Ray of Hope




 季節はすっかり夏らしくなり、汗ばむ日も次第と増えていた。昼はそうめんを食べようかと恵は棚を漁る。
 冷たいものばかりでは体を冷やすよ、という降谷の言葉をふと思い出す。帰宅すれば冷えたビール、風呂上りにはアイス、そんな毎日を繰り返す恵を見かねて降谷が苦言を呈すのだ。恵はそうめんを片手に考え込む。──やはりにゅうめんにするか。
 恵は冷凍庫を開けて降谷が作り置きしている数種類の出汁と睨み合った。降谷は料理好きが高じて色々なものを作る。店頭では見ることのない珍しい出汁もその一つだ。出汁だけでなく、作りすぎた料理も小分けにされて冷凍庫の中に所狭しと並べられている。
『干し大根・いりこ』の文字が恵の目に付いた。気になった出汁をパックごと冷蔵庫から取り出す。パックの中にはキューブ型の出汁が数個残っている。減り方を見るかぎり、降谷も常用するもののようだ。
 昼間から降谷が作り置きした料理まで消費してしまうのはもったいない。恵は他の品は自分で適当に作ることにした。冷蔵庫内にトマトと麩がある。出汁を混ぜた卵液に切って放り込み、フライパンで蒸し焼きにすればもう一品まかなえそうだ。手軽だが十分腹を満たせる気がする。恵は早速調理にかかることにした。
 熱を放つ鍋とフライパンは少し煩わしい。恵は顔に纏いつくような熱気に顔を顰める。味見をしていればキッチンの向こうで物音がした。
 ハロがベッドの隅に身を隠している。隠しきれていない白い毛を不思議に思って恵は声をかけた。
「ハロ? どうしたの?」
 ハロは小さな体をびくりと震わせた。そしてベッドの影から姿を現し、恵の足元へ擦り寄ると、ごろりと寝そべって腹を見せた。ぴすぴすと小刻みに震える鼻をしきりに舐めている。
 ははあ、と得心がいった恵は意地悪く声をかけた。
「また悪戯したんだね。ギターかな? 洗濯物かな?」
「クゥン……」
 恵はクッキングヒーターを止めてベッドまで歩み寄る。
「土の匂いがするから……ああ、やっぱり、プランターが倒れてる。だめじゃない、零さんからいつも怒られてるのに」
「アン」
 わずかに開かれたガラス窓の奥は、ひっくり返されたプランターと零れた土、植えられていた苗で悲惨なことになっていた。
 叱りながら恵はハロを撫でる。それだけで許されたと思ったのか、ハロは丸めていた尻尾を左右に揺らす。だが恵がわざとらしく低い声を出せばハロはまた尻尾を丸めた。
 仕方ないと言いたげに「秘密にしておいてあげる、今日は特別」と微笑んだ。人懐っこく、愛嬌のあるハロを恵は可愛がっている。シィ、と指を立てて唇に添えた恵を見てハロは元気に鳴いた。この犬は、まるで人語を解するかのように返事をする。
 恵が食事にありつけたのはベランダを片付け終えた後だ。すっかり伸びきった麺を口にするはめになったが、恵はスキップでもしそうなほど機嫌がいい。実は明日から三日間、恵と降谷は旅行することになっている。多忙な降谷が何とか時間を見繕ってきたのだ。
 恵が組織絡みの誘拐事件に巻き込まれて以来、降谷はすっかり心配性になってしまった。恵がどこへ外出するかを逐一訊ね、交友関係さえ把握しようとする。
 しまいには極力出かけないようにしてほしいなどと言い始め、とうとう恵は呆れたものだ。元来出かけることをそう好む方ではない恵が、これ以上外出を制限しては軟禁同然である。降谷が恵の警戒心を買っていた頃が恋しく思えた。
 また、どうしても恵を傍に置きたがった降谷は同棲を提案した。恵は二つ返事で了承し、数ヶ月ほど穏やかに過ごしていたかと思えば、ほどなくして籍を入れた。「これからは一緒に」を有言実行したわけだ。
 率直なところ、あまりの急な出来事に、たっぷり一週間は家庭に入ったことを理解できなかった。
 まさかだれかと結婚するなど思いもせずに生きてきた恵は、降谷と出会ってから恋人というものを知り、夫というものを知って驚きの連続である。それでも降谷と過ごす日々は楽しさに溢れていた。
 掴むかもわからなかった幸せを手にした今、恵は充分と言えるほど満足していたが、やはり大切な人と同じ時間を過ごせるのは嬉しいものだ。それが共有できる時間が少ない降谷相手であればなおのこと感じられた。
 つまり、これは降谷と恵にとって新婚旅行になるのだ。


