01.勝手にいなくならないでください
 時が加速し、廻り廻った世界のひとつ―――
 戦争のない、平和な時代に彼らはいた。

 その世界でも、当たり前のように人は人を好きになり、水は植物や大地を潤し、音楽は誰の心をも癒す。どんな時代でも、変わらないことはある。

 時は二十一世紀。変わらぬイタリアの街並み。ユウリは、そんな、朝焼けに染まる美しい街を窓から眺めながら―――、

「ふぁぁ〜…」

 ―――大あくびをしていた。

「んんーっ…」

 寝起きで乱れた髪をカシカシとかき上げる。
 侘び寂を重んじる、東洋の小さな島国で生まれ育ったくせに、すこしも情趣を楽しもうとしないユウリ。
 しかし、無理もない。彼女は昨夜遅くまで仕事に勤しんでいた。今日は昼まで寝通す予定だったのだ。

 そんな彼女の予定をぶち壊したのは、

「さんぽ!」
「はいはい」
「さんぽ!」

 とうるさい彼女の愛犬、ジョルノだ。

「ああ〜、はいはい、今、準備するから…」

 起き抜けでいまいちテンションの上がらないユウリに、ジョルノは、む、と頬をふくらます。

 といっても、これはありふれた比喩表現などではなく、実際に彼女の『愛犬』は、『頬をふくらませて』、「さんぽ」、と、言っているのだ。

「昨日、さんぽ連れってくれるって、言ったじゃあないですか!」

 と、瞳を潤ませる彼は紛れもなく純血種のゴールデン・レトリバー。その犬種に見られる、可愛らしい垂れ耳が、先ほどからぴこぴこと小さくゆれ動いている。また、ふさふさの金の毛たば、贅沢な箒のような尻尾も、同じリズムを刻んでいる。

 しかし、それ以外、彼に犬らしい部分は見当たらない。天使のような金の巻き毛、それと同じ色をした垂れ耳と尻尾。その部位以外は、彼はまぎれもなく、人間の少年の姿をしていた。言語も人間と全く同じ。

 この世界における『犬』の概念は、今までの世界のものとは少し、勝手が違う。

 まず生まれたときから子犬時代までは、ちゃんと四足歩行の犬の姿をしている。
 けれど成犬になるにつれて、犬種によってさまざまだが、ほとんどの場合は耳と尻尾を残して、人間と同じ姿になっていく。今のジョルノと同じように。

 犬は人間の最大のパートナー。それは、いつの時代も変わらない。この世界では、おそらくより長い時間を人間とすごせるように、犬の進化の過程で、このような結果に辿りついたのだと思われる。現に、この世界での彼ら犬たちの寿命は、人間とほぼ同じだ。

「ユウリ、早く着替えてください。早く」
「わかったってば」

 彼の名前は、ジョルノ。ジョルノ・ジョバァーナ。くわしい説明は割愛するが、とりあえず、ジョルノの名付け親はユウリである。子犬のとき、ペットショップから脱走し、車にはねられ、瀕死の怪我を追っていたところを、ユウリに救われたのだ。

 子犬のころから染みついた、主と従の関係。それは容易に崩れることはなく、ジョルノは成犬となった今でも、ユウリを絶対の君主として慕っている。



「…あー、まぶし」

 朝の陽ざしが目に刺さる。現代人らしい不規則な生活に慣れているユウリには、この朝の空気は健全すぎて、なんだか眩暈さえしてくるようだ。

 普段は、そんな彼女のタイムスケジュールに合わせて、昼と夜、二度の散歩で我慢していたジョルノだが、近ごろあまりに彼女の帰りが遅いので、耐えきれずに喚き散らしたところ、今度ちゃんと朝昼晩三回散歩つれてくからゆるしてえ、と、今日の約束を取り付けたのだった。

(くそ…昼まで寝る予定だったのに…)

 眠たい目をこすりながら――、けれど、隣を歩くジョルノがあまりに嬉しそうだから、ユウリは、まあいいか、と目を細めた。

「こんな時間にユウリと出掛けるなんて、久しぶりですね!」
「そうだね。全然連れてってあげられなくて、ごめんね」

 遊びたい盛りだろうに、ジョルノには、仕事の都合とはいえ無理をさせていた。ごめんね、と謝れば、いいんですよ、と手を握ってくる。従順で、主人思いで、優しい少年。

「ユウリの帰りを待っているの、僕、嫌いじゃあありませんから」

 首筋に、すり、と鼻先を押し付けられる。これはジョルノの、撫でて、という意思表示。立ち止まり、ジョルノに向き合うと、ユウリはクス、と笑って、子犬を掻きなでるように、ジョルノの頭に手をすべらせた。

