「最低な嘘を嗤ってよ」の続き
本当は、気づいていた。俺が、「好きだ」と言う度にその瞳で瞬いていた輝きが光を失うことに。
あいつの瞳は、まるで夜空みたいだった。
何ものにも染まらない漆黒の闇を吸い込んだ瞳に、空に浮かぶ星たちのような瞳の煌き。
その瞳は本当に美しかった。
だが、俺のせいでその輝きは失われたんだ。俺が、あいつの瞳から輝きを奪ったんだ。
「一樹、別れよう」
そう言った名前は、上手く笑えていなかった。
俺には、分かる。ずっと傍であいつの笑顔を見守ってきたから。だから、下手くそな笑みを浮かべる名前を見てそれが作り笑いであることにすぐ気がついた。
いや、見守ってきたなんて綺麗事だな。
俺は見守っていたんじゃない。大切にしてきたんじゃない。
ずっと、傷つけてきたんだ。
俺の身勝手な感情で。名前のことを。
俺が何かしたか、なんて聞かなくても分かっているくせに。それでも、俺はみっともなく縋ってしまった。
それでも、気持ちがなくなったと言うあいつを見て、仕方がないと思ってしまった。俺みたいな男を、名前が好きでいてくれたこと事態が本来ならありえないことだったのだから。
俺の視線の先には、いつも決まって月子がいた。
過去に犯してしまった罪を償いたいという思いからなのか、それとも、あの日々のようにまた笑い合いたいという思いからなのか。
月子の笑顔を見ているだけで、胸の中が温かいもので満たされた。しかし、それと同時に氷の塊のように冷たいものが胸を押しつぶした。
胸が押しつぶされそうなその重みから、俺は逃げ出したかった。
逃げ出しちゃいけないそれから、逃げたんだ…。
名前から、「好き」と言われたときに、俺は月子よりももっと大切な女ができれば月子のことを忘れられるんじゃないかと思ってしまった。
ほんと、馬鹿だよなぁ…。
「さよなら、一樹」
「…待ってくれ」
「……ごめんね」
そう言って部屋から出て行った名前を、俺は追いかけることができなかった。いや、俺には追いかける資格なんてないんだ。
名前の背中に向かって伸ばした手。
それは、宙を掴んだだけで何も取り戻せなかった。
これで、いいんだ。
これでよかったんだ。
俺と名前はこのまま一緒にいても、幸せになれない。俺がこうして、名前ではなく月子のことを思っている限り。
だが、胸にぽっかりと空いたこの穴は…。
ぽっかり空いた穴からは、ずっと前に忘れていたはずの寂しさがこみ上げてきた。
両親を亡くしたときの寂しさや、月子の記憶から俺の記憶を消したときの寂しさ。恩師を失ったときの寂しさ。そういった寂しさが、一気にこみ上げてきた。
ああ、どうして、どうして今まで忘れていたんだろうか。
幼かった頃は、どうやったって忘れることができなかったのに。
その寂しさを思い出してしまった瞬間、瞳から何かが零れた。
それは次から次へと溢れ出し、頬を、顎を、首筋を、服を濡らしていく。
「っ、名前…!」
気がつけば、俺は泣きながら走り出していた。星明かりだけが道標となる闇の中を。ただただ、名前のことだけを想って。
俺には、あいつのことを追いかける資格なんてないのかもしれない。俺があいつを追いかけることでまた傷つけてしまうかもしれない。それでも、それでも…。
それでも、名前が隣にいないなんて想像できないんだ。
それを想像してしまえば、俺は寂しさで壊れちまう。
走って、走って、息ができなくなろうと、肺が押しつぶされそうになろうと。喉に血の味がこみ上げてきようと。
俺は、止まらない。
「っ、はぁ、はっ…名前!!」
叫んだ。ありったけの声に想いをのせて。
俺の声に振り返った名前の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。そして、俺の顔も。
「ど、して…?」
「っ…俺は、俺、は…」
