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 仕事を辞めて欲しい。降谷が何の前触れもなく言うせいで、なまえはぽかんと口を開けたまま数秒の間放心した。急にどうしたのだと尋ねようとすると、なまえの答えを待たずに「僕が明日職場へ送っていくから、書類をもらってこようか」と降谷は続ける。
「引継ぎのこともあるだろうから、会社で打ち合わせをした方がいいかな? 長時間だと体に障るだろうから場合によっては数日かかると見ておくべきか……」
「ちょ、ちょっと待って透さん! どうして急にそんなこと言うんですか?」
 黙っていればあれよかれよと言う間にすべてを決めてしまいそうな降谷をなまえは急いで止めた。なまえが短命者だという診断を受けて以降、体調を安定させることを名目に降谷は長期休暇を取らせたばかりなのである。病院で診断書が出たこともありすんなりと休暇申請が通って三日ばかり家にこもっていればこれだ。
 この数日、降谷が思い悩んでいることになまえも気づいてはいたが、まさかこれほどまで性急にことを進めようとするとは思いもよらなかった。
 降谷はじいとなまえを見つめる。端正な顔が悲痛に歪んだ気がしてなまえはぐっと喉を詰まらせた。
「……僕たちの命は短いんだ。残り幾ばくかもわからない人生をできるだけ一緒に過ごしたいと思うのはいけない?」
「それ、は。私も一緒にいたいですけど……」
 身を寄せて、顔を覗きこむようにして尋ねる降谷になまえはたじろぐ。半身後ろへ退がると、降谷も同じだけ近づいた。距離を取ろうとするなまえと詰めようとする降谷の間で静かな攻防が続く。
 降谷の言い分はもっともだ。余命が少ないかもしれないと聞かされたとき、なまえも悔いが残らないように過ごしたいと考えた。
 あと何年生きることができるのか、もしかすると想像よりも長いかもしれないし短いかもしれない不測の未来を充実させるためには、まずなまえを拘束している仕事から離れなければならない。
 だから今後数ヶ月の間で身辺整理をすることは視野に入れていたが、降谷はあまりにも思い切りが良すぎる。この決断力の早さこそが降谷を優秀たらしめている一因なのだろうが、なまえや周囲の環境を考えずに即決しすぎだ。
 降谷が自分のために心を砕いているのだということはなまえも理解している。そうでなければ、仕事第一で生きる恋人などとうに見限っている。
 率直な気持ちとしては降谷が共に過ごす時間を作ろうとしていることを嬉しく思ったが、一緒に過ごしたいという言葉通りに降谷がなまえを優先できるかは怪しい。それも降谷の発言に煮え切らない反応をした理由の一つだった。
「でも、やっぱりすぐ辞めるのは難しいです。周りにも迷惑がかかりますから」
「他に人はいないの?」
「人手不足、透さんも痛いほど実感してるんじゃないですか?」
「うん……でも本当に代わりが務まる人はいない?」
「私、これでも色んなお仕事を任されてるんです! 簡単にだれかが代わりになれるなんて言わないで……!」
「ごめんごめん……」
 まるで尋問だ。食い下がる降谷になまえが声を荒らげれば降谷はすぐに謝った。だが参ったように繰り返される謝罪には、なまえの気を宥めるためにとりあえず繰り返しているかのようないい加減さが感じられる。
 降谷は難しい物事にたびたび挑戦してきた。そのせいか多少の無理があっても人材の補填は不可能ではないはずだと心の底で思ってしまうのだ。
 なまえは拳で降谷の胸を叩き不満を露わにする。いかなる理由があれども、簡単に辞められる仕事をしているかのような言い方をされるのは我慢ならない。だが、どうすればなまえを退職させられるかを考えてうわの空になっている降谷はなまえの抗議をものともしなかった。
