3

 降谷はよく休暇を取るようになった。正しく言えば、いかなるときも休めはしない降谷はこれまで以上に厳しくスケジュールを調整し、日中はなまえと過ごせるようにしていた。
 ある日、微熱が出たり引いたりを頻繁に繰り返すなまえが買い物をしたいと言い出した。普段であればなんてことを言い出すのかと却下しただろうが、タイミングのいいことに午後から検診の予定が入っていた。たまには外出しなければなまえも鬱屈とするだろうと、あまり動き回らずに食事まで済ませられる場所という条件付きで降谷は承諾する。
 目的地へ向かう車内で降谷はなまえに問いかける。
「何を買うの?」
「本とかノートを買おうかなって……横になってばかりだと暇で暇で」
「テレビは見飽きた?」
「飽きたっていうか、前ほど楽しく感じなくて……あっ、でもクイズ番組は好きですよ」
 車を降りて、外の空気を肺いっぱいに吸い込んだなまえは笑みを深めた。久しぶりに外を出歩くなまえの足取りは軽い。回り込んで、車にロックをかける降谷の手を取ると早く行こうと腕を引いた。
 病み上がりなのだからあまりはしゃがないようにしてほしい。懇願する降谷になまえは機嫌良く返事をするものの歩を緩めない。並んで外を歩くのは爆破事件が起こって以来だ。
 本屋に入り、静かな店内で本を物色する。数冊の小説とクイズのムック本を手に取ったなまえは、何気ない動作で学術書が並ぶコーナーへと足を踏み入れた。
 なまえが選んだ本を手に持ち、付き人のように傍らでなまえを見守っていた降谷は驚きを露わにする。業種にも左右されるが、社会人になると学術書のような堅苦しい書物に触れる機会は限られてくる。なまえはすでに仕事を辞めているため、なぜなまえが学術書を手に取ったのか降谷は謎だった。加えて、従事していた仕事にも全く関係のない分野を眺める様子に目を瞠る。
「どうしたの、いきなりそんな小難しい本を読むなんて」
「昨日ニュースでノーベル賞の話題が挙がってたでしょう? 研究内容を聞いてるとどうしてそれがすごい発見なんだろうって思って……」
「なるほど、スマホで調べても出てこなかったんだね」
「ううん、調べたら出てきたんですけど、次はじゃあどうしてそういう現象が起こるのかが気になってきて……もう本を買った方がいいかなって」
 なまえは饒舌に語る。降谷は黙ってなまえの話に耳を傾けていた。
「最近、気になったことはすぐ調べるようになったんです。透さんがいるときは、透さんが答えてくれることも多いけど……なんだか前よりも気になることが増えちゃって。しかも、どうしてか読むと全部理解できちゃうから新しいことを知るのが楽しくて……不思議ですよね、頭が良くなったみたいな気分です」
 何ら不思議なことではない。そう降谷は考える。なまえが知的好奇心を擽られるのは以前より知能が向上しているからだ。思考力が捗り、吸収できる知識の幅も底も増えたため、脳に入ってきた情報に対して疑問を抱くようになっていた。
 思えば、と降谷はあることに気づく。この数日の間になまえと交わした言葉は、これまでよりも洗練されていたように思えた。語彙が増え、思慮深くなり必然的に無駄な会話が減った。理性的になって感情の触れ幅も小さくなった。
 思考精度の点で言えばなまえが降谷に近づくことになるためすぐ気づくことができなかった。会話が捗るだけの微々たる変化にどうすれば気づけるだろうか。
 降谷はぐっと奥歯を噛む。なまえは着実に短命者へと変わりつつある、それを実感させられるたびに胸は重くなっていく一方だ。
 なまえの臨床試験はまだ開始されていない。検査の結果、一般人から短命者に変化している最中の細胞に薬を投与するのは危険だと判断された。完全に短命者へと変化し終えるまで待つ必要があると言われたため定期的な通院が欠かせない。午後からの検診は、なまえの状態がどれほど変化したかを確かめるために予定されている。
 つまり、臨床試験が始まるまで降谷は何度もこの苦痛を味わわなければならない。なまえが美しくなっていくのを、賢くなっていくのを、そして短命者として余命を待つだけの日々に身を投じるのを、見ているしかない。