何を言えばいいのか、何を伝えればいいのか。それすら、分からなかった。それでも、俺の手は名前へと伸びる。
そして名前の細い華奢な肩を掴んで引き寄せた。
「…名前、」
「……っ」
お前がいないと、寂しいんだ。お前が隣にいないことを想像するのが、どれだけ恐ろしいのか。
なぁ、俺は名前のことが好きだ。
好きなんだ。
今だって、俺の想いは月子に向いているのかもしれない。だけど、俺の想い全てが月子に向いているんじゃないんだ。
俺の強さからくる想い。それは、守りたいとか、助けたいとか、人の役に立ちたいという想い。そして、それは月子や生徒会のメンバー、星月学園のみんなに向けられる。
それとは正反対に、俺の弱さからくる想い。それは、寂しいとか、人から必要とされたいとか、一人になりたくないという想い。そして、それは…。
弱さから生まれるその想いは、全部名前に向けられているんだ。
「さみ、し、っ…い、んだ」
「え…」
「っ…俺の、俺の弱さを包んでくれているのは…お前だったのに…どうして、こうなるまで気づかなかったんだろうな…」
俺は馬鹿な男だ。名前を失いかけて、初めてそれに気づくなんて。こうなってしまうまで、気づけなかったなんて。
「…だめだよ、一樹」
「っ、」
「私じゃ、だめでしょ?」
泣きながら微笑む名前は、瞳だけでなくその全てが美しかった。
涙で濡れた睫毛や、頬。それでも孤を描く唇。それはまるで、雨が降る夜空に架かる虹のようだった。
雨が降る、しかも夜空に虹なんて架かるわけがない。そんなありえない光景を連想させるほど、名前のその姿は幻想的で美しかったんだ。だが、それと同時に怖くなった。
美しく、そして幻想的なその光景が儚く消えてしまうんじゃないかと。
だから、繋ぎ止めておきたかった。俺の傍に。
「名前が駄目なんじゃない。名前じゃなきゃ、駄目なんだ」
「私じゃ、一樹の寂しさを埋めることはできない」
「どうしてお前はそう、一人で決めてしまうんだ?」
「…一樹に、幸せになってほしいの」
俺の、幸せ。俺の幸せとは一体何なのか。今の俺は、幸せじゃないのか?
いいや、そんなことはありえない。
今の俺が幸せじゃないなんて、ありえないんだ。
「俺は今、幸せだよ」
「え…?」
俺を必要としてくれる人がいるんだ。この、学園に。俺が独りじゃないってことを教えてくれる人がいるんだ。今、目の前に。
「名前がいてくれるから、幸せなんだ」
「でもっ!」
「でも、じゃない。俺にとっての幸せは俺が決める。そして、俺の幸せは名前だ」
なぁ、名前。俺の弱さを、お前が全部受け入れてくれないか?その代わり、お前の弱さは俺が全部受け入れる。
強さだけじゃなく、弱さも、全てを分け合いたい。
「…好きだ、名前。お前のことが、好きなんだ」
初めて、心の底から名前に「好き」だという思いを告げた気がする。今まで俺は、何を思って「好き」だと名前に告げてきたのだろう。
ただ息を吐くように、その言葉を吐いていたのか。そしてそれは、悲鳴のようなものに近かったのかもしれない。それが、今までこいつを傷つけてきたのか。
だが、今の俺にはもう息を吐くように「好き」だと伝えることはできない。どうしても、感情がこもってしまうんだ。名前のことを、愛しいと、守りたいと、俺を愛してほしいと、俺を独りにしないでほしい。そんな、様々な思いが複雑に絡み合って、名前に「好き」だと伝えるんだ。
「ずっと、思ってた。一樹の気持ちがこもった好きを言われたら、きっととても幸せなんだろうなって」
「名前…」
「本当に、そうだった。私、今とても幸せだから…」
額を擦り合わせ、泣きながら微笑む俺たちの姿は月からはどう見えるのか。
だけどもう、月光から逃れていた俺たちは…いない。
これから先、優しい月明かりの下で愛を伝え合うから。
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14/05/24