 降谷は一度こうだと思い込むと中々意見を変えない頑固な面がある。なまえは次第に反論しても疲れるだけかもしれないと思い始めた。
「とりあえず話はしてみますけど……上に無理だと言われれば私にはどうもできませんからね」
「うーん……よし、わかった」
 納得したのではなく何かを決意したような顔をしているとなまえは感じたが指摘はしなかった。
「送迎は僕が毎日するから、気を遣わず電車に乗ったりはしないこと。僕の都合がつかない日は部下に頼むよ」
「そんな大げさにしなくても」
「いいから、お願い。一人で出歩かないで……」
 難しい局面に遭遇しているかのように降谷が口にするため、なまえは苦笑いを零すしかなかった。ここ数日はずっと降谷の険しい表情ばかりを見る。何が降谷を不安にさせているのかわからなかったが、降谷の心を落ち着かせるためにはなまえが折れるしかない。
 わかりましたと返事をして降谷の肩に額を乗せれば、降谷はなまえにそっと腕を回した。壊れ物にでも触れるかのようなやさしい抱擁に、降谷がなまえの余命を想ってひどい苦痛の中にいたことを実感する。
 降谷も同じ短命者であるはずなのに、どうして自身よりもなまえの死に怯えるのか、なまえにはわからなかった。
「まだ、君に話していないことがたくさんあるんだ。短命者がどれだけ危険に晒されやすいか、とか」
「どうして透さんが短命者なのに健康なのかとか?」
「それもだね」
 降谷は腕の中でもぞもぞと居心地のいい場所を探すなまえの背を撫でた。
 現在、なまえには第二性についての教育を毎日少しずつ行っている状況だ。短命者と不死者の間には特別な絆を持つ者がいること。短命者の命を救う方法として、現在確認されているのは不死者の心臓を食すことのみであること。そのほかのあらゆるすべて。
 第二性の存在すら知らないまま過ごしてきたなまえの認識を一新させるにはそれなりの時間を要する。それだけでなく、生まれ落ちた瞬間から短命者として生きてきた降谷との決定的な違いは、本来降谷たちが感覚的に理解することまでをも言葉で説明しなければわからないことだった。
 説明されても理解できているとは言えない、そんななまえの理解力が及ぶペースで教えていればおのずと危機管理能力が育まれるのも先延ばしになる。降谷はその点を最も危ぶんでいた。
 危険だと教えられても好奇心から身を乗り出し柵の下へ落ちる子どもはいる、そんな説明でなまえは自分が危険な状況にあることだけは漠然と認識したが、降谷の心配の種はまた別にありそうだとも思えた。なまえは真剣さを湛えた目の前の顔を見つめる。
「だから、君が短命者としての自覚が持てるまで、僕の過保護は終わらないよ」
 諦めて、と言って降谷が瞼にキスを落とす。驚いたなまえが小さな悲鳴を上げると、悪戯が成功した子どものように降谷は笑った。いつか元通り穏やかな日々が訪れるだろうと、そんな暢気なことを考えながらなまえは降谷の唇を受け入れた。



 降谷はなまえが短命者であることを国に報告していた。
 降谷がなまえを連れて行った病院は、降谷のような特殊な立場の人間も受診できるように配慮された施設だ。似た施設は他にもいくつかあり、表立って国との繋がりは示されていないが、裏では綿密な情報共有を行っている。
 そのため降谷が報告せずとも病院経由でなまえの情報は逐一報告がなされていたが、必要性を感じて降谷は上司を通して自ら恋人のことを報告していた。
 なまえのことで話があると言って上司に呼び出された降谷は、平静を取り繕って執務室へ入る。強面の上司の口は重く閉ざされていた。痺れを切らした降谷は手汗を不快に思いながら口を開く。
「短命者を対象とした新薬の抽選……結果はどうなりましたか」
 報告を上げた際、降谷は同時に実施が予定されている臨床試験に応募していた。本来臨床試験や治験は、対象となる条件を満たしているかを医師が判断して病院側から提案されるものだ。だが機密を扱う降谷は国主導の開発プロジェクトを初めから知っていた。