 降谷の内心などいざ知らず、なまえは学術書を物色し続けている。優れた知能を持つことが短命者の特徴であることは説明してある。自分の身に起こっている変化がまさにそうなのだとなまえは遠からず気づく。そのとき、なまえはまた変化を受け入れ、喜ぶのだろうか。
「ねえねえ、見てあの人……」
 あらゆる感情がない交ぜになり、降谷が堪え切れずに溜息を吐いていれば、棚の向こうから女性の声が聞こえてきた。横目で確認すれば、棚が数列分離れた場所から二人の女性が降谷を眺めていた。どちらも頬を高潮させている。
 関われば後々が面倒だと降谷が気づかないふりをしていると、女性客はそれをいいことに不躾に視線を投げ続けた。
「すごくかっこいいと思わない?」
「ほんとだ。……あっ、隣にいるあの人」
「隣?」
「あっち向いてるから顔は見えないけど、すごい美人だったのよ」
「ええ、彼女なのかな……私、あの男の人に声かけようと思ってたんだけど……」
「やめときなよ……今は付き合ってなかったとしても、太刀打ちできないって」
「えぇー…美男美女かあ、いいなあ」
 女性客にとってはなんてことない言葉が降谷の脳を痛いほどに揺らした。
 なまえの容姿は平凡な方だ。降谷は容姿で人を判断しないし、一番素敵に見える女性だとも思っていたが、単に容姿だけを見たときだれもが羨む姿かたちをしているとは思っていない。
 甘い言葉をささやいたことは何度もあるが、特別美人だなどと都合の良いことを口にしたことは一度もなかった。
 人の心は難しいもので、他者からの評価と自身の認識にギャップが生じると相手の言葉を世辞と捉えてしまう。それが恋人同士となれば、降谷がなまえに対する言葉選びに神経を使うのも当然と言えた。本人の期待以上に美しさへの讃辞を贈ればなまえを傷つけることになりかねない。
 手放しになまえを美しいと言いたい降谷を差し置いて、他者からなまえに対してそういった評価が下されることはありえないと言っていいのだ。だからこそ、降谷は信じられない思いがした。女性客の言葉に嘘偽りを込めた色はなかった。見たままなまえを美人だと言っていたのだ。
 とうとう、なまえは他者から見ても美しく映るようになってしまった。



「降谷さん、遠田先生は他の患者さんの診察中です、待ってください!」
「先生、臨床試験を受けられないって一体どういうことですか……!」
 看護師の制止を振り切って診察室に押し入った降谷は切羽詰まった様子で叫んだ。
 いつも皺一つなくきっちりと着こなされているスーツはところどころがよれて、ネクタイはボタンの留まったジャケットにかろうじて引っかかっているだけだ。手櫛でこと足りる生まれつき癖の少ない髪は走ってきたせいで乱れている。
 降谷のなりふり構っていられない様子を見て医師は気まずそうに視線を下げた。
 職務中に爆風を受けて全身裂傷を負ったとき、追っていた容疑者に刺されて逃げられたときなど、降谷が怪我をするたびに医師はこの病院で治療を施したが、これほどまでに気が動転している降谷を見るのは初めてだ。それほど恋人を大切に思っていることが伝わってくるからこそ、己の非力さによる申し訳なさが医師を襲う。
 降谷を別室で待たせるよう看護師に指示を出して、医師は診察中の患者に目元だけで笑って見せた。

「降谷さん、お待たせしてすみません」
「……いえ、僕こそ業務の邪魔をして申し訳ありませんでした……」
 ひどく消耗した様子で返事をする降谷にどう声をかけるのが適切か判断できず、医師は何も言わずに降谷の前にあるイスへ腰を下ろした。話は何かと問うことはできない。降谷が血相を変えて病院へ来訪した理由を医師は知っている。
「なまえには臨床試験に使われる薬を投与できないと連絡がきました……先生もご存知のとおり、初めは試験の対象から外されていました。それでも希望するなら、と……だから僕はお願いしたんです。その後も順調に準備は進んでいた……」
「……ええ」
「なのに撤回された理由は……?」
 先ほどとは違って落ち着いているが、降谷の声は細く今にも切れそうなものだった。医師はかろうじて拾えた問いに答えるべく口を開く。
