サイレント・ナイト

 ピンポン、と音が響く。モニターを見に行くとここしばらく連絡が取れずにいた恋人が立っていた。
「景くん、突然どうしたの?」
 丈の長いコートを着込んでいる恋人へモニタ越しに問いかける。来るときはいつも連絡をくれるのに、と鳴らなかった携帯を振り返って見ていると「大事な話があるんだ」とノイズ交じりの声が届いた。頷いて、とにかく外は冷えるだろうとロックを解除する。マンションのドアを潜った恋人がモニタに映らなくなった。
 ほどなくして部屋のインターホンが鳴る。小さな穴越しに確認した恋人はコートを脱いでいた。下には少しドレッシーなスーツを着ていたらしい。髪もアップにしてこれから特別なパーティーにでも行くような格好だ。
 普段見られない恋人の姿にドキドキと胸を高鳴らせて鍵を開ける。扉を開けた先には豪華に包装された大きな花束が置いてある。しゃがみ込んでそれを腕に抱える。恋人の姿はどこにもなかった。

 頬を撫でられる感覚がする。瞳の下から顎先をするり、するりとなぞる指先には覚えがあった。愛しい人の名前を呼ぶものの覚醒したばかりの喉は使い物にならない。んー…と寝ぼけた声を出しながらゆっくりと目を開ける。窓から差し込む朝日が眩しい。視界に入るベッドサイドが、人が腰掛けているようなシワを作っている。
「景くんおはよぉ……」
 昨夜、玄関を開けるなり姿を消した恋人が家の中にいる。に、と歯を見せる恋人の姿が脳裏を過ぎり、いじわるしないで、と寝ぼけたままの声をかろうじて発した。目を擦りながら身体を起こして、抗議しようとした喉が窄まる。先ほどは質量を感じたベッドサイドに恋人の姿はなかった。
 昨夜といい今朝といい、立て続けに何が起こっているのだろう。疑問が脳内を埋め尽くす。
 モニタにはたしかに景光の姿が映っていた。インターホンを鳴らした景光は少し気恥ずかしそうに視線を下げていて、応答するとぱっと瞳を輝かせる。まるでレンズ越しに相手が見えているかのように顔を綻ばせて笑うのが癖だった。見間違えるなどありえない。
 今朝も、たしかに景光はそこにいたはずだった。夜中に合鍵を使って訪れ、朝目を覚ますと横で寝ている、そんなことがこれまで何度もあったのだ。景光のふわふわとした声が鼓膜を揺らし、指先が頬の肉を弄ぶ、ただそれだけのことがひどく幸せだったのだ。間違えるわけがない。
 だというのに昨日も今日も景光はここにいない。景光の気配を近くに感じたのに目の前には何も現れない。
 折れるのではないかというほど首を傾げても、てんで説明のつかない不可思議な現象の真相が明らかになることはない。長い息を吐いて頬を叩く。今日は姉妹同然に仲良くしている友人と映画を観ることになっている。支度を済ませなければ待ち合わせに遅れるだろう。不可思議な現象については、ひとまず据え置くことにした。
 用意を済ませて、待ち合わせ場所で友人と落ち合って、二人で並んで歩く。往来は人の通りが激しい。休日だからだろうか、それとも近場で何かイベントでも開催されているのか。頭の隅で考えながら、道が混雑するあまり先を歩いて行った友人と少しだけ距離が生まれる。
「あっ、すみません……!」
「こちらこそすみません、お怪我はありませんか?」
「いいえ、ありがとうございます」
 前に人が、と思ったときには男性とぶつかっていた。よろめいたところをその相手に支えられる。注意散漫になっていたつもりはないが、と考えながらも謝罪すると相手も同じように返した。男性は精悍な顔立ちをしているが、その表情にはわずかばかりの翳が差しているような印象を受けた。
 それでは、と言って離れる男性に軽くお辞儀をする。数歩先で立ち止まっていた友人が心配そうに声をかけた。平気だと返事をして足を踏み出し、映画館へ向かった。