 上司の表情は変わらない。ただ硬質な声が室内に響き渡った。
「気の毒だが、許可は下りなかった」
「なっ……どうして……!」
 感情のまま大声を張り上げた降谷はハッとして机に乗り出した姿勢を正す。申し訳ありません、という謝罪こそ落ち着いているような声音だが、上司は降谷が声の震えを抑えきれていないことに気づいていた。
 降谷の態度を咎めることはせず、かといって慰めの言葉をかけることもせず、上司は淡々と事実のみを述べる。
「短命者は体が弱い。試験の対象になった者には、投薬中は何事もなく過ごしたが試験を終えてから体調を崩す人間も多くいる。彼女の場合は後天的な短命者で、前例は世界的に見てもほとんどないだろう……最悪のケースになる危険性が他より高い以上は奨励できないとのことだ」
「……」
 実に冷静で簡潔な回答だった。
 後天性の短命者という厳重に取り扱わなければならないなまえのためを思えば、たとえどんな回答であろうと真摯な内容だと言えた。だが降谷が複雑な心境であることもまた事実だ。もしかすると何事もなく臨床試験でなまえが短命者に課せられた運命を脱することができるかもしれない。確証のない希望的観測が降谷の顔を曇らせる。
「……許可が下りないとは言ったが、対象者の中にねじ込むことは可能だ。降谷……お前が希望するならな」
「どういう、ことでしょうか」
「恋人が短命者になってからのお前は見ていて危うい。懸念材料が消えて本来の仕事ぶりが戻るのなら、多少の無理は押しても構わないと思っている。もちろん、話を進めるのは恋人の承諾を得てこそだが……どうする」
 権力の濫用、一瞬そんな単語が降谷の脳裏を過ぎる。だが降谷はこれまで何度も公安警察としての力を利用して国を裏から守ってきた。今回は私的な理由でそれを行使することに多少の抵抗はあるものの、降谷が刃として正常に機能することを他でもない国が望むのだから構わないだろう。降谷は力いっぱい拳を握る。
「彼女に、話します。もし彼女が承諾すれば……臨床試験を受けさせてください」
「いいんだな降谷……一度許可が下りなかった事実は変わらない。それでもねじ込むということは、何が起こっても国は責任を負わないということだ。加えてリスクは他の患者よりも高い……」
「はい」
 圧のかかった問いに降谷は淀みなく答える。覚悟に染まった顔を見て上司がそれ以上何かを口にすることはなかった。
 話を進める方針で決まった新薬の臨床試験について、デスクの上に置いてあった書類を上司が降谷へ渡す。一枚目には薬の概説、開発の経緯、目的などが記されていた。
 降谷は受け取った書類に素早く目を通す。視線が忙しなく紙の上を這い、一文字も逃さないと言いたげな迫力を見せている。
 不死者が提供したあらゆる体細胞を用いた研究はどの国でも行われている。短命者は不死者の心臓を食すことで寿命を延ばすことが可能なため、これまでは心臓細胞を利用した薬の開発が最も効果を発揮すると言われてきた。だが日本の研究機関が開発した新薬は別の細胞が動物実験で効果を示したことに触れてある。
「これは持ち帰ってもよろしいのでしょうか」
「お前なら記憶して帰ることもできるだろう」
 目を通し終えた降谷は恋人にも見せていいものかを遠回しに尋ねた。外部への持ち出しを初めから想定していない上司の返答に、降谷はもう一度冒頭から書類を読み直すことにした。上司の言うとおり、専門用語で埋め尽くされているとしても、この程度の量を覚えることは降谷にとって造作なかった。



 舞い込んできた情報に慌てて準備を整えた降谷は、つい数時間前までスーツを着て役所仕事に取り組んでいたことが想像できないほど雰囲気の違う装いでとあるホテルを訪れていた。
 エントランスに入って周りを見渡していると前方から声をかけられる。ホテルのベルボーイが降谷の傍へ歩いて来た。
