蜘蛛の糸・恵




 安室と親密な関係になり、人嫌いに多少改善の兆しが見られた恵は、過剰な警戒心を抱くのをやめることにした。常に気を張らずとも、危ない人間が視界に入ればすぐに対応できる、と安室が恵の危機管理能力を評価しているのだ。無用に自分の世界を狭めるべきじゃない、と説得された恵は、外出する機会が格段に増えた。
 今日も恵は休日のショッピングを楽しんでいる。ところが、米花町では事件に休みはないらしい。
「安室くん、ではこの状況をどう説明するのかね!」
「つまり犯人は証拠を消すべく──」
 目暮がわざとらしく推理をしてみせる安室に焦れていた。腕を組み、片手を顎に当てる安室は、後ろから見ても様になっている。恵は数秒考えたあと、頬の筋肉を引き締めて決意した。──関わり合いになりたくないから気づかれる前に消えよう、と。
 だが向けられた視線と、気配を殺すような気配に安室は目敏く反応した。潜入捜査官時代の名残である。そろりそろりと足を忍ばせる恵に速足で近づき、瞬く間に距離を詰める。肩をがっしりと掴まれた恵は思わず「げっ……」と漏らした。
「何ですか、その反応」
 その声音は、朗らかな喫茶店員のものではない。口調は丁寧だが、部下に指示を出すときの降谷零が垣間見えていた。
「あ、安室さん……こんにちは。いいお天気ですね」
「ええ、散歩日和です」
 安室がかすかに苛立っていることを感じ取った恵は、言葉が尻すぼみになっていくのを何とか堪えながら苦し紛れの挨拶をした。苛立っていても、場しのぎの言葉だとわかっていても、安室はきちんと返事をする。律儀な男だ。
「あの、皆さんで集まって何かお話していましたよね」
「事件が起こりまして」
 見ればわかる。互いにその言葉を頭に浮かべながら、白々しい態度を取っていた。
「じゃあすぐに戻らないといけませんね」
「そうですね。ササッと解決してパパッと戻ってくるので、待っていてもらえますか?」
「えっどうして?」
「事件を解決したら偶然会った恋人とデートしようと思うことに何か問題が?」
「まさか。でもお邪魔でしょうから帰ります」
「巻き込まれたくないから帰りたい、の間違いでしょう」
 あまりにも明け透けな安室の言動に、恵は言葉を詰まらせる。口を閉じれば、恋人という安室の言葉が途端に気になり始めた。
 付き合っていることを隠しているわけではないが、安室──降谷の立場を考えれば公にもできず、降谷が多忙を極めるせいで碌に恋人らしいこともしていないので、恵はいまひとつ降谷と恋人だという実感が薄かった。だから、元は人嫌いということもあり恋人という単語を出されるだけでも、恵は自分の核心に触れられているような感覚がして落ち着かなかった。押し黙る恵を降谷は意地の悪い表情で見下ろす。
 推理の途中で現場を投げ出した降谷に向かって目暮が不満を叫んだ。ポアロを辞め、本来の職務に戻っている降谷は、利便性の観点からこうして未だに安室透の偽名を使い続けていた。
 降谷の立場を知れば目暮はこれ以上ないほどに目を剥き態度を改めるのだろうが、それはまだ先の話である。
「車はそこに停めてあるから、中で待ってて」
 降谷は恵の手に愛車のキーを握らせ、有無を言わさずに現場へと戻っていった。恵は溜息をつく。車内で待っているしかなかった。

 車は目と鼻の先に停まっている。何気なく現場の方を見ていれば、降谷と目が合った。恵を見て相好を崩すので、恵は照れから口をまごつかせつつ、手を振る。──降谷の笑い方は爽やかだが、どこかかつての安室を彷彿とさせて恵に多少の苦しさを与える。
 事件は無事解決したらしく、降谷が運転席へ乗り込んでくる。すぐにエンジンをかけることはせず、助手席に座る恵をじっと見つめた。
「……? どうしたんですか」
「いや……久しぶりだなあと思って」
「言われてみれば……一か月くらいは会ってない?」
「……二か月半だよ」
 互いの温度差に微妙な空気が流れる。失敗したと恵が気づくのと、降谷の機嫌が降下するのはほぼ同時だった。
「恵さん、キスがしたい。いいよね」
「だめです」
「いいやする。恋人を無下に扱った罰だ、観念しろ」
「絶対だめ、だめですからね!」
 助手席に身を乗り出す降谷の胸を恵は全力で叩いた。
 降谷の車は表通り、加えて事件発生で刑事の人数が増えている道の路肩に駐車していた。以前に比べれば徹夜する機会は減ったと聞かされたこともあるが、車内でキスを迫るなど正気ではない、今日の降谷は徹夜明けだ。恵は直感する。
