05.ハチでもパトラッシュでもありません
 いつもと違う香りのする首筋。ブチャラティは、乾杯、とワイングラスを傾けながら、それとなく、聞いてみた。

「香水、変えたのか?」
「えっ」

 ユウリは一瞬、きょとん、として、しかしすぐに頬を赤らめ、うん、と小さく頷いた。少女が父親に向けるような、あどけない笑顔だった。

「ジョルノがね、誕生日にって、買ってくれたの」
「へえ」

 宝物をしまい込むように、におい立つ細い手首をさする。らしくない、と自分でもわかっているのか、ユウリは、甘酸っぱい気持ちごと、ワインを喉に流し込む。
 こんな青臭いこと、言いたくない。けれど言葉にしたくてたまらない。誕生日おめでとう、と、目いっぱいうかべたジョルノの笑顔を思い出すだけで、胸にあたたかい気持ちがわき上がってくる。

「ジョルノったら、私の知らないうちにバイトしていたみたい。私のこと、驚かそうとしたんだって」

 ブチャラティは黙ってそれを聞いていた。話の一部始終はジョルノから聞いて知っている。自分の愛した証が欲しいとジョルノは言った。そして彼女にも喜んで欲しいと。よかったじゃあないかとブチャラティはこの場に居ないジョルノに胸の中で囁いた。目の前にいるユウリはジョルノの匂いを染みつかせて微笑んでいる。

「ずっと子どもだと思っていたけど、いつの間にか大きくなっちゃって…」
「それだけお前も年を取ったってコトだろ」

 ブチャラティにしては珍しい、棘のあるその言葉に、ユウリは運ばれてきた前菜をフォークでつつきながら、アナタもね、とブチャラティを睨みつけた。と言っても、もちろん冗談まじりのものであるが。
 ブチャラティにしてみても、せっかくジョルノの監視下からユウリを連れ出せたというのに、肝心のユウリが眼前の自分をほったらかしで、愛犬のことばかりを嬉しそうに語るので、少しだけ意地悪をしてやりたくなったのだ。
 家に居る三匹の愛犬たちも連れてきたことのないような、グランドホテルのディナーに招待しているというのに、ユウリはブチャラティの淡い期待――もとい、滅多に見せたことのない下心――になどまるで気づきもしない。

(―――ったく。相変わらず、ジョルノのことしか考えてないんだな)
 四六時中ユウリのことばかり考えているジョルノもジョルノだが、やはり飼い主に似たのか、ユウリも同じようなものである。むかしはほんの少しでも、そこにブチャラティの入りこむ余地があったはずだが、今ではジョルノとユウリの二人の主従、その絆は揺らぐことのない盤石なものに思えた。

「まったくもう。この年になっても独身だなんて、学生の頃は思ってもなかったわ」

 ねえ?と見上げてくる彼女の瞳は、学生時代、ブチャラティが恋い焦がれたそれと何一つ変わっていない。唇や頬、それに目元はすこし、年相応の艶が身についたように思う。

「なんだ、焦っているのか?」テーブルに肘をつき、ワインを煽る。
「なによ、いけない?」
「いや、らしくないと思ってな」

 ユウリも同じように、ワインを口に含んだ。コクン、と喉を下ってゆく、赤く渋い、生命の水。
(いや、生命の水は、ウイスキーだったかな)
 いずれにせよ、この場ではどうでもよいことだ。ブチャラティは白い喉元から視線をずらし、ユウリの瞳を見据えた。
 ユウリはルージュに色取られた赤い唇を、きゅっと笑みの形に引き上げる。美しい、けれどそれはユウリが何か悪戯を思いついたときの顔だった。

「でも、私が嫁ぎ遅れたら、貴方が貰ってくれるんでしょう?」

―――ほらな。

「お前なあ。俺だってそのうち結婚するかもしれないだろ」
「そんなのダメよ。空けておいてよ、私のために」

 こんなノリもむかしから変わっていない。はいはい、と生返事を投げかけながら、ブチャラティは、フォークを握る細い指先に目をやった。指輪のない、白くしなやかな十本の指。それらで髪をすき、頬を撫ぜてもらえたら、と、みだらな欲望を、馳せる。

