10

 静寂に満ちた夜、ミス・ロレンシアは初めて海を下りて日本の土地を踏んでいた。
「バーボン、ベアトリスがもうずっと帰っていないのは知っている?」
「本庄に呼び出されてどこかへ出向いたあと行方がわからないそうですね」
「そうなの。……ベアトリスを殺したのは貴方?」
 探るような気配はない。ミス・ロレンシアの言葉はただの確認だった。僕を責めるでもなくひたすら静かに見つめている。
「証拠は?」
「ないわ。だけどバーボンが警察と繋がっているかもしれないと相談されたの。アタシは彼をどう思うか……ってね。次の日からずっと連絡がつかなくなったから、ゼウスが逮捕されたと言うし貴方が殺したんだろうと思った。素性がバレた口封じにね」
 死体を見たわけでもないのに確信を持っているミス・ロレンシアに、真実を隠そうとするだけ無駄かと判断する。あの日の状況を握っているのだとしたら、他のメンバーならともかく、僕のかつての立場を知るミス・ロレンシアを欺けるわけがなかった。頑なに事実を認めなかったせいで勘違いされ、彼女に手を出されては敵わない。
「そうだ、僕が殺した」
 平然と肯定すれば一瞬で膨らんだとてつもない怒気が僕を襲う。
「あの子には手を出さないと、そう約束したはずよね」
 再度確認を取る言葉にも肯定を示した。
 ベアトリスの能力について、ひいては彼女の素性について僕は以前疑問を投げた。僕にとって情報は他のどんなものよりも重要性が高いと。ベアトリスの素性が知れないままであれば警察の伝手を使って調べて回るしかない、と。
 余計な詮索を入れられるよりは自分が話した方がいいと判断したミス・ロレンシアは、引き換えにベアトリスの命の保証を懇願した。大した罪も犯せないから脅威にはならない、だから僕がベアトリスを不都合に思った分だけ、その咎を自分に背負わせてくれと。
 どうして友のためにそこまでするのか当時も疑問に思ったものだ。だが僕はミス・ロレンシアの条件をのんだ。だが結果的に寛大どころか制裁まで与えたことになる。
「ベアトリスは、君を繋ぎ留めるため僕にとっても失ってはならない人物の一人だった。……殺すつもりはなかった、だがベアトリスは僕の大切なものに銃口を向けていた。ベアトリスか、彼女か。悩むまでもなかった」
 ミス・ロレンシアの肩は震えている。表情に滲んだ感情は怒りか悲しみか判別がつかないほど複雑に歪んでいた。
「ベアトリスは……あの子は」
「妹、ですか」
 僕の言葉に目を見開く。「知っていたの、」とつぶやいたが、にわかに信じられないといった色も含まれていた。
「僕は表社会にも裏社会にもある程度の立場を持っている。一つでも彼女の情報を掴めば生まれた瞬間まで記録を遡ることだって可能だ……」
 ミス・ロレンシアは自分とベアトリスが血の繋がった兄妹であることだけを伏せて他のすべてのことを僕に話していた。嘘は一つもなかった。だから、二人の血が繋がっていると知ったときにまず考えたのはベアトリスの出生についてだった。
 視線を落としたミス・ロレンシアは絞り出すように声を紡いだ。ベアトリスと似た澄んだ耳触りのいい声で、昔の記憶を吐き出すように口にした。
「父親が違うの。父が死んで、アタシは母と二人で暮らしてた。出稼ぎに出ている間、母は王子の一人と恋に落ちて──結ばれることはないことはわかりきっていた、だから夜を共に過ごしただけ。それも、たった一度だけ。だけど母はあの子を身ごもって、あの子を生むために、あの子の父親を守るためにアタシを連れて国を出たわ。だけど……」
「母子には借金があった」
「そうよ、暮らしていくために生まれた借金。でもそれは、結ばれないせめてもの償いにとあの子の父親が工面した金で清算できた。……アイツは、突然大金を用意した母にパトロンができたと知ってさらに搾取しようと考えたのよ。何とか逃げ切ったけれど、臨月間際までアタシを連れて逃げつづけていた母は体も心もぼろぼろだった。なんとかあの子を出産したけれど、そのあとすぐに死んでしまったわ……」
 記録、人の記憶にさえ残らない部分以外はすべて調べたとおりの情報が語られる。
「助けてくれる大人はいたけれど、頼れる大人はいなかった。アタシがあの子を守り育てるしかなかった……父親を知らないアタシは父親代わりになることができない。だから自分の性別を捨ててあの子の母親になったの。……あの子には嘘をついた、愛されて生まれた子が親の手で手放されたなんて言えなくて……それなら初めから孤児であればいいと、そう、思ったのよ。……だけどあの子は自分が何者かにひどく囚われていた」
「彼女は貴方と共に裏社会で生きる過程で自らの生まれを探し当てた」
 そうよ。頷いたミス・ロレンシアの声は沈んでいた。
 目の前で項垂れる憐れな兄の心境はわからない。ただ妹に真実を探し当ててほしくなかったことだけはたしかだろう。二人は一回りほど年が離れている。それでもまだ幼かった子どもが妹の心を守るために必死に考えた嘘の日々がすべて無に帰したのだから。