 攻防はしばらく続いたが、恵が本気で嫌がっていると判断した降谷は気落ちした様子で座り直した。降谷と押し合い問答を繰り返す間、ずっと通りを歩く人々の視線が車内に飛んでいた。しまいには心配した人間から窓ガラスをノックされる始末だ。
 機嫌を損ねた恵が降谷を睨んでいると、運転席に体を沈める降谷も口を尖らせて「キスしたくなるからあまり見つめないでくれ」と言う。まだ言うか、と恵は半眼になった。
 気持ちを入れ替えるように車のエンジンをかけた降谷は、ウインカーを立てて車を発進させる。ルームミラーを見るときに視界に入ったのだろう、後部座席に置かれたショッパーを見て恵に尋ねた。
「買い物?」
「服を少し。次のシーズンで着ようかと思って」
「他に買うものがあるなら途中で寄って行こうか」
「もう買い物は済みました。帰ろうとしていたところだったんです。……途中で寄って?」
「言っただろ、デートがしたいって」
 本気だったのか。降谷の言葉に驚いていると、恵の顔を見たわけでもないのに驚くことないだろうと不満たっぷりの言葉を吐き出される。
 そうは言うが、潜入捜査を終えて階級が上がった降谷は、現場に出なくなった代わりに庁舎での拘束時間が増え、本当に多忙を極めているのだ。潜入捜査時代も多忙に変わりはなかったが、今では打って変わって時間の都合がつかなくなっていた。
 正式に交際届を提出している恵は、降谷の立場をよく理解している。理解がありすぎて困ると降谷は思っているが、休日にラフな格好をして街中にいても、安室透の演技をして職務にあたっていると恵は察したのだ。だからこそ、この後は恵に時間を割く素振りを見せられて非常に驚いていた。
「……夕方、会いに行く予定だったんだよ。でもここで会えたから予定を繰り上げることにする」
 やはり仕事中だったのだ。それなのに良いのか。
 恵は降谷を心配したが、何を言っても譲る気配がなかったため追及しないことにした。久しぶりに一緒に過ごせるのは恵としても喜ばしい。外の景色を楽しみだした恵を横目で見て、降谷も満足そうな顔をした。

 映画を観て、街中を歩いて、たまにしか会えない恋人に贈り物がしたいからとあれこれ物品を買い込まれて、夕飯を済ませた。
 降谷と共にいると他人の存在がそう気にならない。恵は、降谷と外を歩くのは好きだ。もちろん、何が起こっても安心だという観点からも言える。降谷の隣は、恵が一番落ち着ける場所になっている。降谷も同じだった。
 ドライブに行こうか、と恵の返事も聞かずに降谷は車を走らせた。いつものことなので恵は気にも留めない。降谷は運転するのが好きなのだ、きっと一人でいるときも時間が空けばどこかへ出かけているに違いない。
 到着した頃には日が沈んでいた。車を降りた先に東都の美しい夜景が広がっている。
「こんな綺麗な場所、どうやって見つけたんですか?」
「仕事中……かな」
「なるほど」
 それだけで次の話題を探す恵に降谷は苦笑する。
「安室さんって……」
「零」
「……零さん、って料理が美味しいお店を沢山知ってますよね。それも仕事中に?」
「いや、それは趣味。美味しいものが好きなんだ。息抜きによく口コミサイトとか見るよ」
「口コミサイト……一番当てにしなさそうなものなのに」
「情報を篩にかけるのは得意だからな、媒体を選ばないだけさ」
 降谷の口から予想もしなかった単語が飛び出してきたことに恵は目を丸くした。降谷が可笑しそうに肩を竦める。
 人格統合の後、降谷と恵は紆余曲折を経ることもなく過ごした。恵が想いを寄せたのは安室で、降谷ではない。また降谷も、恵に対して抱いた気持ちは安室のような激情ではなかった。それでもゆるやかに互いを想い合い、恋人となった。
 出会いを考えれば信じられないものだが、二人はとりとめもない会話や、くだらない掛け合いを気兼ねなくできるような間柄になっていた。
「安室さんに連れて行ってもらったレストランも美味しかったなあ」
「安室≠ニ?」
 降谷が美味しいものを食べるのが好きなのであれば、安室もそうだったのだろうか。
 そんな疑問が浮かんできて、自然と恵は思い出を口にしていた。降谷が聞き返したことではっとする。バーボンや、安室の話題を降谷の前で出すことはほとんどなかった。機密性の高い降谷の仕事、その中で最も厳重に鍵がかけられている項目だとわかっていたからだ。昔ポアロに通っていた客が安室のことを懐古するのとはわけが違う。恵にとっても、個人的に口にすることが憚られる内容だった。
「すぐに思い出せないな、どこだっけ」
「……フレンチです。個人住宅を改築した、気取らない感じの」
「ああ、あそこか」