 ジョルノは、くすぐったそうに目を閉じる。よしよし、と微笑むユウリの温かい手のひら。
 ジョルノにとって、ユウリは主人であり、恋人であり、母親でもある。彼女とともに過ごす時間は、ジョルノにとって何にも代えがたい至福のときだった。




 いつもの散歩ルートとは少し外れた場所を歩く。ジョルノは、べったりとユウリにくっついたまま。とても歩きづらいが、子犬のころからジョルノはこうだった。もういい加減慣れもする。

 小さな公園に差し掛かったとき、ふとジョルノとユウリの目の前を、一匹の蝶が横切った。ジョルノは、途端に目を奪われる。
 ユウリは別段気にする様子もなく、路傍に停まった移動式ジェラテリーアを眺めていた。

「ジョルノ。ジェラート食べる?」
「食べたいです」

 ジョルノは甘いものが好きだ。特に、チョコレートとプリン。ジェラートにも目がない。

「チョコ味ね。買って来てあげる」

 ちょっと待ってて、とユウリは店先に駆けていく。
 …しかし、ジョルノはというと、先ほどから、眼前をひらひらと飛びまわる紋白蝶に釘づけだ。
 気づけば蝶を追いかけ、ジョルノは、ユウリからどんどん遠ざかっていく。ユウリはそれに気づかない。

「―――ジョルノ?」

 チョコレート味と、ブルーベリーヨーグルト味のジェラートをそれぞれ両手に持ち、ユウリが先ほどの場所に戻ると、ジョルノの姿はもう、そこにはなかった。

「ジョルノ!」

 辺りを見回して、名前を呼んでみても、ジョルノの姿はどこにも見当たらない。

(まさか、誘拐されたんじゃ…)

 背筋がぞっとする。ジョルノは顔立ちも体躯も何もかもが整いすぎている。それゆえに変な輩にも狙われやすい。知らない人には付いて行かないようにと言い聞かせてあるが、それでも僅かな不安が残る。

(ど、どうしよう…!!)

「ジョ…ジョルノ、ジョルノー!」

 たまたま、近くを散歩していた幼い兄妹に、「これあげる!」と半泣きでジェラートを押し付け、ユウリは走り出した。

「ジョルノ、…ジョルノ〜」

 どうしようどうしようどうしよう。ジョルノがいない!!
 公園内から、近所の家々、果ては近くのオフィス街まで、探しに出たが、ジョルノはやはり、どこにもいない。交番にも行ってみたが、誰もそんな犬は見ていないという。


「もう…ジョルノ、どこに行ったのよ…」

 気づけば、履き慣れたパンプスで靴擦れを起こすほど、歩き回っていた。先日の疲れも相まって、もう、くたくただった。

「あッ!」

 アスファルトの出っ張りに気づかず、ユウリは転倒した。膝と手のひらを擦りむいたらしく、ところどころ、血がにじんでいる。
 ひりひりとした痛みと、その、あまりの情けなさに、ユウリの目にうっすらと涙が浮かぶ。
 そんなときだった。



「…やっと見つけた」

 ユウリの視界に映る、見覚えのある黒いショートブーツ。いつかの誕生日、ジョルノに贈ったジョージ・コックス。

「ジョルノ!!」
「転んだんですか?もう、キズだらけじゃあないですか」

 ユウリの脇に手を差し入れ、ぐい、と無理やり立たせてやる。ユウリの手を取ると、ジョルノは、その擦り傷をべろりと舐めた。

「痛ッ!!」
「大丈夫ですよ。これくらい、舐めとけば治ります」
「そうじゃあなくてッ、もう、しみるんだってば〜!!」

 泣きそうになりながら抵抗するが、ジョルノはユウリから離れようとしない。

「これに懲りたら、もう、勝手にいなくならないでください」

 手のひらを唇に寄せたまま、ジョルノは、心底溺れきっているような目で、言う。

 …何かが違う、と思ったが、今さら口には出せないユウリだった。




2012.05.27
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