「そろそろちょっとしたリハビリでも始めてみようか」

4週間程経った頃、クロオさんは私にそう言って輪に結んだ長めの紐を手渡した。

「これは・・・?」

「あやとりという指遊びに使うものだよ」あやとり。これはまた懐かしいものが出てきたなあ。「ここにやりかたの本もある。暇つぶしにもなるだろうから、やってみるといい。これくらいのものなら腕の骨がまだくっつききっていなくても少ない負担で済むだろう。指を動かして腕の筋肉も少しずつ解していこうな」確かに暫くずっと動かしていないのだ。筋力も落ちているだろう。「ありがとうございます、クロオさん!」クロオさんはふっと微笑むと私の上体を起こすのを手伝ってくれて、そこから私は暫くはあやとりに夢中になった。しかしまあ夢中になると言っても、久々に動くと結構疲れがすぐに出るもので、そのまま眠ってしまう日も多々あったのだが。



「ああ、いいな。骨にはもう心配はなさそうだよ」

ギプスをとって様子を見ていたクロオさんが私に笑顔を向けた。予定よりも早く治癒していて、順調である事に安堵したようだった。

「ありがとうございます。では今日から少し歩いてみますね」

クロオさんの手を借りてベッドから降りると、力が入らなくてかくんと膝から崩れ落ちそうになってしまった。すんでのところでクロオさんに支えられて事なきを得る。

「び、びっくりした・・・しばらく歩いていないとこんなになっちゃうんですね」

「そうだな。何かに捕まって歩いたりしないときついぞ。早めに手や腕のリハビリをしておいて良かったな」

私はクロオさんにしがみついて体制を立て直すと、ベッドの淵を掴んで彼から離れた。手伝う気満々だったらしい彼は少し驚いた顔を見せるが、すぐにいつもの顔に戻る。

「ドアは開けておくから、何かあったら呼ぶんだぞ」

「わかりました」

世話を焼いてくれようとする気持ちが嬉しくてふふふと笑う。クロオさんはくれぐれも気をつけること、何かあったら呼ぶことと念を押して部屋を出て行った。私はよし、とやる気をみなぎらせて、ベッドの周りをうろうろしたり、ベッドから壁際に移動してまた戻ってきたりと、久しぶりの歩行を楽しんだ。
しばらくして「何の音沙汰も無いが大丈夫なのか?」と部屋にやってきたクロオさんに、私は「保護が過ぎますよ」と声を上げて笑った。



骨が折れていたのがくっついた、ただそれだけの事だったので、私の回復はクロオさんが思っているよりも大分早かった。一応松葉杖を持たされてはいるがあまり頼る事は無い。ここに来てから初めて外に出て、私は感嘆の声を上げた。わあ、この世でも現世みたいな景色が広がっていたんだ。地面がある!空には雲もある!地面には草が生い茂っていて、花も咲いていた。私は適当なところまで歩いていくと、そこに腰を下ろして花をいくつか摘み取った。それで小さな花束を作っていると、耳がザザーンという音を拾った。まさかと思いその音の方へ歩いて行ってみると、なんと海があった!「海だ・・・」雄大なその青はどこまでも広く深く、その先には地平線が見える。空と海が混ざったような、曖昧な色をしていた。少し物悲しくなってしまって、私は手に持った小さな花束を見つめた。さっきまでは夢中で花を摘んでいたのに、急にこれが手向けの花のように見えてしまった。そうだ私は死んだんだ。今までの生活があまりにも幸せだったから忘れるところだった。
一度悲しみの蓋が外れると、なかなかそれは元には戻らない。
こんな幸せな生活を、こんな素晴らしい恋を、なぜ生きているうちに出来なかったんだろう。一度は振られた恋だけど、今もこうして密やかに想っているだけでこんなにも幸せな気持ちになれる。そんな恋を今までにしたことがあっただろうか!?
目頭が熱くなったのを感じて、私はそっと袖を押し当てた。報われなかった私の人生に、この小さな花束を手向けようじゃないか。どうせ私に哀れみの献花なんて手向けてくれる人なんていうのはいやしないのだし。すん、と鼻をすすって、私は海に向かって花束を投げる。花束はふわりと海の上に落ちて、ゆらゆらと揺れていた。どこかから工場のチャイムみたいな音が聞こえてきて、まるでそれがお別れの歌のように感じてしまって、私はその場に座り込んだ。

「どうした!」

「!」

私の帰りが遅くて心配になったのか、クロオさんが駆け寄ってきて私に声をかけた。泣いている顔を見られたくなくて、私は顔を隠す。
お別れの歌!?そんなバカな!!蘇れもう一度!!なんで私は自分のこと可哀想な人に仕立て上げているんだ!!可哀想なんかじゃない!自分を惨めにするな!
私の肩に手を置いて自分の方に抱き寄せてくれたクロオさんに寄り添って、私は囁いた。

「死にたくなかった。あなたのような人に出会って恋をして挫折してそれでも諦め切れなくて、必死になって人生を生きたかった。哀れみの献花もお別れの歌も、まだそんなものは欲しくなかった」

だから今私が抱いているこの恋心だけは、絶対に死なせはしない。

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