「検査の数値を見たところ、短命者として細胞の劣化速度が日によって異なっているなまえさんが、新薬による延命措置を図るのは難しいと……それよりも、長期的な保護観察の下に、なまえさん個人に適合する薬を開発した方が、その、後々のためにもなると……」
「……それが今後生まれる後天性短命者のためになまえの命を見捨てる、という言葉に聞こえるのは僕だけでしょうか……?」
 両手を強く握りこみ肩を震わせる降谷に医師は何も言えなかった。なまえのような一般人が短命者になった前例は確認されたことがない。だが、各国になまえと似た人間がいないかを情報共有すると、近年になって増加傾向にある事実が判明したのだ。
 これが何らかの異常事態を示しているのか、それとも長年の研究で短命者のことを読み違えてきた結果なのかはわからない。もし後者であれば、現在人口の一割にも満たない短命者は先天性の突然変異だと言われてきたが、その血脈にある者のすべてが短命者となるホストの可能性を秘めている、そんな見解が学会に出てきた。
 第二性は科学の世界でも異色の分野だ。永遠の命を手に入れることができる可能性は人を惑わし、短命者と不死者を巡ってはたびたび異様な熱狂が渦巻いている。
 後天性の短命者が日本にも誕生したことで、なまえを研究すべきだという圧力があらゆる場所からかけられ始めているのだ。その短命者が命尽きる前に、と。
 聡い降谷は説明されずとも気づいている。降谷こそが、第二性を取り巻く欲の渦を嫌というほど理解していた。短命者でありながら、後天的に不死者となった降谷こそが。
 それでも降谷はなまえを救う手立てを国に求めた。降谷にとって日本以上に美しく誇りに思える国は他にない。愛する国に、愛する人を救って欲しかったのだ。
「──……先生、彼女が体調を崩したらまた診ていただけますか?」
「もちろん……もちろんです。それくらいしかできずに、申し訳ない」
 謝罪を繰り返す医師に降谷は頭を振る。ありがとうございます、と口にされた降谷の声は硬かった。降谷の瞳がぎらりと光る。前髪から覗いた剣呑な光を受けて医師は手に汗を握った。
「僕は彼女を失うつもりはありません」
 そう言い放って降谷は病院をあとにした。



「どうしたのバーボン、顔色が悪いわよ」
 やっとの思いで見つけ出したベルモットは降谷を見て口にした。アメリカ、母国でもある国の都市部からは離れた邸宅で、ベルモットは世間の騒がしさとは縁の遠い暮らしを送っていた。優雅に足を組み、どうしたのかと尋ねたにしては興味が薄そうな様子で整えたばかりの爪を眺めている。
 降谷はベルモットとの距離を保ったまま静かに話を切り出す。
「前から気になっていたんです。組織の幹部ベルモットは不死者であるという噂が……」
 目の前の女は魔女と呼ばれている。
 ベルモットはあらゆる人間の姿かたちを完璧に模倣し成り代わる業を持っていた。時には他者でさえも擬態させる変装術はおおよそ人間の成せるものではない。魔女の呼び名にはベルモットを讃え、畏怖する意味が込められている。
 だが別の意味を込める者もいた。第二性の存在を知る者が、枯れぬ美貌や身のこなしは永遠の命を手にしているからだとまことしやかにささやいているのだ。降谷はこれまでその噂の真偽を確かめる必要なく過ごしてきたが、ここへきてその噂に興味をそそられた。
「不死者……御伽噺の話かしら。歴史の影に隠れてきた息絶えることのない生命体。バーボン、貴方って案外夢見る男の子だったのね」
「貴方の秘密主義には困りましたね……はぐらかさないでください、これでも焦っているんです」
「あら本当に何かあったの? でも、貴方の困る顔なんて見物だわ」
 降谷の言葉を一つも真に受けず流そうとする態度に降谷は怒りを覚えた。しかしここで牙を見せようと、ベルモットが脅しに屈する女でないことは知っている。
 腹の底で渦巻く怒りを抑え、神経を逆撫でするような言動はいなそうと意思を固める。
「……僕の弱みを知りたいものだ、と以前貴方は言いましたね」
 降谷の言葉を聞いてベルモットは目を細めた。真意を探るような視線を投げる。
「頼みがある、と言えば聞いてくれますか。僕の弱みと引き換えに……」
「どうかしら。貴方の弱みとやらには興味があるけれど……内容次第ね」
