慟哭

 裏切り者のスコッチが死んだ。
 ピリピリと殺気立つ構成員がいれば、幹部の空いた穴を狙ってネームドになろうと企む者もいた。酒の名前もなく、通り名さえ与えられない末端構成員には、順を踏むということさえ知らずに夢を見る者ばかりだ。末端構成員らしい愚昧ばかりだった。
 その中でただ一人女は絶望する。組織に入って数年、偶然の巡り会わせだけで構成員の中に名を連ねていただけの、先のわからない女だ。それがささやかな射撃の腕を見込まれ、筋はいいと言った気のいい幹部に指導を受けていた。みるみるうちに腕を上げ、ネームドの任務にも随伴するようになり始めた女は、幹部の訃報に信じられないほど心を乱されていた。
 女を見込んで育てたスコッチを裏切り者だと知らしめたのは女だった。



 何故こんなことになったのだろう。どうしてあの人が死ななければなかったのだろう。逃げるように飛び込んだ自室でそんなことばかりを考える。女は頭を抱えていた。涙すら流せず、ひたすら混乱し疑問に苛まれていた。スコッチを売る気は毛頭なかったのだ、優秀ならばそもそも他者に教えを乞うことにもなっていない。
 そもそもの始まりは何だっただろうか。

 女はとある人物の追跡を言い渡されて相方とツーマンセルで行動していた。ところが相方が下手を踏み、追跡中に身を隠す目的で侵入した建物にたちの悪いマフィアがいた。事前の調査不足は小悪党が人知れず闇に葬られる一因だ。組織の名を出して威嚇することもままならないまま相方は殺され、相方が持っていた携帯に連絡をしてしまったがため女まで追われる羽目になった。
 追っ手から逃げるなか、女は極限状態にあった。振り切ることはできない、だが逃げなければならない。──どうやって? 手持ちの拳銃にはどれだけ残弾があるかわからない、だが可能な限り追っ手の数を減らさなければ。──だから、どうやって?
 出口のない迷路の中で女は混乱していた。殺されるかもしれないことへの恐怖は幹部の不興を買ったとき以外に感じたことがない。ただそれも、幹部から女に対しては身内への酌量があった。追っ手にはまずない。女はぐっと奥歯をかみ締める。
 物陰のない広い空間を通過し、道の角を曲がる。すぐ壁を背にして、耳を澄ました。追っ手が無用心に道へ飛び込んでくるのを待つ。どこに当たっても構わない、人体のどこを銃弾が貫いても致命傷だ。とにかく当てろ、当てろ。女は呼吸を整える。
 慌しい足音を聞いた瞬間、角から追っ手を狙った。全神経を研ぎ澄ませて女は見事全弾を追っ手の身体に当てることに成功する。だが幾人か残っていた。全員を足止めするのが難しいのはわかっていた、この状況でもう一度逃走を図るしかない。
 身を翻して走り出そうとしたとき遠くから何かが飛んできた。空を切る音が背後にいた追っ手の足、腿、ときには心臓を撃ち抜く。さほど遠くはない、視認も可能な距離に人影が見える。空きビルの二階から狙撃で女を救ったのはスコッチだった。
 ちょうど近場で任務にあたっていて、騒がしいので見に来たら組織の抹殺リストになっている悪党数人が一般人を襲っているように見えたから撃った。こともなげにそう言ってのけたスコッチに複雑な心境になったのはいうまでもない。自分も同じ組織の構成員だと、末端構成員の顔すらわからない幹部に主張することがいかにみじめなことか。聞いたときのスコッチの表情がまたむなしいものだった。「そんなんでやっていけるのか?」と隠しもせずに書いていたからだ。
 だが、スコッチは女を嘲笑することも見放すこともなく、むしろ「……そっか、じゃあ俺が鍛えてやるよ!」と言って人好きのする笑顔を浮かべた。

