強い雨の振った日の晩の事だった。
その日、あの女は傘も差さずに崖の淵に突っ立ってぼーっとしていた。
丁度帰宅したばかりの私が「何をやっている?」と言って近付かなければ、彼女は明日もまた同じように立ち尽くしていたのかもと思わせるような雰囲気であった。
果たして、彼女は私の応答には答えなかった。耳が聞こえないのか?と思ったが、どうやらそうではないらしい。隣に立って、顔を覗き込んでみた。酷い喪失感を感じさせる表情、焦点の合っていない瞳、口は僅かに開かれていて、まばたきの回数は異常に少ない。ただ単に放心しているだけのようだった。
…なぜこんな深夜にこんな場所に。…一体いつからここに居るんだ。
まさか自殺でも考えているのかと逡巡して、もう一度声をかけることにした。人様の家の近くで自殺なんて勘弁して欲しい。この女は自分の真裏にある民家に気が付かないのだろうか。

「…おい!!」

今度は肩に手を置いて、耳元で少々声を荒げた。

「!!??」

女は大げさに体を揺らすと、振り返る拍子に足をもつらせて崖の方へ傾いて行った。

「!?」

見開かれた目と、ちゃんと目が合ったことに頭の隅で安心したが、私は咄嗟に手を伸ばして彼女の腕を掴み、何とか落下を免れた。勢い良く引っ張って空いている手で肩を掴み引き寄せる勢いを加速させる。
腕の中に納まった彼女はがくんと膝を折って私に全体重を預けた。…どうやら気を失ったようだ。
やれやれ…。そんな思いで私は自宅の扉を空け、優秀な助手に声をかけたのだった。



……。どうしよう。私何にも覚えてない…。
私は、ぱちりと目を開けてから最初にそう思った。ここはどこだろう。見知らぬ天井と見知らぬ部屋を見渡すと、怒涛のように不安が押し寄せてきた。
も、もしかしたら夢を見ているのかもしれない…?だとしたらこれは悪夢だ。帰りたい、帰りたい、帰りたい。必死に念じながらもう一度目を閉じる。…と、コンコン、とドアをノックする音が聞こえてきて、私は思わずベッドから転げ落ちた。ドスン、と鈍い音がして鈍痛が走った。体中を強かに打ちつけて痛みに打ち震えている私に、足音が駆け寄ってきた。

「大丈夫か!?」

声の主は私の背中に手を回した。「!」びくっと体が跳ねて、その瞬間変に緊張した筋肉が痛みを助長させる。さらに震えた私を気遣うように、その人は優しく私の体を抱き上げてベッドに戻した。掛け布団までしっかりとかけてもらってから、私は初めて声の正体を確かめた。
白と黒に分かれた変わった髪、きれいだが鋭い目、顔はつぎはぎになっていて一箇所肌の色が違う。
良く見ると結構傷だらけだこの人…。もしかしてそのスジの人なんだろうか…。
というかこの人は一体だれなの……。
男は私の目を見て少しばかり頷くと、「調子はどうかね」と言ってベッドの横の椅子に腰掛けた。

「……!………」

私は何か言おうかと思ったけれど、喉の奥が掠れて、それがあまりにも痛くて声が出せなかった。少し考えて、頷く。

「まずはこれを飲むといい。喉が渇いてるだろ?」

私の様子を見た男は、サイドボードに置いてあった吸い飲みを私に寄越してくる。口元まで持ってこられたが、私は口を開くのを躊躇った。すると男は半ば無理矢理口をこじ開けて、手に持ったそれを突っ込んできた。そしてそのまま容赦無しに水を流し入れてくる。「!!?」驚いた私は軽いパニックに陥った。えっ、息が出来ない!!!
当然といえば当然なのだが、私は噎せた。思いっきり。
げほごほ、と咳き込んでから遠慮がちに男を見上げると、私が飛ばしてしまったであろう水を頬から顎にまで滴らせた男が、無表情で私をじっと見つめていた。
…そりゃ怒るよね…。罪悪感をひしひしと感じて、私は眉尻を下げて肩をすぼめ、ぎゅっと手を握った。



ふむ。と頬についた水を拭いながら思案する。
喉が渇いているはずなのに、この女は飲み物を拒絶した。まさかとは思うが毒を気にしているというのか?
そうだとしたらこの女、日本の育ちでは無いだろう…。それならば喋らないのにも納得がいく。喋らないのではなく、日本語が話せないから喋れないのかもしれない。とりあえず手当たり次第外国語で話しかけてみるか…?……いや、それよりもまず彼女の回復の方が先だ。水ごときで躓いていては、食べ物はもっと困るだろう。
私は何も言わないまま彼女の顎を掴んでこちらを見させると、目を合わせたまま吸い飲みの水を自ら一口飲み込む。ごくりと喉仏が動く所まで見ると、彼女はポカンと呆けた顔をした。
今がチャンスだ。わずかに開いた口に吸い飲みの飲み口を突っ込むと、少しずつ水を流し込んでやる。飲みきれていない水が口の端しから零れてしまっているが、今度はちゃんと飲めている。
やっぱり…。毒見が功を奏したのだろう。
全く…私はとんでもない女を連れてきてしまったようだ…。

「着替えは助手に任せる。…女だ。きみは眠っていても構わない。もう少し休むといい…」

零れた水で濡れてしまった肌を軽く拭いてやり、頭を撫でてやろうと手を伸ばすと、彼女はぎゅっと目を瞑って身構えた。一瞬躊躇ったが、そのまま触れるか触れないかの程度で前髪を撫でるように手を動かすと、女はまた呆けたような顔をしたのだった。


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