『僕はブチャラティが羨ましい。人間である貴方は、僕とちがって、ユウリと結婚することが許されているんですから』

 ユウリのプレゼント選びに付き合いながら、ジョルノはぽつりとこぼした。ブチャラティは、それを、そんなことはない、と一笑に付した。気休めではなく、本当に、そう思っていた。
(ジョルノ、俺はな―――)
 言いかけて、止めた。そのときは。言う必要がないと思った。






 ジョルノの香水とワインとで、いい具合に酔わされたユウリが、肩にしなだれかかってくる。

「大丈夫か?」
「ん…」

 覚束ない、けれどしっかりと目的の部屋へと向かう細い脚。
 レストランで、上階の部屋のキーを見せたとき、ユウリは微笑むだけで、少しの動揺も、迷いも見せていなかった。昔の男が、誕生日にとディナーに誘って来た時点で、ある程度の覚悟はしていたのだろう。ユウリは良い意味でも悪い意味でも、物わかりのよい大人の女なのだった。

「ブチャラティ…」赤く熟れた唇が、部屋に着く前にもキスを強請る。
 彼女の、時折見せる、この隙がいけない。どんな男でも彼女を拒むことなどできはしないだろう。ブチャラティは、誘うように息を転がす唇に、自身のそれを重ね、罪作りな舌を吸った。

 部屋に着き、ドアを閉めると、その口づけはより濃厚に、より激しいものになる。息を吸うひまさえ与えない、互いを支配し合うような、壊し合うような、口づけ。

「んっ…ん、…」

 熱い吐息をもらすユウリの手首を掴み上げ、くん、と鼻先をすり寄せる。甘いバニラの香り。ジョルノがユウリのために選んだ、主従の証。それが今では、黒髪の若きギャングの劣情を煽るだけのものでしかない。

「久しぶりね、こういうの…」と、荒く息を吐くユウリの、キャミソールを捲り上げる。きめ細やかな肌を手のひらで味わう。

「何年ぶりかしらね…ドキドキする」
「そうだな…」

―――俺はずっと、こうしたいと思っていた。
 そんな言葉を飲み込んで、ブチャラティは、握ったままの細い手首をそっとはなした。その手で、髪を撫でて、抱きしめて欲しい。いつも金髪の美少年にそうしているように。

「ブチャラティ…」

 顏の輪郭にそってさらりと流れるブチャラティの黒髪に、ユウリは手をのばした。
 その瞬間、ジョルノの香水がふわりと鼻孔に流れ込んできて、ユウリは思わず、手を止める。
『ユウリ。…早く、帰って来てくださいね』
 家を出るときの、不安そうなジョルノの顔が脳裏によぎる。今夜、ユウリが帰って来ないことを、どこか予感しているような、けれどまだユウリを信じていたいような、そんな、幼い表情。それはどこか怯えているようにも見えた。
『僕…待っていますから』
 耳と尻尾を萎えさせ、きゅうんと鼻を鳴らして、玄関先でユウリを見送ったジョルノ。彼は今も、自分を信じて待っているのだろうか。

「………」
「…ユウリ?」動きの止まったユウリの顔を覗き込む。

「…っあ、ご、ごめ…」

 顏を上げたユウリの目に浮かぶ、隠しきれない、戸惑い。熱に浮かされ、すっかりその気になっていた女の体が、ゆるやかに鎮火していくのがわかる。

「…ジョルノのことを考えていたのか?」
「………うん」

 ブチャラティと同じ色をした濃い睫毛が、申し訳なさそうに伏せられる。

「帰りたいか」

 恋人にするように、そっと頬に指をすべらせると、ユウリはひくっと体を強張らせた。言葉はなくとも、理解できる。それは行為の終わりを表している。

「ごめん…私、ジョルノが待ってると思うと、なんか…んっ」

 途中で、それは吐息に変わる。舌の交わらない、優しいキス。

「………ごめんね」
「いいさ。お前ら二人のワガママには慣れているからな」

 ぽんと頭を撫でてから、乱れた衣服を直してやる。その慣れた手つきを眺め下ろしながら、ユウリは、
「本音は?」と、試すように、呟いた。
 ブチャラティは、燃えるような欲望を静かな瞳に押し隠し、
「…今この場で、無理矢理にでも抱きたいと思ってる」
「私もよ」