 そうだ、そうだった。思えば出会いから奇妙極まりないものだった。女は当時のことを思い出して力なく笑う。あのときスコッチは「まともに銃を扱ったこともないくせに弾をすべて当てる集中力と動体視力はスナイパー向きだ」などと一見真っ当な理由を挙げていたが、今思えば女と接点を作るために理由をでっち上げたのだとわかる。
 スコッチは人のいい構成員だった。どうして裏社会にいるのか謎になるほど快活で面倒見が良かった。仲間内でさえ腹の探りあいが日常的に行われている組織内で、それこそ幹部同士は殺伐とした空気を纏っているにもかかわらず、スコッチは気ままな猫のように彼らの懐へするりと入り込む。
 もちろん、幹部然とした空気も持っている。スコッチが獲物を捉えたときの表情は、女の背をなぞりあげるような空気を孕んでいた。スコッチの思惑に反した行動を取り、それを責められるときも同様に有無を言わせぬ威圧感を与えられる。それでも、スコッチは女にやさしかった。裏社会の人間ではありえないほどに心を砕かれていた。
 長年怯えて過ごしていた女がスコッチに想いを寄せるのは定められた運命のようなものだ。だからこそ、女はスコッチを好いていい理由を探していた。
 好きで組織に所属しているわけではない。一度組織に入ってしまえば逃げることは許されなかった、それすなわち死だ。組織の人間同士、恋い慕うことに問題はないだろう。仲間が聞けばそう口にしたかもしれない。だが、女にとってスコッチが「本当に悪かどうか」は重要な問題だった。
 苦心の末に、スコッチが日本の公安警察に所属する警察官であることを調べ上げた女は歓喜に震えた。闇に沈みきった人生に久方ぶりの希望の光が差し込んだ気がした。
 ただ、末端構成員が末端構成員に留まっている理由は実力不足だからという事実に変わりはなかった。女が組織の中で以前より幾分か過ごしやすくなったのはスコッチに射撃を教わったからだ。それ以外の能力はてんで使い物にならない。
 組織の人間が女の調べた内容を偶然発見し、幹部へ報告したのが昨日、スコッチが裏切り者だと組織内へ知れ渡るのに一時間もかからなかった。



「テメェを幹部に推薦してやってもいい、死んだスコッチの穴埋めにな」
 機嫌のいい様子でジンが口にする。裏切り者を炙り出した功労者として、幹部数人が集う場に女は呼び出されていた。
 ジンは幹部の中でも一線を画す立場にある。いつもの女であれば畏怖の対象を前に精神をすり減らしていたが、生憎とすり減らすものは全てなくなっていた。
「随分と機嫌がいいねえジン」
「小石が落ちてたところで困りはしないが、道にごろごろと転がってりゃ邪魔だ。スコッチの件で他にも怪しい奴は始末した……道が歩きやすいに越したことはねえ」
「まぁ違いないさね。それにしてもこの女を本当に推薦するのかい? 狙撃ができる奴が減らないってのは助かるけど」
「俺は今気分がいいからな」
「アニキがこう言うのは滅多にないぞ、受けたらどうだ」
 同じ幹部ですら竦み上がるような緊張感を走らせるジンが饒舌な様子は、ウォッカも言うとおり滅多になかった。とはいえども幹部はだれも女に伺いを立てているわけではない。皆、女の功績と裏切りの粛清を肴にしているだけなのだ。
 キャンティが片手に持ったグラスを傾ける。「それにしても、」と言ってグラスの中身を揺らした。
「あのスコッチがねえ……ちょいと意外だよ。あいつはほら裏表がないっていうか、隠し事なんてなさそうだったじゃないか。隠し事がないというか苦手って感じの……NOCの疑いが出たときアタイがまず考えたのはバーボンだったね」
「俺もバーボンは気に入らねえ……がアイツの疑いは晴れた、ボスは裏切り者のみを速やかに始末するのをお望みだ。スコッチは人の心につけ入る天才だったが、それも砕かれたってだけの話だろうよ」
「ははは、自分の人の良さで首を絞めたんだからとんだ笑い種だね!」
 組織は裏切り者に対してどこよりも敏感だ。粛清を終えたそのときはさしもの幹部でさえ気が大きくなっている。幹部の前でこれまで気の小ささを見せてきた女が萎縮せず立っているのを見て「女はいくらでも化けるからこわいものだ」と調子よく笑い飛ばす程度には、女の真意を読むことができていなかった。