 ベルモットは降谷に先を促した。内容次第とは言うが、降谷の真剣な様子を見て微笑んだベルモットはもう話題を躱そうとはしないだろう。降谷は場の空気が変わったことを察して核心に触れる。
「貴方は不死者だという噂がある……ですが僕が思うに、貴方は不死者ではなくその心臓を分け与えられた短命者だ……違いますか?」
「……No one does it like you. 貴方が言うとおり、私は心臓を食べて生きながらえる短命者……」
 貴方のようにね。秘密を暴いたつもりだろうが降谷の秘密も暴いてやったぞ、そんな色を含めてベルモットは付け足した。だが降谷は挑発を受けるつもりはない。
「僕は不死者の心臓を食べてはいません」
「あら、じゃあどうやって体の弱さを克服したの?」
 短命者は、程度はあれども皆体が弱い。降谷が支障なく任務を遂行してきたのを見てきたベルモットは説明がつかないと言いたげに尋ねた。降谷は口にするのを一瞬躊躇い視線を逸らす。だがベルモットの協力を得ようとする以上は説明するのも避けられないと、逸らした視線を元に戻した。
「昔、心臓移植を受けました。それが不死者の心臓だったんです」
「……、まあ、そんなこともあるでしょう。それで頼みって何かしら」
 ベルモットは長い時を生きている。降谷が口にした言葉に驚くわけでも笑い飛ばすわけでもなく、脇道へ逸れた話をさっと元に戻した。
「後天的に短命者になった人間を探してもらいたいんです」
「元は一般人……ということ?」
「ええ」
「いるわけないわ、そんな人間。いたとしても探し出すのは難しい……理由は?」
「僕の恋人が短命者になりました」
 途端に険しい顔をしたベルモットが降谷を鋭い視線で射抜く。
「仮にそういう人間が見つかったとして一体どうするつもりなの? その人間を解剖でもしてみる? もしかするとその短命者はすでに三十を超しているかもしれない……もしかすると明日にも息絶えるかもしれないし、発症してからニ、三十年まで生きるのかもしれない、わからないことだらけよ。見つけられたとして、貴方の恋人が全く同じ人生を辿るとは限らないのだから探すだけ無駄だわ」
「では心臓を分け与えてくれる不死者を探してください」
「生憎と私は私に命を分け与えた一人しか知らないし、その人物はもうこの世にいない」
 無慈悲な結論が冷たく室内へこだまする。
 率直なところ、ベルモットは降谷に呆れていた。降谷の弱みを握れば降谷を手駒にすることができる。降谷がいかに優秀な人物であるかは、幹部として共に任務に当たった日々や、裏切りの一件でよくよくわかっていた。
 だからこそ弱みとやらに期待したものだが、恋人の存在はベルモットにとって期待外れの結果だ。ベルモットは、基本的に愛という移り気で不確かなものを信じない。
 降谷はベルモットの言葉にぐっと奥歯を噛みしめた。果てのない絶望に耐えるようなその顔を目にして、ベルモットは目を丸くして先ほどの失意を撤回した。
 任務中の降谷は巧みな話術と立ち回りでどんな状況でも必ず成果を上げる食えない人物だった。それが、恋人の死の気配を前にして怯えている。光が差すことのない道で途方に暮れている。
 警察官──それも敵対組織に潜入をするほどの捜査官が、正義ではなく悪に頼っている。
 目の前の男が目的のためには手段を選ばないことも、かといって人道外れた道を歩むことを良しとしないことも知っているからこそ、ベルモットは自分を頼ってきた降谷の、恋人にかける想いの強さを理解した。
 降谷がこれほどまでに情の深い人間だとは想像もつかなかった。それをどこか愉快に感じながらも、憐れみを覚える。
「何か、方法はありませんか。短命者になった人を救う手立ては……」
 降谷はもうその身のほとんどを翳に飲まれていた。光が差し込めば、それがどんなものであれその光に向かって突き進むだろう。
 ベルモットは口の端をゆるゆると持ち上げる。気が向いた、多少手を貸してやる価値はありそうだと。美しい顔がまるで慈愛に満ちたかのようなあたたかな微笑みを形作った。
「方法はいくらでもあるわ。この世界なら、いくらでも……。ねえバァボン、貴方は恋人のためにどこまでできるの?」