 満足そうに微笑むユウリ。しかし結局のところ、二人はジョルノを裏切ることができない。薄紅色の頬をした、美しいブロンドの少年に、可笑しいくらいに心囚われている。
 ブチャラティは、名残惜しそうに、ユウリの額に口づけを落とした。

「送ってやる」

 そう言って、彼女の手に、丁寧に包装された小さな箱を握らせる。

「これくらいは受け取ってくれるだろ」
「…やだ、プレゼント?らしくないんじゃあないの」
 昔は女心なんてちっともわかっていなかったくせに。
「素直に受け取れ、バカ」

 冗談めかして額を小突く。キスできる距離で吐息を転ばせ、ユウリはプレゼントの包みを開けた。掛かっていたリボンは指に絡めて、緊縛するように。

「…素敵」

 誕生石のブレスレット。巧緻なつくりのそれは、華奢な手首によく映える。

「気に入ったか」
「ええ。つけてくれる?」

 青々とした血管の透けて見える、白い手首が差し出される。ジョルノの香りを纏ったそれを、ブチャラティは、指先でなぞるように、繊細な金具の部分を繋ぎ合わせる。できるだけ長く彼女にふれていたかった。

「…似合ってる」

 そう言うと、ユウリは嬉しそうな顔をした。「ありがとう」まるで子供のような表情で。

「帰ろう」

 大人ぶって、割り切ったふりをして、ブチャラティは、ジョルノと自分の『証』で飾られた手をとった。ジョルノの香りを染み込ませて、ユウリは「ジョルノに何か買って帰らなきゃ」と微笑んでいる。ブチャラティはそれを極めて冷静に聞いていた。淡い橙色の光の灯る天井を仰ぎ見ながら。
 天井の光に、金色の後ろ髪を思い浮かべる。

(―――ジョルノ、俺はな)

 お前は俺を羨ましいと言った。
 けれど俺は、お前が羨ましい。無条件でユウリの隣に居られるのだから。









 犯罪抑制に効果があるのだという、青い街灯。
 夜の街が等間隔に青く浮かび上がり、それはさながら海の底にいるようだ。

「ジョルノ?」

 ハッとしたようにユウリが言う。繋いでいた手が離れ、あっという間に彼女の熱が消え失せていく。見れば、マンションの前で、ジョルノが膝を抱えて小さくなっているのであった。
 聞き覚えのあるエンジン音に、萎えていた耳がぴくっと微かに動く。
「ユウリ」やがてジョルノは顔を上げ、見慣れた黒い車体を、硝子細工のようなブルーアイズに映すのだった。

「…遅すぎますよ」

 二人が車から降り、近づいてゆくと、ジョルノはユウリに抱きつき、言った。「今、何時だと思ってるんです?」

「…ごめん、ジョルノ」
「………」

 ジョルノは、今にも泣き出しそうな、弱々しい表情で、しがみついてくる。
 ジョルノは夜を一人で過ごすことを極端に怖がる。
 それは子どもの頃、母親の愛を十分に得られなかったことが原因だった。

「ずっと此処で待っていたの?」

 頭を撫でてやると、ジョルノは心地よさそうに目を瞑り、それからコクンと頷いた。

「寂しかったです」

 くうん、と鼻を鳴らし、尻尾をゆるゆると左右に動かす。
 もっと頭を撫でて欲しい。もっと強く抱きしめて欲しい。もっとずっと、そばにいて欲しい。それらの願いを、ユウリは容易く叶えてしまうのだろう。何よりも尊く、純粋で、そして誰よりもユウリを愛しているこの美しい忠犬に、自分はきっと一生勝てないのだろうと、ブチャラティは悟った。




2012.08.21
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