 学があればもっと上手くベアトリスを言い包められたのだろうか。そう自嘲するミス・ロレンシアに返す言葉はない。
「アタシを見て育ったからかしら、あの子はアタシそっくりだったわね……詐欺師として、あの子はずっと二流だった。人生の大半を自分の生まれを探り当てることに費やしていたから、演技はいつでも情報を得るための一時的なミスディレクションで、いざ真実を掴めば王族らしい振る舞いにこだわって品に欠ける仕事は端から断った。だけど育ちが貧しいから王族にもなりきれない……」
「真実を言えば良かったんだ。そうすればベアトリスも救われた……」
「そうね、そうかもしれない……だけどそれももうできない」
 ベアトリスを想ってやわらいだ声が、僕の言葉によって再び硬くなる。僕たちの間に漂う空気が張り詰めて肌をひりつかせた。
「彼女が大事だから君の妹を殺すほかになかった。だから君の気持ちはわかる。……僕は死んでも構わないよ」
 僕は死ねない。彼女を繋ぎ止めるのは僕だと彼女に言われてしまったから。……だがベアトリスの件でミス・ロレンシアに殺されるのだとしたらそれは仕方のないことだった。
 悔いは生まれる。だが割り切れる。彼女にとって、僕が闇の中で消えてしまった日のためのデルタ≠残してきた。
 ミス・ロレンシアの顔を真っ直ぐ見据えれば、信じられないものを見るように目を見開かれた。彼女のために躊躇なくベアトリスの死を選んだ男が、選び取った彼女との未来を手放すなど有り得ないと感じたのだろう。
「どうしてそう思えるの。貴方、警察でしょう。正義のために死ねないとか……ううん、おそろしいとは思わないの? ……いいえ……あの子を殺しただけでなく、その死の理由すら簡単に捨てると言うの……!」
「……闇に足を踏み入れた時点で僕は君たちと同じ存在になった。僕たちは法に縛られないのと同時に法に守られることもない、だからこそ昨日と明日とで敵にも味方にもなり得る。……ましてや君は大切な人を僕に殺された。それがたとえ僕の大切な人を守るためであっても、君に僕の事情は関係ない。君の気持ちに僕の気持ちは関係ない……」
 ミス・ロレンシアは静かに耳を傾けていた。その瞳から一筋だけ涙が流れる。
「彼女を守るためなら、死んだって構わないさ」
 ザア、と夜の海が凪いだ。漁火さえ上がらない今日の夜は冷たい。朝日を望むことが叶わないなら、瞳の裏に浮かぶ彼女を見ていよう。そう思って瞳を閉じる。
「……アタシが貴方を殺せば、日本警察は今度こそアタシを見逃さないでしょうね」
 無感情な声だった。目を閉じているせいでどんな顔をして言ったのかまではわからない。
「僕の上司だった人は、今僕が何をしているかさえ知らない。彼女伝いに報告を聞くのみで、君の詳細も伝えているわけじゃない。……組織が壊滅したとき、見逃す代わりに僕の手足になれと言ったが、日本には免責合意がないからあれは僕の一存だった」
「そういうこと、言わなくてもいいわ。貴方の大切な人に危害が及ばないようにアタシの安全を保証するようなこと……」
 ミス・ロレンシアは諦めたように口にした。力なく投げやりな口ぶりで、はっきりと言葉にされたわけではなかったが、明らかに僕に許しを与えていた。
「ミス・ロレンシア、僕は、」
「いいと言ったの。貴方が本気で彼女を愛しているんだということはわかってる。同じように、彼女から愛されていることもね……。幸せになるのって難しいのよ、それをわかっていてその幸せを奪うだなんてアタシがアタシを許せない。……あの子もアタシの言うことを聞けばよかったんだわ。止めたのよ、バーボンについて探るな、と……」
 言葉に嘘はなかった。怒りはなりを潜め、悲しみだけを滲ませてミス・ロレンシアはベアトリスの死を悼んでいる。閉じていた目をゆっくりと開いてグレーの瞳を見つめた。
「……いいのか」
「良くはないわ。でも、これでいいと思うことにするの。あの子がしがらみから解放されたように、アタシもあの子から解放された……あの子のことは大切だったけれど、あの子がいたからアタシは人生を捨てなきゃならなくなった。だから、これからはアタシの好きに生きるわ。アタシがアタシの人生を謳歌する間は、貴方とはビジネスパートナー。そういうことにしましょ」
「そうか……君がそれでいいならそうしよう」
「……というか、そうするしかないのよ。仮に貴方を殺して、すぐに追っ手が来なかったとしてもアタシは必ず日本警察に裁かれる。貴方のその失われたブルーグレーの瞳が、罪を犯すアタシを見ているから」
 僕の色違いの瞳を見ながらミス・ロレンシアは口にした。
 単に保身に走ったのではなく休戦を申し込んできた彼に少しだけ驚く。僕が隠している真実をどうして見抜けたかはわからない。だが賢い男だと、失われたブルーグレーはそう告げた。

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