ああ最悪だ。誰にも気づかれないように一つだけ舌打ちをした。どうしてこんなにも悪い事は重なるんだろうか。今日は朝の占いで運勢が良いから散歩にでも行ってきなと笑っていた息子を思い出す。息子としては、体調が優れなく引きこもりがちになった養父を気遣ったのだろうから彼に罪はない。
突然の豪雨は僕だけでなく、多くの人間を混乱させている。近くの建物に避難してはいるものの、バケツをひっくり返したようなこの雨がいつ止むのかは分からない。折り畳みの傘は持っていない。同じように途方に暮れている人たちもいるが、こういった突発的な豪雨は数十分もすれば雨雲は移動する。すぐに止むだろうとそれぞれが適当に時間を潰し始めている。

そんな暇を持て余し、途方に暮れている人たちの中で僕はやたらと目立つ。じろじろと見る者はいなくても、気にはなるのかちらちらと此方を見てくる人も多い。
それは確実に僕の恰好が原因なのだろう。頭からつま先までびしょ濡れの女性が男性物の浴衣を着ているのは、確かに好奇の対象になるだろう。そこはかとない居心地の悪さを体感しながら、今の自分が着るには二回りくらい大きな着流しをずり落ちてしまわないように合わせ、帯を締め直した。
たっぷりと水分を含んでしまった着流しが重たい。それ以上に僕の気持ちが重い。こうしてサイズがどう考えても合わない男性物の着流しを着ている奇妙な女性である僕は、周囲からは無言の好奇の目に晒されているし、さっきから続く倦怠感も、また。そして忌まわしいこの現状をを認めるのが嫌で、溜息を一つだけ吐いて、家路へと走る事に決めた。



ぱしゃぱしゃと盛大な音を立てて走る。家にさえつけばいい。とにかく今は早く帰ってシャワーを浴びたい。走る足は止まらないが、貧血だろうか、寒さだろうか頭がはっきりしなくなってきた。ここで倒れる訳にはいかない。下手に救急車などを呼ばれたりしても困る。ぐるぐるとまわる思考が纏まらない。ああ、回る、足の感覚が、薄い。

ああ、たおれ、 る。




 「大丈夫ですか」

 「っ………… あ、ありがとう……ございます」



感覚を失い、ぐらり、と倒れた身体を支えたのは、大きな手だった。そしてそれは嘗て殺し合いをした、今までもこれからも一番会いたくなかった相手で会う事のないと思っていた人間だった。
嘘だろう、ああ、今日は外出する日じゃなかったんだ。朝の占いが絶好調だろうとあんなものは良く考えたらちっとも合理的じゃないしそもそもチャンネルによって変わる占いの結果に踊らされている時点で大概だと言うのに。それでも別に息子は、あの子は悪くない。悪いのは、いや、そんなものは最初からなかった。

その大男は歪んでいても、腐っていても神父で在る事には変わりないのだろう。薄い笑顔と共に気遣う様はまるで本当に人格者の様で、抱き寄せる手は此方を気遣っている。大丈夫だ、向こうは気づいて居ないはず。早々に逃げてしまおうとしたのだが、彼は此方を凝視している。まさか、気付いたのか。



 「…………」

 「……………何か……?」

 「いえ、知っている者に似ていたもので。失礼、不躾に見てしまった」

 「……別に、気にしていないので、大丈夫です」



言葉を紡ぐと言うのは、ここまで息が詰まる物だっただろうか。ああ、重たい。何もかもが重い。歩くことも怠いけど、この際文句は言えない。一刻も早くこの男から離れたい、この男は、二度と会いたくはない男だから。
ぐらぐらする、それは思考なのか、それとも身体なのか分からない。分からないけど身体はとっくに限界を迎えていたのか、その儘彼の手の中で眠るように意識を手放した。










次に目が覚めた時、見知らぬ空気に包まれていた。いや、見知らぬわけではない。逆にこの空気を僕は知っていた。



 「…………う、ん……」



ここはどこだ、と思考を巡らせる前にドアが開いた。この場所の主であるその神父はタオルを持って此方へとやってくる。ああ、存外面倒な事になってしまった。つまりここは彼の家か。どうやってここから逃げ出そうか、そんな算段を立てながらタオルを受け取る。衣服の裾を絞ればたっぷり吸いこんだ雨水が零れ落ちそうだが、さすがに他人の家でそんな事をするわけにもいかずにタオルで濡れた身体を拭いていく。



 「急に意識を失われてしまったので、救急車を呼んだ方が良いかと思ったのですが」

 「…………………そう、ですか」



正直、呼んでくれなくて本当に良かった。こればかりは大嫌いな彼に感謝をしなくてはいけない。病院に担ぎこまれたらそれこそ一大事だし後処理が色々とめんどくさい。魔術回路も無いに等しい今の僕は、衰弱しただけのただの一般人だ。それを世間一般では病人とも言うが。
それとは別に『今の自分』が担ぎこまれるのはアウトだからだ。今の僕は僕であって僕ではない。この状態で病院なんかに担ぎこまれてそれこそ家族である息子や懇意にしてくれている人にまで知られたら、それこそ言い訳のしようがない。何にせよ、彼で助かった、とは言い切れないが、まだマシではあった。



 「身体が冷えてしまっている、湯を用意するので、温まっていくといい」

 「っ、そ、それは………」

 「下賤な意味に捉えてしまいましたか? 申し訳ない。ただあまり女性が身体を冷やすのは良くないと」

 「………………っ」



そのままの格好では益々冷える、と神父は如何にもな風に言う。普通ならばなんと出来た聖職者だろうか、行き倒れた見ず知らずの人間を介抱するだなんてと思う。だが此奴の場合は言葉の節々に見える確信のようなものがある。ふざけるな、と喚きたくなる。どうせ気づいているのだろう、苛立ちが倦怠感を加速させる。



 「それとも、何か隠したい事でもおありですか?」

 「―――――――っ!」



やっぱり。この男は、気づいている。いつバレたのか、いや最初から分かっていたのか、どっちであるかはわからないが、それならば今更繕う事もないだろう。出来うる事ならば早くシャワーなり何なり、とにかく湯を浴びたかった。



 「…………湯を借りる」

 「最初からそうしておけばいい物を」



強情だな、衛宮切嗣は。そう呟いた言葉は聞こえないふりをして、態と大きな音を立ててドアを閉めた。
やっぱりこの男は、言峰綺礼は嫌いだ。