「お客様、当ホテルは本日貸し切りのパーティーが予定されております。招待状はお持ちでしょうか」
「ええ持っています……これですよね」
 形式的な対応で招待客かを確認するベルボーイに向かって降谷が微笑みかけると、相手はうっとりとした表情をしたあとはっとしたように招待状を受け取った。
「っええと、こちらのパーティーは……」
「ドレスコードがある、でしょう?」
 ベルボーイの言葉を遮って答える。懐から取り出した物を身に着ければ、安心したようにベルボーイは頷いた。手荷物の確認後、ご案内いたしましょうかとの提案を断って会場に足を踏み入れれば、豪華絢爛な内装が降谷を出迎えた。
 会場内は格調高い礼服に身を包む紳士、きらびやかなドレスを纏う淑女で溢れている。各界の富豪や有力者が集っていることが見て取れた。
 人目を惹く容姿をしているせいで、表でも裏でも社交界へ連れ出されることは多かった降谷には見慣れた光景だ。楽しげに談笑している人々が揃って仮面で顔を隠している異様さを除けば、降谷がわずかに表情を歪ませることもなかっただろう。
 社交界の場で顔を隠す理由は様々だ。本来の立場を考えずに楽しもうとする、いわゆる無礼講と呼ばれる趣旨のとき。参加者の中に立場が公になると困る人物がいるとき。仮面に施された装飾で財や権威を示すとき。また、それら複数の理由があるとき。
 この場合は、他に比類ない財を見せびらかしながら、それを掠め取られることがないように参加者達は仮面をつけていた。堂々たる紳士淑女の横で呆然と立ちつくす財は人身売買によって自由を奪われた短命者だ。
 ここは正当でない手順によって調達された短命者を高値で売買する闇オークションの会場だ。
 オークション開始までは参加者が各々新たな出会いに期待を膨らませたり、手持ちの短命者を自慢したり、短命者についての情報交換を行ったりする場が設けられている。すでにコレクションを持っている者は、鎖にまで宝石をあしらったものを準備して手持ちの短命者を着飾らせていた。
 降谷は会場内を見渡し、仮面の奥にあるだろう素顔を探る。目ぼしい人物を見つけて悠々とそちらに向かって歩き出した。
「ご歓談中に失礼します」
 ワインを片手に談笑していた男が、突然会話へ横入りしてきた降谷に視線を投げる。
「ミスター、僕の間違いでなければ貴方は南半球に影響をお持ちの方だとお見受けします。ぜひお話を伺いたいのですが……」
「私の顔を知っているのは嬉しいが、仮面の意味を考えてくれないか。今日はビジネスで来たわけではないのでね……」
「そう仰らずに……黒いカラスは、ぜひ貴方の審美眼に助けを乞いたい」
 抑えた声で、男にだけ聞こえる言葉を発すると男の態度が一変した。付き添いの人間に財の管理を任せると人目を気にしながらバルコニーへ移動する。きっちりと窓を閉めて降谷に向き直った男の瞳は権力の気配に爛々と輝いていた。
「イライアス・ブルック氏、お会いできて光栄です」
「私もだよ。君は……ネームドかね」
「バーボンと呼ばれています」
「そうか、よろしくバーボン。それで話というのは……」
 男は期待を隠し切れていなかった。世界を牛耳る犯罪組織に対する態度は三つある。怯えるか、恭順するか、対抗するか。男は一つ目ではないようだった。
「実は短命者をより美しく、芸術へ近づけるための開発を行う動きがあります。試験段階ではあらゆる方法を試していますが、いざ実証へ移るとなったときに貴重な短命者を消耗するわけにもいかず、かといって短命者の情報が集まらないままでは臨床もままなりません。そこで多くの短命者を仕入れている貴方に協力を仰ぎたいと考えたんです」
「ああ……私はだれよりも財産を持っているからね」