 前例を探す。不死者を探す。表の世界でもできるような方法では、どれだけの時間と労力をつぎ込んでも足りない。裏の世界であれば、非合法な手段を用いれば、あるいは何かしらの解決策を得ることも不可能ではない。
「上手におねだりできたら、答えを用意してあげる」
 ベルモットという悪を頼るだけでは足りない。ベルモットは、降谷の口から悪に染まる意志が欲しかった。
 恋人の存在を知りその命を握るだけでは、降谷の弱みを握ることにはならない。潜入捜査官であることを知られてなお己の正義を貫こうとベルモットに働きかけた、その類まれな矜持を捨て去ったとき、初めてベルモットは降谷のすべてを掌握できるのだ。
 意地悪く吐き出された言葉にも降谷は微動だにしなかった。俯いた顔がゆっくりと持ち上がる。ベルモットを見据えた降谷の言葉は決まっていた。
「それが貴方の望みなら、どこまででも僕を墜とせばいい」
 妖艶に微笑むベルモットに降谷は内心でこの魔女めと付け足した。

 知人に腕のいい科学者がいる。そう言ったベルモットは降谷をとある電気屋へと連れて行った。どこにでもあるような年季の入った建物は昼間にもかかわらず閑散としている。
 店主を務める老爺に「昔、ここで時計の修理をしてもらったの」とベルモットが話しかけると店主は手元の新聞紙からわずかに顔を覗かせた。
「どんな時計だね」
「年代物の時計よ。マーメイドが彫ってあるの」
 ベルモットが問いに答えると老爺は手元のスイッチを押した。店の奥で金属の擦れるような音が響き、ベルモットは音がする方向へと進む。降谷は黙ったまま後ろに続いた。
 木製の壁の中に鉄の扉が取り付けられているのは見るからに異質な組み合わせだった。普段は隠されているらしいドアの先には地下へと続く階段が覗き見える。迷いなく降りるベルモットに倣って階段を下りていると、降谷の背後でドアが閉まる音がした。
 地下へ降りて廊下を進むと奥に部屋があった。ドアの隙間から光が漏れている。ドアを開いた先には背を丸めて顕微鏡を一心に眺める科学者の姿がある。
「アンナ、今いいかしら」
「ああちくしょう……いくつ作っても足りやしない……」
 ベルモットが声をかけたことに気づかない様子で手元の用紙に何かを書き殴り、再び顕微鏡を覗き込んでは何かを走り書きする様子に降谷は沈黙した。アンナ、ともう一度ベルモットが声をかけるが、今度は離れた場所にあるパソコンに何かを打ち込むだけで科学者が反応を示す気配はない。
 応じない科学者にも、無視されたことに憤りもせず穏やかに声をかけたベルモットにも驚きながら、降谷は一つの可能性を疑った。
「ベルモット……彼女はもしかして耳が……?」
「聞こえてるわ、しっかりとね。マザー・テリブルの名は知っている?」
「聞いたことありません。すごい通り名ですね」
「ああそうさ! あんまりにも馬鹿みたいな呼び方で笑っちまうね!」
 降谷の反応に呼応するように手のひらで机を思い切り叩いた科学者は、ようやく二人に意識を向けたかと思えばまたすぐブツブツと小言を口にしながら作業に戻った。小太りの体躯から繰り出された拳の衝撃は大きい。
 呆気に取られたバーボンはベルモットに「この女性に任せて大丈夫なんですか」と耳打ちする。たった数分でも気性の荒さが窺い知れる科学者に恋人の命を託していいものか不安になるのも当然だった。
「アンナ、いい加減にしなさい」
 見かねたようにベルモットが口にすると科学者は弾かれたように体を向けた。
「何なんだい! 電話でも言っただろう、アタシはアンタと違って忙しいんだ! 一日が二十四時間あっても足りない研究をしてる、邪魔しないどくれ!」
「私も言ったわよ、連れて行く人間は貴方の役に立つってね」
「その貧弱そうな男がかい。まさか切り刻ませてくれるわけでもない、短命者が一体何の役に立つってのさ」
 科学者は癇癪持ちの子どものように高い声を大きく張り上げて喚き散らす。
 降谷は眩暈がした。組織の幹部は、曲者揃いではあったものの理解力ある人間で構成されていた。組織にいて任務の段取りに苦心した記憶はあまりない。幹部ではない組織の構成員は幹部に忠実で、二言目には「了解」の文字しか言わない。会話には困らなかった。
