09
 露伴の家の玄関先で、ユウリは、中身のたっぷりと入ったジョウロを抱えて、夏の日差しに照らされた、灰色の地面を見つめていた。
 暑さのせいだろうか、意識が朦朧としてくる。私、なにをしようとしていたんだっけ。
(………)
 ぽた、と汗が地面にしみをつくり、そこでようやく、はっとする。
(お水…。お水、あげなきゃ)
 この家の玄関先には、ユウリがやって来た当初から放置されているプランターがある。そこにはゼラニウムが植えられていたが、露伴が面倒を見なかったせいか枯れかけていた。
 しかし、物のついでにとユウリがまめに水やりをするようになってからは、見事に息を吹き返し、今では赤、白、ピンクと多様に玄関先を彩っているのだった。

 水をやり終え、額に滲んだ汗をふく。いつものくせで、つい、眼鏡をずらそうとして、
―――あ…
 指先になにも当たらないことに、違和感を覚える。今までは、そこに“ある”ことが当たり前だったのに。

 コンタクトに替えても、眼鏡をかけていたときと、視力はさほど変わっていない。それなのに、どうしてだろう、視界が依然よりも、不鮮明になった気がする。視界を覆うすべてのものが、刺々しく感じる。それにズキズキと胸も痛む。泣いてしまいたいくらい。

『―――興味ないね』

(………ッ)
 あれから数日経つが、あのときからずっと、露伴の言葉が、薔薇の棘のように、胸に突き刺さったまま痛み続けている。辛かった。どうして自分はこうなのだろう。勇気を出して眼鏡を外したのに、どうして、うまくいかないんだろう。露伴のことが、好きだ。露伴に嫌われたくない。あんなふうに冷たくされると、胸が張り裂けそうになる。

「はぁ…」

 すっかり軽くなったジョウロを胸に抱き、ユウリはとぼとぼと室内に戻った。
 時刻は、もうすぐ正午。そろそろ露伴が昼食を要求してくるころだ。
 文句を言われる前に、さっさと準備しよう、と、冷蔵庫を開ける。ぱっと見まわせば、焼きそばの材料が揃っていたので、昼食は焼きそばに決定した。


 野菜と麺にソースを加えて炒めれば、ジュージューと香ばしい匂いが漂ってくる。それを嗅ぎつけてか、ちょうど呼びに行こうとしたタイミングで露伴が現れた。露伴の顔を見た瞬間、胸を苛む棘の痛みが増した気がした。

「ろ、露伴先生。なにか飲みますか?お茶でいいですか?」
「ああ」

 露伴は、いつも通りだ。いつも通り、素っ気ない。ユウリだけがドギマギと意識しているのだ。
 運ばれてきた焼きそばを、何も言わず、露伴は、ちゅるっとすすった。厚ぼったい唇が油を帯びていやらしく光る。
 何を考えているのか、まったくわからないその唇がおもむろに、向かいに座ったユウリに、
「なあ」
 と、突然話しかけたので、ユウリは驚きのあまり、手にしていた箸をぽろ、と落とした。

「な、なんですか」

 床に落ちた箸を拾う。彼の前で『三秒ルール』なんて言う勇気はない。
 露伴は箸を皿に置き、顎に手を当てて、素顔のままのユウリをじっと見つめた。目を逸らしたくなるのを、ユウリは必死にこらえる。

「キミ、明日の予定は」
「明日?明日は、図書館に本を返しに行く予定ですが」

 ユウリの頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。なぜ露伴はそんなことを聞くのだろう。
 露伴はどこかほっとしたような表情で、けれど次の瞬間には、いつもの顰め面に戻し、

「そんなのは予定と言わない」皿に盛られた人参を箸でもてあそぶ。「明日、朝九時にうちに来い。遅れるなよ」

「そっ、それって…」 デート!?
「お前まさか、デートだなんて思っているんじゃあないだろうな」

 心が読まれたのかと、ひやっとする。おまけに図星すぎて、反応が遅れた。露伴は、ハァー、とわざとらしくため息を吐き、「付いて来て欲しい場所がある」と、人参を頬張りながら、言った。

「ただの取材だ。断じてデートなんかじゃあない」
「…そ、そう、そうですよね…」

 担当者なら漫画家の取材に付き合うのは当然だろ、と、もっともらしいことを主張され、ユウリは気づけば首を縦に振っていた。



 翌朝、岸辺邸へ続く歩道に、必死の形相で全力疾走するユウリの姿があった。時刻は九時五分前。遅刻する!露伴先生に怒られる!――ユウリの目にはそれに対する怯えが見て取れた。

 肩で息をしながら、岸辺邸の玄関に駆け込んだとき、家の中の、アンティークの壁掛け時計が、ちょうど九時を知らせる音楽を奏でた。おそらく誰もが知っているであろう、ヘンデルの、メサイア。ハレルヤ。ギリギリセーフだ。