 だれよりも多くの短命者を所有していることを男は誇りに思っていた。こういった社交界で周囲に羨まれることを少なからず楽しんでいた男は、第一人者と判断して頼ってきた降谷に気を良くする。
 対する降谷は自らの行為に嫌悪感を募らせていた。脆弱で碌に抵抗できないのをいいことに短命者を攫って物のように売り買いする犯罪者と、短命者を物として扱う会話を交わしている。平然を装えることすら唾棄すべきものだ。
 脳内に恋人の姿がちらついて仕方ない。たとえこれが短命者になった恋人を一時間でも長く生き長らえさせる方法を探すためであっても、犯罪者たちが我が物顔で闊歩しているのを見逃している自身が許せなかった。
「それで、どんなことが知りたいのかね」
「貴方が保有している短命者の中に、突然変異体がいるかを教えていただけますか?」
「私は気に入った子しか集めない主義でね、事前に良く調べて目をつけておくから私の子たちは全員生まれたときから健康で……待ってくれ、突然変異体? それは具体的にはどういう……」
「例えば……一般人から短命者になった者……」
 降谷の言葉に男の瞳がきらりと光った。
 男の頭の中で、突然変異体の情報を集めてどうしたいのか、という疑問はすぐさま突然変異体を作ろうとしているのだという結論となり、一般人から短命者になった者を探しているのはそういうルーツで短命者を作ろうとしているのだという可能性が導き出される。
 今よりもっと多くの短命者が、男の好みを完璧に満たしたオーダーメイドで手に入るようになればどれほど素晴らしいか。そう考えた男は鼻息を荒くする。突然変異体の短命者は知らないが、そういう人間を作るためにいくらでも短命者についての情報を集める。男は意気揚々とそう降谷に約束する。
 イライアス・ブルックは最も有名なコレクター≠フ一人だ。偶然来日中だという情報が転がり込み、降谷はもしやと思いここへ駆けつけたわけだが、男は何の情報も持っていなかった。
 男から情報を聞き出すためにその場でついた嘘を現実にするつもりは微塵もない。期待に沿う情報が得られず降谷は見るからに肩を落とす。目の前の男に礼を口にすることも、連絡先を交換することもなく降谷は会場をあとにした。



「枝毛が一つもない……」
 なまえは持ち上げた毛束の先をしげしげと見ながら呟いた。ソファへ横になり、額には熱冷ましを貼って、分厚い毛布をかけられているとは思えないほどその肌は血色がいい。
 呆れと心配を半々にした叱咤がキッチンから飛ぶ。洗い物を終えた降谷が、経口補水液を片手にリビングへとやって来た。テーブルに置かれていた薬を取ってなまえが横になっているソファ近くに膝をついた降谷は視線でも言葉でもなまえを叱り付ける。
「病人は大人しく寝てること」
「病人って……ただの微熱ですよ」
「短命者には微熱も毒だよ。ぼうっとしてる」
「だって」
 なまえは口を尖らせるが降谷は言い訳を聞く気がない。薬が入った袋を逆さにして粉薬が入った小袋を一つだけ切り離すと、封を切ってなまえの口元へ運んだ。
 上を向くように促されたなまえは黙って口を開く。さらさらと喉を覆いつくす粉に軽く咳込むと、渡された経口補水液ですべて流し込んだ。舌を出して粉薬の苦さを主張すれば降谷が小さく笑った。
 なまえが短命者になったきっかけは爆破事故だと医師は結論付けている。どうして後天的に短命者になったかは原因不明だが、爆破事故による精神的な負荷に誘発されたことは間違いないとのことだ。
 高熱は、短命者として変質しようとする細胞に体が順応と抵抗を繰り返していたためだと見られていた。一度変化を受容した体はよほどのことがない限りこのままゆるやかに変化していくだけだろう、なまえと降谷は病院でそう聞かされた。
 医師の言葉通り、なまえは自身すら気づかない速度で変わっていった。変化が目に見えるようになったのは一か月以上が経過した頃だ。
