「じゃあはじめるぞ。嫌なら言ってくれ」

ぬるま湯の入った桶とタオルを持って戻ってきた男に、私はなるほど、と思った。そうか、体を拭くって、この私の今の体を拭くってことか。そうだよね実体があるなら現世と同じようにお風呂入ったりしたいもんね。でも出来ないから体を拭いてくれるってことか。納得。男はまず私の顔を優しく拭くと、掛け布団をどけた。包帯が巻いてあるところはよけて、ちょっと強めにごしごしと腕を拭いてくれた。すごい気持ち良い。不躾にもじろじろ見ていては作業がし辛いだろうと目を瞑っていたのだが、「脱がせるぞ」の言葉で目を開けた。「え?」男が私の病衣の留め紐を解いているのが目に入る。「嫌か?」袷の部分に手をやった男が目を伏せてそう言うが、「いえ・・・」嫌というより少し驚いただけだ。嫌だなんて思うのは少し失礼だろう。なんせ最初にいるかいらないかと聞かれているのだから。頼んだ以上は後には引けない。
男は私に向き合って背中に両手をまわして上体を起こさせると、そのままの体勢で病衣を脱がせた。前が見えないことに少しだけ安堵した。包帯を巻いた腕のところはそっと通過させて、完全に取り払われる。首の裏から肩、背中全体、腰と順番にごしごしと拭われると、新しい病衣を私に着せた。そしてそのまま横たえられる。次は前なんだろうなとぎゅっと目を瞑ると、私の覚悟を察してかすぐにタオルが当てられた。同じようにごしごしと拭かれるが、少しやりづらそうだった。すぐ動いてしまうし掴むに掴めない胸が邪魔なようだった。胸が揺れるたびにドキドキしてしまった。時折胸の先端に引っかかっていくタオルにもどかしさを感じて、きゅっと脚を閉じた。背中よりも多少時間をかけて拭かれると、留め紐を結んで「上は終わりだ」と男は言った。次は下ってことか。足にギプスをしているからか、下半身の病衣は横に紐が付いていてそれで結ばれているだけのヒモパン方式だった。するりと解かれると、男は少し体の距離を詰めて腰を持ち上げると、お尻の方から拭き始めた。見ないようにする配慮が凄まじい。私は目を逸らせて身を任せた。



「そうだ、先生、あなたのお名前を窺っても?」

数日間一緒に過ごしたのにもかかわらず、私はまだ彼の名前を知らないことを思い出してそう聞いた。私のベッドの近くの机でなにやら書き物をしていた先生はわけがわからないという顔をしてこちらを向いた。ああそうか、私も名乗っていなかったのだった。「私は花子といいます」今更ですが。と続けると、先生は「知っているよ」と呟くように言った。「失礼だが、身分証明書を見せてもらった・・・」そうか、天使だからもう私の情報は入って来ているということだ。素直に納得した私は「そうですか」と頷いた。先生は少し悩んだように口ごもると、「・・・・・・間だ」と言った。

「はざま?」

「私の名前だ。間黒男という」

「ハザマクロオさん」

「・・・まあ、フランクにクロオと呼んでくれ」

「クロオさん」

「そうだ」

そうか。クロオさんというのか。私は彼の新しい一面を見つけて嬉しく思った。うふふ、と笑う私をおかしそうに見つめたクロオさんは、目の前の紙に視線を戻して、作業に戻ってしまったが、私は暫くニコニコとしていた。

「きみはおかしな人だな」

こちらに見向きもしないでクロオさんがそう呟いたので、私は少し考えてから「そうかも」と言ったが、その続きに口をついて出てきてしまった言葉はとうてい言うつもりの無かった言葉だった。

「だってこんなにもクロオさんのこと好きになってしまったんだから」

ころん、と万年筆が机に転がって、そのままの転がっていって床に落ちた。しまった。今自分が言った言葉を思い出して、私は酷く後悔をした。

「いや、あの、えっと」

「だめだ!」急に怒りを滲ませた声でそう叱咤されて、私は口を噤んだ。「・・・君は一時の感情に振り回されているだけだ。忘れなさい。・・・いいな」自分が出した大声に少し驚いた様子のクロオさんは、そう続けるとなんとも言えない微妙な顔をした。その顔を見ていられなくて、私は顔を逸らした。泣きたくなる気持ちを堪えて「・・・すみません」と素直に謝ると、クロオさんは机の上の書類を持って部屋を出て行ってしまった。私は彼が出て行ったドアをしばらく見つめていたが、そこからなにも進展などしないだろうと諦めて窓の外を見た。茜色に輝く空がやけに目に刺さって、痛かった。



どれだけそうしていただろうか。静かにドアが開いて、机のあたりでごそごそしている音がする。クロオさんが落とした万年筆を探しに来たのだろう。音がやんだので、ああ見つかったんだなと私は視線を逸らして目を閉じた。気まずいから寝たふりをしておこう。しかし足音はこちらに近付いて来て私は慄いた。なんでこっち来るの・・・。しかしなんて事は無い、クロオさんは私の体勢を変えて、枕を抱かせた。どうやらこうしてたまに寝返りを打たせてくれているらしかった。布団をかけ直してくれたクロオさんは最後に私の前髪を優しく払いのけてくれた。彼の指の隙間から盗み見た表情はひどく優しいものだった。慈愛に満ちたあの顔だ。ドキドキする。
それからクロオさんはすぐに部屋を出て行ったしまったが、私は可能な範囲で目一杯枕を抱きしめた。惚れるなと言う割には酷い対応じゃないか。枕に頬を寄せると、ひんやりとしていて気持ちが良かった。


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