 安室の記憶は全て降谷に還元された。それでも、恵と恋人になり、安室とはできなかった思い出が増えていくだけ、安室の記憶は降谷の中で埋もれていく。記憶を手繰る降谷の問いに恵が言い淀みながらも答えると、すぐ思い出したような声が上がった。
 恵は未だ安室を引きずっていた。安室に恵の好意が伝わっていたとしても、バーボンや降谷がそれを知っていたとしても、言葉にしなかった後悔はずっと恵にのしかかっている。安室が言った一生ものの傷であった。
 恵は、バーボンと安室を忘れるつもりはない。ただそれは恵の心の中に留め置いておけばいい話だ。目の前にいる降谷を蔑ろにしていい理由にはならないと考えていた。だから恵は二人の話題を出さない。恵がちらとでも二人を気にする素振りを見せてしまえば、降谷は気を遣うに違いない。
 どうであれ、恵が他の人格に囚われていることに変わりはない。だが降谷はたいして気にしていなかった。恵は、降谷のことをきちんと好いている。たまに安室の影を降谷に探してしまうのは仕方のないことだ。むしろバーボンや安室の存在が恵と繋ぎ止める枷になるのであればそれも構わないとさえ思っていた。
「また行ってみようか、君が良ければ」
 降谷は恵の顔を覗き込む。慈愛に満ちた顔を見て、恵は戸惑いを露わにした。
「……いいんですか?」
「もちろん」
 恵の遠慮がちな反応を見て、降谷が宥めるような声を出す。
「安室だって僕の一部だ。人格については色々あったけど、僕はあいつらを疎ましく思ってはいないよ。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、思いつめないで。……まあ、安室やバーボンとの思い出は僕が実際に体験したわけじゃないから、多少、その……妬きはするが」
「は……」
 躊躇いながらも素直な気持ちを吐露されて、恵は言葉を失くした。降谷は恵の想像以上に直情的な面がある。安室は表情で語り、バーボンは行動で語るところがあった。降谷はそのどちらをも駆使し、さらには言葉まで加えて恵を攻めてくる。
 頬に熱が集中するのを感じながら、恵は耐えきれずに目を伏せた。夜景を背にしている幻想的な状況も相俟って、恋人のまぶしさに目が眩みそうだ。
「バーボンも安室も、全部僕のひと側面だよ。安室のように、君と共有したい物事がたくさんある。バーボンのように、君を手の届くところに置いて安心していたい気持ちだって」
 くすりと笑って降谷は恵の手を握る。顔の熱が一気に手のひらへ移動した気がした。
 降谷が距離を詰めた。恵は後退するが、背中に固い物が触れる。その正体を探り、降谷の愛車だと認識している間に、降谷と車に挟まれるような体勢になっていた。
 片手は指を絡め取ったまま、頬に手を添えられた。降谷の視線がどろりと恵に注がれる。
「れ、零さん……近い、です」
「嫌?」
「……ううん」
 嫌じゃないけど恥ずかしい。恵が正直に言ったところで、降谷は解放しはしないのだろう。楽しげに恵を追い詰めた降谷はゆっくりと恵に顔を寄せる。近づいてくる降谷の後ろには満点の星空が広がっている。
 触れ方は優しかったが、遠慮はまるでなかった。口内のやわらかいところを余さずなぞるような動きに体が痺れていく。降谷に与えられる熱が体に収まりきらないせいで、ひんやりとした車の冷たさが心地いい。押し付けられるまま、降谷の熱に浮かされた。降谷は囲い込むように恵を抱きすくめて離さない。どこにも逃がさないと言われているような気がした。互いの存在が、ひどく熱かった。
「僕の秘密について話せる人は君だけなんだよ。だから僕らの軌跡を一緒になぞっていこう。君が知る僕の話が聞きたい」
 呼吸を整える恵を愛おしそうに撫でて、降谷は思考を溶かすような吐息まじりに話す。
 降谷が何を言っているのか、恵はあまり理解できなくなっていた。降谷にキスをされた後はいつもそうだ。降谷も降谷で、恵が自分に乱され惚けている事実が愛おしいあまり、あえて話しかけるからいけない。
 甘えるように擦り寄ってくる降谷の体温に目を瞑る。また触れるような口付けが落とされた。会えなかった反動で降谷の我慢も効かないようだった。仕方ないと言いたげに恵は口許を緩ませる。
「ん……、れい、さん」
「……好きだよ。僕の隣を歩いてほしい……ずっと、ずっと傍にいて」
「私も、好きです。ずっと一緒にいさせて……」
 夜の海に星の瞬きが映り込んでいる。ひとつの、幸せの形だった。


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