「その構え方じゃターゲットに当てられないぜ。違う、こう。そうそう力はこっちに入れる。はい撃ってみて……うまいじゃん」
「俺たちは寒空の下待機することもあるからしっかり着込んでおけよ……って言った傍から薄着かよ! 女の子なんだから身体冷やしちゃだめだろ! カイロあげるから背中貼っとけ!」
「リストにあるものの調達頼むな。いやあ、みんなが直属の部下持ってると楽だって言ってる理由がわかってきたわ〜」
「バーボンに嫌味を言われた? うんうん……うーん……たぶんそれは労ってるつもりなんだろうけど……うん……仕方ないか……」
「はいはい射撃しかできない人は黙って俺の言うことを聞いてなさい」

「……まだまだだけど、君の集中力には目を瞠るよ。引き金を引くタイミングに狂いがない。それに救われることもあるだろうから、絶対に鈍らせるんじゃないぞ。あのときみたいにな」

 スコッチに言われた言葉が女の蝸牛を揺らした気がした。思えば、スコッチは最初から女を気にかけていた。上辺だけでなく心の内に入れるかのような言動は、ただの犯罪者に対する警察官の対応としては適切と呼べなかった。スコッチのそういうところに惹かれたのだと再認識して女の頬に涙が伝う。
「ねえスコッチ、ギターが弾けるって本当? バーボンに聞いたんだけど」
「ベースな。バーボンと仲良くなったのか?」
「全然……今日も情報管理がクソって言われたし……」
「バーボンがクソって言ったのか?」
「お綺麗な顔してね。ひどいよね」
「はは……そっか。まあ聴きたいなら、今日は任務も終わったし久しぶりに弾くか」
 悪い人生じゃなかった。でも、もっと別の人生を送れていればこんなことには……そんな無為な願望が女の背中を押した。スコッチに褒められた狂いのない動作で引き金を引く。



「良かったわねジン……あの子を幹部に推薦していたらあなたの面目が丸潰れだったもの」
「……フン」
「スコッチの正体をこちらに漏らしたからどこの国のスパイかと思えば……ただの情報提供者、一般人だなんてね。随分と昔に拾われたからだれも疑いもしなかったみたいよ。重要な案件を任されたこともないからこれまで損失もなかったし」
 ベルモットの言葉にジンはギラリと光らせていた瞳を細める。組織随一の忠誠心を持つジンは冷酷非道で容赦はないが、同時に冷え切った頭は常に冴えていた。女が大した働きをしていないと判断すると、興味は次の人物へと移っていく。
「情報を抜いてたのはどこのどいつだ」
「日本警察。ただ、スコッチとは違って地方の県警ね。組織が事故死にみせかけた暴力団組員について追ってたみたい。あの子を逮捕しない代わりに組織の情報を流させていたらしいけど、大した情報は握られていないわ」
「なら警戒しなきゃいけないのはスコッチだな。あのネズミに芸なんざ仕込んで何をさせるつもりだったのか知る必要がある……」
 女も警察官も脅威ではない。そう考えてジンは己を出し抜いたスコッチを脳裏に浮かべた。バーボンと気が合うのかよく行動を共にし、任務成功率も上がるためボスもツーマンセルで組ませることが多かったが、実に対照的な二人だった。
 キャンティも話したとおり、ジンもどちらかと言えば秘密の多いバーボンを警戒していたのだ。スコッチについてはあまり闇の似合わない男だと思っていたが、まさか光の下にいる男だったとは。優秀という評価を下していた分、苛立ちと口惜しさの同胞がジンの中に渦巻いている。
 ジンの言葉にベルモットが仕方ないと言いたげに笑った。横目で視線を投げればベルモットは肩を竦めて腕を組む。
「鈍いわねえ、ジン。別にスコッチは何も企んでなかったの。どこにも行けず何者にもなれないあの子を憐れんで、目をかけてやって、心を許した結果……あの子の力量を見誤って自分の情報を掴ませてしまった。スコッチはそんなやさしくて馬鹿な男だっただけなのよ……」
 ベルモットのしっとりとした言葉が室内に沁みていく。ジンは口を閉ざしたまま視線を手元の銃に戻した。
「糸車に触れた裏切り者同士、夢の中で結ばれるんなら幸せだろうよ」
 あら、やさしいのね。そう返したベルモットをジンは鼻で笑った。



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