 まず気がついたのは肌質だった。毛穴が目立たなくなり、なめらかな肌になっている。スキンケアや化粧に気を遣っていたなまえは、陶器のようにしっとりとした肌を手に入れたことに歓喜した。
 次に髪の手入れが不要になった。少し癖のある髪はコシが出て、傷みづらくなった。風に遊ばれても絡まないことがこれほど楽だとは思わなかった、となまえは驚く。梅雨の時期はいつも入念に髪をセットしなければならなかったが、次からはその心配も無用だ。
 太りづらくなった、どの服も着こなすようになった。こうして少しずつ全身が作り替えられているのを実感したなまえの喜びも長くは続かなかった。変化が訪れるたびに、なまえは病弱になっていくのを感じた。わずかな外気の変化でもすぐ熱を出すようになったのだ。
 なまえが短命者になってから、とくにこうして体調を崩すようになってから、降谷は「一緒に過ごしたい」と言葉にしたとおりなまえに時間を割くようになった。
 ただ、これまでとは比にならないほど恋人は会いに来るが、頻繁に寝込むこともあってあまり外へ出ない日が続いている。図らずして外を一人で出歩かないようにという降谷の言葉を守る形となったなまえは多少の退屈を覚えていた。
 だが退屈を差し引いてもなまえの表情は明るい。それこそ、起き上がって毛束を弄る程度には気楽に過ごしている。
「ほら横になって。頭を使いすぎると知恵熱が出るよ」
「ねえ透さん見て見て、髪の毛、枝毛がなくなったんです」
「そうだね」
 頬を上気させた顔で無邪気に話しかけてくるなまえの頭を撫でる。降谷が子どもをあやすようにやわらかな声で同意するとなまえはふにゃりと笑った。
「風邪は引きやすくなったけど、お肌は綺麗になるし髪の毛はさらさらになるし、いいことづくめなのに」
 降谷は、その言葉には同意できなかった。唇の端を持ち上げたまま黙りこむ降谷になまえは気づいていない様子で、室内灯に向かって手を掲げている。光で透けた手は、昔よりも白く透き通っているせいか青い血管が浮いて見えた。
 なまえが実感している以上に、降谷にはなまえの変化が如実に感じられる。人よりも観察眼が鋭いことが理由だろう。本人が口にするとおり、見た目も触れたときの感覚も記憶にあるなまえとは違っていくのを降谷は日々感じていた。なまえが喜んでいる手前何も言わないが、降谷は必ずしもなまえの変化をいいものだと受け入れきれないでいる。
 肌質が改善された、髪にコシが出た。その程度の変化で留まってくれればと降谷は願わずにいられない。先日非合法のオークションなどに出向いたばかりの降谷はいつも以上にままならない気持ちにさせられた。
 それでも、降谷の心は以前と比べれば休まった方だろう。国主導の臨床試験があることをなまえに知らせれば、不満気な顔をしながらも渋々と臨床試験を受けると承諾したのだ。
 なまえに訪れた変化は、体調を崩しがちになったこと以外はなまえにとって悪いことではない。だが何度も説得を試みる降谷の必死な様子を見ればなまえは提案を跳ね除けることができなかった。
 なまえの承諾が取れると降谷はすぐに臨床試験の申請を行い、手続きの段階へと移った。
 未だ過渡期にあると思われるなまえの体調を鑑みて臨床試験を進めるとの決定を下した研究機関は、なまえの体調が良いときに一度精密検査を行い、その検査結果に合わせて投薬の量を決めると通知する。他にも保険の適用や家族への説明など諸手続きに時間を要するため、現在は体調を整えて精密検査を待つ段階である。
 発熱で汗の浮く肌に触れる。しばらくそのままでいると、降谷の体温が心地いいのかなまえがうとうとと微睡み始めた。なまえの額に張り付く前髪を掻き分ける。降谷は願わずにはいられない。どうか明るい未来が恋人の元へ訪れるようにと。



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