 それに気づいたのは帰宅してからのことだった。
「これ……どうしてここに……?」
 バッグを片付けるために中身を出していると中から何か音がしたため、底を探ってみると木彫りでできた鈴の根付が出てきた。景光が財布につけていたもので、修学旅行先で見かけた体験コーナーで作ったのだと聞かされた根付だった。多少いびつではあったものの子どもの作品にしては出来が良く感心したのを覚えている。気づかなかっただけでずっとこの中にあったのだろうか。
 懐かしさを覚えて、鈴を軽く振った。カラコロと独特な音が響いて違和感を覚える。景光の鈴よりも音が高い。手のひらの鈴をよくよく見てみると、色味もわずかに違うような気がした。表面を撫でたときの手触りもさらりとしていて、率直に言うと景光の鈴よりも出来がいい。
 景光のものでなければだれのものなのか。そう考えた頭の中には数時間前にぶつかった人物が浮かんでいた。だが返そうにも相手の名前も住所もわからない。手作りのそれを肌身離さず持ち歩いていることを考えれば、修学旅行先で作った程度のものだとは言えなかった。もしかすると何か思い入れのある品かもしれない。
 ガチャン、と寝室の方で音がして意識を引き戻される。重みを感じさせる硬い音は、景光がベッドで寝ているとき高確率で枕元に置いた腕時計を落とす音だ。来てたんだ、気づかなかった。音に跳ね起きて、目覚めが悪そうに頭を掻く景光の様子を思い出しくすくすと笑いながら寝室の扉を開ける。そこに人の影はなかった。
 首を傾げてベッドの裏に回りこんで見るものの景光の姿はない。しばらく会えていないから、床や天井のきしみを都合よく捉えてしまっているのだろうか。景光が多忙なのは知っているが、近況報告も兼ねた日常的なやりとりはずっと行っていた。ここのところはそれもないため寂しさを覚えているのかもしれない。早く帰ってこないと愛想を尽かしちゃうぞ、とつぶやけばカーテンが揺れた気がした。
 寝室を出て扉を閉めようとドアノブに手をかけたところで握り締めていた根付の存在を思い出す。あの辺りをふらつけばまた会えるだろうか。外を出歩くときは必ず根付を持ち歩くことにした。



 再び男性を見つけたのは数日が経ってからだった。横断歩道の向かいで地面を気にしながら歩いている。落し物を探すかのような様子に、やはりこの根付は彼のものだろうと確信する。
「あの、先日はどうも」
「どうも……ええと、ぶつかってしまった方……ですよね?」
「はい。もしかして今、これを探していましたか?」
「それは……!」
 バッグから取り出した根付を差し出して見せると、男性は非常に驚いた顔をしたあと、心底安堵したように破顔した。
「落としてしまったと思ってこの辺りを探していたんですが見つからず──やっぱり貴女とぶつかったときでしたか。ありがとうございます。一体どこに……?」
「私のバッグの中に入ってしまったみたいで」
「それはすみませんでした」
 どおりで見つからないわけですね、と言って男性は根付を受け取る。名前さえ知らない男性に再会できたことに安心した。やはり大事なものだったのだ、きちんと渡すことができて良かった、と。数奇な巡り合わせにわずかな感動を覚えながらも、用は済んだからと挨拶をして立ち去ろうとした。だが男性が引き止めるように声をかける。
「お時間があるのでしたらぜひお礼をさせてください。これは親友との思い出深い物で──とても大事にしているものだったので、どうしてもお礼がしたいんです」
 お礼をもらいたくて拾ったわけじゃないから気にしないで欲しい。咄嗟にそう断ろうとしたが、言葉にする前に男性は「そこの喫茶店でお茶でも」とまで続けた。本当に大切な根付だったのだろう、その気持ちを汲んで一杯だけご馳走になることにした。
 落ち着いた印象を与える内装だが、少しだけポップな装飾品が置かれた喫茶店には女性客が多かった。全員ではないものの、多くの女性客が見目麗しい男性を目で追っている。知人ならまだしも、初対面同然の男性に連れられて入った喫茶店で自分以外に向けられた視線を感じるのはどこか居心地が悪かった。
 本人はまったく気にならない様子で二人がけのテーブルに腰掛ける。向かいの席に座ると見計らった店員からメニューを渡された。
「何でも、お好きなものを注文してくださいね。ケーキはお好きですか? 桃のミルクレープなんて美味しそうですよ……」
「そんな、悪いです」
「お礼ですからどうか気にせずに。僕はフルーツタルトにしようかな……」
 男性が軽食をとるのであれば、こちらが何も頼まないのは失礼だ。まるで早く帰りたいと言っているように見える──そう思い、美味しそうだと言われた桃のミルクレープを頼むことにした。
 安室透と自己紹介した男性は表情豊かに会話を弾ませた。ぶつかったときの、憔悴したような様子は多少改善されたように感じられる。ただ時折、ピントのずれたような瞳の動きをさせることがある。まるで何か別のものを見ているような、哀愁漂う表情の造りに背筋がぞっとする。
「その根付、ご自分でお作りになったものですよね」
「ええ。ご存知なんですか?」
「恋人が持っていて……でも彼は安室さんみたいに器用じゃないので、鈴に角が残ってたりしたんです。だから彼じゃなくあなたのだろうなって思いました」
「そうでしたか。見分けがつくということは、彼もそれを大切にしていたんですね。あなたが良く見る場所に提げていたということですから」
「ええ、いつも持ち歩くパスケースにつけてました。彼、大事なものはパスケースにつけるんです……変でしょう? 身分証明書だけじゃなくて、中学のときの学生証とか、写真とかも出てくるんですよ」
「パスケースに……そうだったんですね」
 景光の話をした途端に安室の声が揺れる。不思議に思って顔を覗くと安室は形の整った眉を悲痛に歪ませ、口元に力ない笑みを浮かべていた。今にも泣きだしそうな表情に驚き安室を注視すると、より微細な表情の変化が目に留まる。瞳にうっすらと水の膜が張っていた。
「安室さん……? どうしたんですか……?」
「あ、っええと、すみません。目にゴミが入ったみたいです、ハハ」
 慌てた様子で目元を拭うと、安室は無理に笑顔を取り繕った。そして気を取り直すように根付について話し始めた。学生時代に修学旅行先で作ったこと。幼馴染と競い合ったこと。どちらも完成度は高かったが最終的には安室に軍配が上がったこと。互いに気恥ずかしくてストラップをつけることはなかったが、作り終えたあともヤスリをかけたりして大切にしていたこと。
 穏やかな顔をして話す安室に胸を撫で下ろす。とても大切なご友人なんですねと言えば安室は笑みを深めた。
「遠くへ行ってしまって会えないんですが大事な親友です。これまでも……これからも、ずっと」