 尻尾を追いかけて遊ぶハロを見て腹を捩りながら夕飯を作っていれば、もう少ししたら帰宅するという連絡が降谷から届いた。料理の仕上げをしていれば、降谷がインターホンを鳴らすのはすぐだった。
「こらっ、僕もそろそろ本気で怒るぞ」
 キャゥン、とハロの悲痛な鳴き声が響く。
 帰宅するなり、ベッド脇が土で汚れていることに気づいた降谷はハロが悪戯をしたのではないかとベランダを見た。ベランダは綺麗に片付けられていたが、目敏い降谷はプランターに戻しきれなかった分の土嵩が減っていることを見逃さなかったのだ。
 上から降りかかる圧にハロは腹を見せることも叶わず、腹ばいになったまま耳を横へ倒している。「ハロ? 僕の話を聞いていないことはわかってるんだぞ」とさらに厳しい声で指摘する降谷に、ハロは軽く唸って抗議の声を上げた。反抗的な態度に降谷が視線を鋭く尖らせればハロはまた大人しくなる。
 秘密にしておくとは言ったが、降谷に隠し通すのが無理なことを恵はわかっていた。困ったような笑みを浮かべた恵は、愛くるしいハロが縮みあがっているのが可哀想に思えてきて助け舟を出すことにする。
「零さん、そのあたりにしてあげて? ご飯も冷めちゃうから」
「……ハロは?」
「もうあげちゃった」
「そうか」
 怒っていても、ハロの食事を気にかけるあたり、降谷もまたハロを相当かわいがっているのだった。
 テーブルに並んだ料理を真下に、にっこりと微笑んで手を合わせた降谷は、噛みしめるようにして料理を胃に収めていった。旅行のために数日の間は職場で日を跨ぎながら仕事をこなしてきたせいか、降谷の口癖になっている「やっぱり人の作った料理は美味しいなあ」という言葉がやけに呟かれた。
 降谷の方が料理上手だが、降谷が言いたいのがそんなことではないことは恵もわかっていた。
「どうして悪戯するんだろう……昔からなんだ」
 不思議そうに降谷が疑問を零す。ハロの土いじりのことだ。
「賢い子だからだめだとわかっているだろうに。他のことはだめだと言えば覚えてくれるのに、あれだけは覚えてくれないんだ」
「不思議だね」
「前はセロリをだめにしてね……」
 食事を進めながらぽつりぽつりと話す降谷とハロを交互に見る。ハロの土いじりは必ず降谷の逆鱗に触れる、そう前々から感じてはいたが、発端はセロリにあったようだ。恵は納得した。セロリは降谷の大好物である。食べ物の恨みは恐ろしい。
 降谷の話を聞いているうちに、ハロはわざとプランターをひっくり返しているように恵は思えてきた。降谷が言う通り、ハロは聞き分けのできる犬だ。犬を飼ったことがない恵の手を焼くこともない。そんなハロが、降谷の注意を理解できていないとは考えられない。
 悪意があって悪戯しているのでもなかった。ハロは降谷が大好きだ。長く家を空けた日は、久しぶりに帰宅した降谷へ飛び掛からんばかりの勢いで駆け寄っていく。
 恵は唸り声を上げた。
「もしかして、ハロは苗の世話をしてるつもりじゃない……?」
「ええ……? まさか」
 ぎゅっと眉根を寄せながら苦笑した降谷はハロを見る。犬は仲間意識が強く、飼い主を家族だと認識しているとは良く言われる。幼児の世話を焼く犬もいるが、明らかに動物ではないものの世話をするほど高い知能までもが備わっているとは考えづらい。
 だが、降谷はしばらく考え込むと「そうなのか?」とハロに向かって訊ねた。降谷の足下で行儀よくおすわりをしていたハロは、降谷に問いかけられて「アン!」とひと鳴きする。場に沈黙が漂う。
「……賢いやつだよ、お前は」
 そう言って降谷は手を伸ばし、ハロの頭をわさわさと撫でた。
「綺麗に片付けたつもりだったのにバレちゃうなんて、ねえハロ。零さんに隠し事はできないよ」
「それが僕の仕事だから。プランターの件は後で考えるとして……」
 ハロがこれまで土いじりをしたことは水に流すとしても、再犯を許すつもりはないらしい。恵は苦笑する。使った食器をシンクへ持って行った降谷が、恵を振り返りながら訊ねた。
「旅行、どこか気になる場所はあったか?」
「うん、パンフレットに付箋貼ってるよ」
「どれどれ……」
 テーブルに置かれた旅行のパンフレットを指して恵が答えれば、降谷は食器を水に浸し終えた後それを手に取る。ソファへ腰かけて、付箋に指をかけると該当するページを開いた。
 恵も降谷の隣に腰かけてパンフレットを覗き込む。
「ここ、写真だけでも綺麗な滝でしょ? 見てみたいなって」
「最近暑いからな、涼しくていいんじゃないか。……待って、ろくろ体験……」
「零さん絶対反応すると思った……」
「いいだろ、好きなんだ」
 明るい声が響く室内、二人の足下でハロがあくびをした。


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