 組織外の犯罪者には話の通じない者もいることにはいたが、そういった者は大抵が気性に問題を抱えるか裏社会しか知らず教養がないかのどちらかで、大体が取引ごとなかったことになって終わる。きっとこの話もなかったことになる、と降谷は遠い目をする。
 科学者が降谷を短命者だと断言したことは気にかかったが、科学者が降谷の存在を歯牙にもかけないのと同じように、降谷が科学者に向ける関心もまたすっかり消え失せていた。仮に本題へ入れたとして、今後協力してやっていける気がしない。
「彼は不死者よ」
 これだから裏の人間は、と悪態を吐きかけたところで不意にベルモットが口にした。
 不死者は短命者よりも人数が少ない。この希少性から、短命者とは違った意味で身を狙われやすかった。安易に他言されてはならない内容を明らかにされたことへ降谷は動揺を露わにする。
 ベルモットを責めようとした降谷の言葉をガラスの割れる音が遮った。
「本当かい」
 信じられないような、探るような科学者の視線が降谷を射抜いていた。その声にはどこか縋るような色が含まれている。途端に空気を変えた科学者に降谷はたじろいだ。
「だとすれば何か問題が?」
 冷えた降谷の言葉に科学者はわずかな後悔を顔面に滲ませた。それだけで降谷の溜飲も多少は下がる。
「……ベルモット、用件を言いな」
「彼の恋人が短命者なの。正確に言えば、彼の恋人は一般人だったのに突然変異で短命者になった……ね。彼女を生かす方法を探してる。貴方ならできるんじゃないかと思って」
「一般人が短命者に……それで? その男が不死者なら心臓を食べさせればいいじゃないか!」
 話にならないと手を振って顕微鏡に向き直る科学者は一瞬期待しただけ損をしたと言いたげだった。ベルモットは呆れたように溜息を吐いた。
「私がそんなこともわかっていないと言いたいの? 彼は元短命者、不死者の心臓を移植されて不死者になっている。恋人も後天性の短命者だから、単に心臓を食べさせれば解決できる話じゃないのよ。……貴方が協力しないなら別に他を当たってもいいのよ、ただピートは助からないままかもしれないわね」
 ベルモットが言い放った言葉に科学者は動きを止めた。おおよその見当がついた降谷もようやく口を開く。
「腕のいい科学者だと聞きました。もし後天性の短命者に投与できる薬を開発してくれるのであれば、僕の心臓の一部を貴方に提供することも吝かではない……薬の開発に協力してくれますね?」
「……不死者の心臓細胞ならもう持ってるよ」
「アメリカから二度盗み出した不死者の細胞もそろそろ底をつくでしょ?」
「……今更、違う研究にイチから手をつける暇なんてありゃしないんだ」
「研究をやり直す必要はないわ。貴方は短命者の命をながらえさせるための薬、その大部分をすでに作り終えていたはずよ。貴方に足りなかったのは、それを試してみる検体と、検体に試すだけの薬の量産……つまりより多くの心臓細胞ね」
 核心を突かれた科学者が黙り込んだ。降谷がベルモットに説明を求める。肩を竦めて話し出すベルモットを科学者が遮ることはしなかった。
 アメリカでも屈指の製薬会社に勤めていた科学者は熱心に仕事に打ち込み、晩婚の末に一人息子を授かった。だが息子は生まれながらにして短命者で、短命者の中でも一際病弱に育つ。もって成人までだと医師に早い段階から告げられ、どうにか息子の命を救うことができないかと会社を辞めてひたすら研究に明け暮れたらしい。
 どの国でも、研究に提供される不死者の心臓細胞は政府が管理している。
 不死者は短命者のように際立った容姿を持つわけではないため発見が難しく、実際に長く生きて老いを実感しない人間しか自らが不死者であることに気づくことができない。そのため不死者と判明した者はどの国でも政府によって保護されている。不死者は定期的に心臓細胞の提供を行うことで生活を保障されていた。
 科学者はその心臓細胞を手に入れるために二度政府機関の監視下にある施設で盗みを働き、必要があれば裏社会で取引される心臓細胞も購入した。高額な細胞を手に入れるために闇医者として病院に行けない犯罪者を治療することで資金繰りをしていた。