 幼馴染の話をする安室の顔は雲が晴れたような、穏やかなものになっていた。何か事情を抱え込んでいたのかもしれない、その最中に大切なものを落としてしまって気が気ではなかったのだろう。
 何はともあれよかった。そう考えながら帰路につく。安室の話は面白く、充実した時間を過ごすことができた。幼馴染の話はとくに他人ごとの気がせず、幼馴染と面識はないのに親近感が沸いた。まるで共通の知人について話している感覚だった。
 探偵業をしていると語った安室に差し出された名刺に目を落とす。物語やテレビの中でしか聞いたことのない、現実味の薄い職業に首を傾げれば「ストーカー被害、詐欺など何でも相談してください。相談料は無料ですから……。警察よりも早く駆けつけますよ」と安室は苦笑していた。
「景くんがいるから、相談することはないかもしれないね」
 恋人がまさか警察官だとは考えもしていない安室を思い出して笑う。名刺が役に立つ日はこないだろう。
 鍵を回してドアを開ける。玄関の明かりをパチリと点けて靴を脱ぐために屈むと、リビングの方にかすかな気配を感じた。
「……だれかいるの?」
 問いに応じる声はない。バッグの持ち手をぎゅっと握り、そろりとリビングへ向かう。リビングのドアを慎重に開けると、ソファの上でブランケットの膨らみがゆっくり上下していた。
 短く切り揃えられた黒髪、投げ出された手、丸めてもソファに収まりきっていない筋肉質な脚。どれも見覚えのあるものばかりだ。景光が眠っていた。不審者ではなかった安堵、久しぶりに恋人が帰ってきた嬉しさで涙腺がゆるむ。遠目に見える景光の寝顔は穏やかだった。
 かけられたブランケットが落ちかけている、かけなおしてあげよう。
 ソファに近づいて、恋人の顔を覗き込みながらブランケットを手に取った。刹那、下にあったはずの存在感が掻き消えた。ソファの前に置かれていたテーブルには花で作った輪がひとつ置かれていた。