「遅いッ!遅刻するなとあれほど言っただろ!!」
「す、すみません…」

 どうやら露伴の中に『ギリギリセーフ』なんて言葉は存在しないらしい。黒か白か。全てか無か。それも露伴先生らしいとユウリは勝手に納得した。

 露伴はすでに準備万端で、相変わらずヘソの出た服を着て、「行くぞ」とユウリをガレージに導いた。
 所有者の露伴よりも、おそらく仗助の方がよく利用しているであろう、生成り色を基調とした、清潔感のあるガレージ。
 ずりずりとシャッターを上げ、姿を現したガンメタルのセダン車に、ユウリはごく、と喉を鳴らす。露伴が面倒くさそうにユウリを横目で見る。その、何か言いたげな視線に、ユウリはまさか、と言葉を転がした。

「…もしかして、私が運転するんですか?」

「ハッ」露伴が鼻で笑った。

「キミにこの車が運転できるのかよ?」

 …絶対に無理だ。
 ユウリはちらっと露伴の車に視線を落とし、改めて、無理だ、と思った。ペーパードライバーの自分に、この左ハンドルの外車を運転できるはずがない。
「まったく」露伴はバカにしたように肩をすくめ、運転席に乗り込んでいく。置いていかれる。ユウリも慌てて車に乗り込んだ。



「露伴先生、ところで、どこに行くんですか?」

 車を走らせて十分ほど経ったころ、ユウリは昨日からずっと気になっていたことを訊ねた。

「キミはそんなことを気にしなくてもいい」

 そう言って露伴は、ぐいん、と大きくハンドルを切った。
 そうですか、と独り言のようにこぼし、ユウリは、景色を眺めようと外に目を向けた。
 が、緊張のあまり、流れていく景色を楽しむ余裕などまったくない。
 車内という狭い空間に露伴と二人きり。取材、と銘打っているがユウリにとっては立派なデートだ。意識せずにはいられない。先ほどから、ちらちらと嫌でも視界に入ってくる、ギアを入れ替える武骨な手つきに胸が高鳴る。
 細い手首に、骨ばった手の甲。そこからすう、とのびる長い指。見ているだけで、ドキドキする。それに、彫刻のように整った横顔に、重たげにしばたく長いまつ毛。
 露伴の趣味だろうか、車内は甘ったるい香りが充満していて、酔わされてしまいそうになる。

 このままではいけない。色々な意味でダメになってしまう。
 気を紛らわそうと、改めて窓の向こうに視線をずらす。車はS市内にまでやって来ているようだった。
 S市内の大型デパートや、ショッピングモールのある大通り。そこに面した駐車場に車をとめ、露伴は「こっちだ」と顎をしゃくった。
 言われるがまま露伴のあとに付いて行く。休日ということもあり、街はめかしこんだ若者で溢れていた。
 まぶしいばかりの生脚を曝して街を闊歩する、若い女性たち。お洒落なだけでなく、髪なんかもゴージャスな巻き髪で、それこそ爪の先まで気を抜いていない。
 対して自分は、こんなときでもいつもと変わらない、色気もへったくれもないTシャツとジーンズ。まるで近所のスーパーに買い物でも行くような格好だ。なんとかしたい、という気持ちもあるが、それ以上に、どんな服を着たらいいのか、まるでわからないのだ。

 露伴の奇抜な服装と美貌は嫌でも人の目を引き付ける。それがやがて自分に向けられるのが、ユウリはたまらなく嫌だった。
 こんな自分が露伴の隣を歩いていてもいいのだろうか?ユウリは押し寄せる羞恥心に耐えられず、俯いた。
 しかし、急に立ち止まった露伴の背に額をぶつけ、ぶっ、と変な声を上げて、露伴の方を見上げた。

「す、すいません、露伴先生…」
「ったく、ボーッとしているんじゃあない。ついたぞ」
「えっ?」

 露伴の視線の先には、ファッションに疎いユウリでも知っている、有名ブランドのロゴマーク。まさか、ここで?当然のように湧き出る疑問。露伴は一体、ここで何を取材するつもりなのだろう。ここですか?とユウリが聞き返すより早く、露伴は店内に進んで行った。

―――お…置いていかないでくださいッ!!

 勢いに任せて、露伴の後を追うが、店内に一歩踏み込んだ瞬間、ユウリは激しく後悔した。

――ば………

(場違いすぎる――)

 美術品のように丁寧に、ショーケースに入れられたバッグや財布。黒や茶といった、落ち着いた色合いで統一された清楚な店内。そこには差し色としてゴールドが使われており、高級店ならではの優雅さが見事に醸し出されている。
 それらを背景に、ぱりっとしたスーツを着こなした、上品な販売員たちが、こちらに向けて挨拶をしてくる。

(ひ…ひええええ…)

 ユウリはそれだけで身の縮こまる思いだった。露伴はともかく、こんな適当な恰好で、どこからどう見ても、この店に金を落とさないであろう自分にも、店員たちは深々と頭を下げてくる。あああ、そんなに頭を下げないでください!そう叫びたいが、そんなことをしたら露伴もろとも追い出されかねない。ユウリは逃げ出したくなるのをぐっとこらえ、ふんふんとショーケースを眺める露伴のあとを涙目で追いかけるのだった。




2012.08.03
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