまして」
「えエ〜!!」
「!!」
突然飛び込んできた声に、彼女は大きく肩を跳ねさせた。ピノコが話を聞いていたらしく、「アッチョンブリケ!」と叫びながら部屋に飛び込んでくる。
「かわいちょうなのよさ!先生〜!」
そして私のシャツを掴んで抗議する。「……だめだ」ピノコが言いたい事は手に取るようにわかった。家に置いてやれというのだろう。しかし、彼女はペットではないし、無責任にも簡単に置いてやる事なんて出来るわけがなかった。
「なんれなのよ〜!先生のわかやゆや!おいてあえたっていいやない!!」
だだをこね始めたピノコに、彼女は意外なほど冷静に声をかけた。「ピノコちゃん」毅然とした態度だった。
「先生の事を悪く言わないであげてね。先生は何も悪い事は言っていないの。私はきっと何も役に立たないし、先生には私をここに置く義理も理由も必要もメリットも無いのよ。…ピノコちゃんがそこまで必死に私を庇ってくれるのはもちろん嬉しいのだけど、そんな事をしていたら、いつかここは孤児院になってしまうわ。…ね?わかるでしょう?」
「ぐすん…でも、おねえたん…」
涙を拭ったピノコは癇癪を起こすのをやめて、彼女の方を向く。少し黙った後に、ピノコはひしっと彼女にしがみついて静かに泣いた。
………ほう、これは。
「いや…ピノコ、考えが変わったぞ」
「…先生?」
もしかしたらこの女はピノコにとって丁度いい家庭教師になるかもしれない。ピノコはまだこの世に出てきて間も無い、赤んぼうなのだ。ピノコが若い女にこんなに懐く事も無いし、医療関係以外でピノコにいろんなことを教えてもらえるのなら私の仕事が減って助かる。それに、そろそろまともな食事を食べたい。
「きみが良かったらなんだが…しばらくうちで働いてみないか?もちろん住み込みで。ピノコにいろんな事を教えてあげてくれないか」
彼女は…、花子は、しばらく私の言った言葉の意味を考えるように難しい顔をして、それから眉尻を下げて笑った。「先生が望むのなら」ピノコはきゃあ〜!と嬉しそうに花子の胸に顔を埋めた。私はよろしい、とそれだけしか言わなかったが、彼女の安心しきった顔を見て肩の力を抜いたのだった。
こうして彼女との奇妙な同居生活が始まることになる。
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