 ただベルモットが言うとおり、科学者は研究以外の環境を整えることができなかった。裏社会で取引される短命者は、コレクター達が熾烈な戦いを繰り広げるために不死者の心臓以上に高額で取引される。検体を用意することが困難なため、薬を作っても効果を実証することができず、息子に打たせることはできないまま、安全性を求めて薬の完成度を高める無意味な日々を送ってきたのだ。
 息子は今年で十九になる。もう残された時間はわずかしかない。科学者の切羽詰まった言動は焦りからくるものだった。
「まあアンナはいつもこうだけれど。もっと愛想を良くしたら?」
「……なるほど」
 一通りの話を聞き終えた降谷は頷いた。降谷とベルモットなら科学者が手に入れることのできなかった環境を整えることができる。ほぼ完成している薬があるのであれば、環境さえ与えれば科学者も心置きなく最後の仕上げにかかることができるだろう。
 降谷の頭に残酷な案が一つ浮かんだ。ベルモットにはどこまででも墜とせと言ったが、倫理や法を守ることができるのであれば可能な限りそうしたい気持ちは残っていた。ただ、この件に関してだけは善悪を判断するのは自分ではないようだ。降谷は悪と謗られる覚悟を決めて、最後の確認を行う。
「薬はほぼ完成しているそうですが、その根拠は?」
「彼女は何度か死に体の短命者を救ってる。寿命を延ばしたのよ、まあでも、数年しかもたなかったんだったかしら」
「あれから五年経ってる、もっといいものになってるさ」
「充分です。それじゃあ」
「待ちな、まだやるとは言ってない! ベルモット、あんたに色んなコネがあることはわかってるけど検体は最低でも五十人は必要だよ。アタシは完璧な薬しか使わない、ピートを死なせてしまう薬なんて打てない!」
 具体的な数字を出す科学者に、降谷はますます科学者の必要性を実感した。自らの研究への自信、短命者の寿命を延ばしたという実績、そして薬の安全性にこだわる姿勢。
 息子のために五十人以上の無関係な人々を犠牲にするのは非人道的ではあるが、息子への疑いようのない愛情が感じられる。
 むしろ、降谷にとってはそれこそが最も得難く思えた。息子を完治させるために科学者はどんな手でも尽くすだろう。降谷もまたなまえを大切に思うからこそ、息子のために降谷の手を取るのを躊躇っている科学者を信用できた。
 降谷の協力で薬が完成し、息子を治すことができれば、この科学者は降谷へのどんな協力も惜しまない。それこそ、息子にかける情熱を今度は降谷に、ひいてはなまえにかけるようになる。
「心配はいりません。計画があります」
 降谷は穏やかな笑みを浮かべる。どうすれば科学者の心を揺らすことができるのかは、ベルモットよりも降谷の方が良く知っていた。
「僕は、彼女のためなら何をするのも厭わない」
 降谷は科学者に向けて決断を迫った。手を組むか、否か。ぎらついた降谷の瞳を見て科学者はすっかり気圧される。ただ、科学者は降谷の想いが自分と同程度かそれ以上であることを瞳の色から悟る。
 科学者は静かに顎を引いた。安堵したように降谷が手を差し出すと固く握り返す。優男然としている降谷が、存外に硬い手のひらをしていることを知って科学者もまた表情を引き締めた。降谷はただ恋人を救いたいだけの男ではないのだと。
 降谷は計画を口にする。止まることなく口にされる計画にベルモットが最初からこうなることがわかっていたのかと怪訝そうに尋ねた。組織では情報を扱うプロフェッショナルとして一目置かれていた降谷への嫌味だ。
 思いついたのはつい先ほどだが、丁寧に説明する必要もないことだ。まるで点と点が結びつくような結果にはなったが、と内心苦笑したところで、降谷はハッとする。やはり、なまえは降谷の手で救える存在なのかもしれない。その予感に心が打ち震える。
 計画の全容を把握した科学者は「アメリカで準備を整えておく」と答え、ベルモットは黙り込んだ。まさかここまで関わっておいてあとは好きにしろと言うのではないか。降谷はベルモットの顔色を窺う。
「ベルモット、貴方の協力も欲しい」
「そうね……貴方のジュリエットに会わせてくれるなら考えてもいいわ」
 豊満な胸にかかったブロンドをはらいながらベルモットは笑った。



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