 ピンポン、と音が鳴る。モニタを見るとそこにはだれもいなかった。いや、フードを被った男性の後姿が画面の端に映り、一瞬で消える。フードの中に金髪が見えた気がした。
 そういえば今朝はまだ郵便物を取りに行っていなかった、と気づいて玄関を出た。
 エレベーターの音が重く響く。溌剌と挨拶をする管理人に先ほどだれかここへ来なかったかと尋ねるが否定された。郵便受けを開くと封筒がいくつか溜まっている。休日はどうしてものんびりしてしまっていけない。一つずつ宛名を確認しながら取り出していると、一番奥に宛名も受取人も書かれていない封筒が入っていた。
「間違って届いたのかな……あ、何か書いてはある……丸?」
 受取人の部分に黒いボールペンで小さく縦長の丸が書いてあることに気づくが意味はわからなかった。
 様子がおかしいと心配した管理人が「不審物かもしれないよ、通報しようか」と言う。ゆるく首を振ってその場で封を切った。コロリ、と音がして封筒を逆さにすると手のひらに木製の鈴の根付が出てくる。
 先ほどここへ来たのは安室のようだ──モニタに一瞬だけ映って消えた影と結び付ける。だが、だとすれば何故、あれほど大事にしていると言ったものを、わざわざ戻ってきたはずの落し物をこのポストへ投函したのだろうか。
 奇妙な行動に頭を捻って根付を陽に透かす。明るい場所で見ると、それは先日見たものと比べて形がいびつだった。まるで、景光が持っていたもののように。根付を握りこんだまま部屋へ駆け込んだ。
 またカタリと音がしてそちらへ向かう。棚の前に立つと、不自然に引き出しが音を立てている。戸を開けて中を探ると見覚えのないアルバムが出てきた。片手でも持てる大きさのアルバムを捲る。中には、数こそ少ないが恋人の写真が収められていた。
 そういえば「子どもの頃の写真が見たい」とねだって困らせたことがある。景光は職業柄写真を撮れないらしい。さすがに昔は撮っていただろうと問えば頷くのでねだったのだ。恥ずかしいんだけどなあ、と言いながらも渋々持ってきたのがこのアルバムではなかったか。
 一枚、二枚と捲って恋人の成長を眺める。写真の中の景光はどれも屈託なく笑っている。そしてその隣にはいつも一緒に映り込んでいる金髪の男の子がいる。見覚えのある顔に「ああ、」と感情が零れ落ちた。前は気づかなかった、知らなかったのだ。今はもう知っている。
 最後に一緒に撮ったらしい写真には「夢を叶えた日」という言葉と日付が書き添えてあった。警察官らしい出で立ちが眩しい。封筒に書かれていた丸の意味は、端々に書いてある「ゼロ」の単語を見て得心がいった、
「景くん、いるの?」
 背後に向かって問いかける。返事はない。何日経っても咲き続ける花束がそっと揺れた。









 死んだ直後は後悔ばかりが襲った。
 国を背負う立場にいた。失敗が許されない任務についていた。もちろんそれは誇りだった。だが失敗し、幼馴染に全てを託して死んだ。自殺だ。後悔せずにいられるわけがない。
 それがどうしてか、どこへ行けばいいかもわからぬまま宙を漂う間に消えていく。
 だめだ、忘れるな、これは死後も背負わなければならない俺の責任だ。そう強く意識しても霧散していく。死ぬとあらゆるしがらみから解放されるらしい。
 そして残ったのは、何も言わずに置いて逝ってしまった恋人への気持ちだった。
 いつかプロポーズするつもりだった大切な人だ。潜入捜査で荒んだ心はあの子が癒してくれた。月並みな表現になるが、一緒にいると心があたたかくなって、これが幸せというものなのかとよく考えたものだ。俺を幸せにしてくれるあの子を幸せにしたかった。
 だから、もう俺にできることがなくなったのであれば、これからはあの子の傍にいたい。その願いが浮き彫りになっていく。強く、そう願った。
「お前の形見……届けるからなヒロ、」
 親友が手のひらの上に転がる根付を見てささやく。
 俺の死はだれにも伝えられていない。伝えられてはいけない。潜入捜査官の存在は公にされてはならず、俺が警視庁に勤めていた過去ごと抹消されていた。だから警視庁には名前のない俺のために置かれたデスクやロッカーが残されたままになっている。夜の警視庁へ侵入して何をするのかと思えば、それらを片端からひっくり返してパスケースを探し出していた。パスケースには揃いの根付がついている。
 根付を握りしめて、そこでようやく嗚咽を殺す親友の肩に触れる。俺たちは人前で泣くことすら許されない。ありがとう、ゼロ。お前の幸せを祈ってるよ。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -