06 太陽がゆっくりと西へ傾き、頬を撫でる風が冷たくなり始める。 湖畔はとても静かで、安らかだ。 都会の喧騒も、決して嫌いではない。けれどこうして穏やかな時間を過ごすのも悪くないと、ユウリは思った。 まだ日は明るいが、もう間もなく夕暮れ時だ。これから昼と夜が入れ替わる。ユウリは膝の上で静かに寝息を立てる、美しい少年の肩を揺すった。 「ジョルノ、起きて」 「ん………」 小さく身じろぎして、ジョルノは吐息交じりに声を漏らした。少年はまどろみの中に何を見るのだろう。ジョルノ、ともう一度肩を叩くと、エメラルドのような双眸が緩やかにひらかれた。 「…おはようございます」 「おはよう」 下から見上げてくる少年は、穏やかに微笑んでいる。 「僕はどれくらい眠っていたんですか」問いかけながら、気怠そうに起き上がり、ユウリの体を抱きしめる。白い首筋に顔をすり寄せて、ちゅっと遊ぶように口付ける。寝起きのジョルノの身体は子どもみたいに熱かった。 「…40分くらいかな…」 ユウリは答えながら、身をよじる。ジョルノの吐息が首やデコルテに当たって、くすぐったい。 「よく眠れました。ありがとう」 「それは良かった。……んっ」 吐息が耳を刺激して、ユウリは身体を小さく震わせた。そんなユウリを心底愛おしそうに見つめて、ジョルノは確かめるように言う。 「良いものですね。目が覚めた時にあなたがいるって」 真っ直ぐに言われて、ユウリは言葉に詰まった。 自分は一体この少年に、何をしてやれるというのか。彼の気持ちに、一体どう応えてやれるというのか―――。 少年の体を母親のように優しく抱きしめ返し、その背中をポンポンと叩いて、ユウリは言った。 「…そろそろ行かないと。店をオープンさせなくちゃ」 「そうですね…」 お互い、社会の裏で生きる人間だ。ジョルノは名残惜しそうに腕を解くと、立ち上がった。ユウリに手を差し伸べて、さあ、と促すように微笑む。ユウリはその手を取って腰を上げた。 ジョルノは一瞬、キョトンとして、すぐに表情を崩した。感動しているようだった。 「…やっと手を繋げた。嬉しいです。この手を離したくないな」 そんなことを真剣にジョルノが言うので、つい笑ってしまった。 「ねえユウリ。帰る前に行きたい場所があります」 ジョルノは車に乗りこむと、そう言った。 仕事の時間まで、まだ少し余裕がある。いいよと頷くと、ジョルノは嬉しそうに車を発進させた。 夕焼けに変わろうとしている太陽の光はイエローサファイアのように暖かで、歴史あるイタリアの街並みを柔らかく照らしている。 ジョルノが向かったのは森林公園の先、小高い丘にある古びた教会だった。この場所からは、まるで箱庭のようなネアポリスの街を一望できる。 ジョルノは教会の扉を開けると、戸惑ったような表情のユウリを導いた。ごく自然に手を握って、身廊を歩く。 小さな白い石造りの教会は、内装も至ってシンプルだった。7列ほどの参列席、ゴシック様式の祭壇。天井は高く、古いながらも壮麗な雰囲気だ。 正面上と両サイドには黄色をベースにしたステンドグラスが嵌め込まれ、自然光を取り入れて教会内をまばゆく飾り立てている。 手を繋いだまま中央通路を進み、主祭壇の前に辿り着く。 ステンドグラスから溢れる光に手をかざしながら、ユウリは言った。 「ジョルノは神様を信じてるの」 「まさか」 ジョルノは振り返ると、「ただ」とユウリの頬に片手を添えた。 「…ただ、神の前で誓いたくなっただけです」 あなたへの愛を―――。 真正面から言われ、ユウリは言葉を失った。明らかに、いつもの調子の口説き方ではない。ジョルノはいつだって本気だったが、今の真剣さはその比ではないのだ。 ジョルノのグリーンアイズは陽の光を受けてオリーブのように変化している。縋るような子どもの目とも、この街を支配するギャングスターの鋭利な目とも違う。場所のせいだろうか、今の彼には、まるで深い森の大樹のような荘厳さがあった。 「ユウリ。あなたを愛しています。…僕は年下で、頼りないかもしれないけど………、あなたにも、僕を好きになって欲しい」 繋いでいた手を離し、ジョルノは両手でユウリの頬を優しく挟んだ。キスでもするみたいにじっくりと、愛しい女を見つめる。 ああやっぱり、綺麗なひとだ。夜の海みたいに綺麗で怖くて優しくて、何もかも包み込んでくれる、寛大なひと。欲しくて欲しくてたまらなかった。同じことを二度言うのは無駄だと思っていたけれど、ユウリへの愛は何度囁いても足りなかった。 「…ジョルノ」 10センチほど背の高い少年をじっと見上げて、ユウリは静かに口をひらいた。 「ジョルノ。私ね、こう見えても意思は固い方なの」 「……………」 「仕事もプライベートも、妥協したことはないわ。やると決めたことは必ず達成してきたし、自分で決めたルールを破ったこともない…」 ああ―――。 振られるんだ。ジョルノは反射的に身構えて、目を伏せた。 「ビジネスで知り合った人とは寝ないと決めてるの。客でもキャストでも、どんなに口説かれても必ず断ってたわ。付け入る隙なんてまず見せなかった」 でもね、と優しく頬を撫でられ、ジョルノは顔を上げた。穏やかに微笑むユウリと目が合った。女神とも聖母とも遜色のない、慈悲深い微笑みだった。 「ジョルノ。あなたも感じているでしょう。私、あなたと一緒にいると、すごく中途半端な人間になってしまうの。口では倫理観がどうとか真人間みたいなことを言ってるくせに、いつもジョルノを拒絶しきれなくて、半端なことばかり」 ユウリは続ける。こんなことは初めてだと。 「これがどういうことだか、わかる?」 「…わかりません」 ユウリはひと呼吸置いて、言った。 「あなたに恋をしているんだと思う」 少年の心臓が大きく鼓動する。頬に添えられた手のひらはしっとりと柔らかく、あたたかい。心から望んでいたはずなのに、恋という、わかりやすい言葉を理解するのに時間が掛かった。ジョルノは胸に沁み込んでゆくその言葉を噛み締めて、思わず泣きそうになるのをぐっとこらえた。 「…ありがとう、ユウリ。すごく、嬉しいです」 「ちょっと、もしかして泣いてるの?」 「泣いてません! ていうか、そう思っても言わないでくださいよ」 「あはは。ごめんごめん」 厚く張った涙の膜を見られたくなくて、ジョルノはぷいと顔を逸らした。 「…意地悪な人だ」 「でも好きなんでしょう」 「………はい」 ジョルノは袖口のボタンを引き千切ると、ユウリの左手に乗せた。そっと薬指のあたりに当てがう。ユウリはそれを不思議そうに見つめた。 次の瞬間、金のボタンはしゅるしゅると音を立てて植物に変化した。蔦が薬指に巻きついて、宝石みたいに花を咲かせる。小さな白い花。ユウリは少女のような表情で驚いている。 「えっ…! 何これ!」 「ふふ。僕は魔法使いなんです」 「すごい…。綺麗な花…」 「ユウリが望むなら、ここを一面の花畑にしてあげますよ」 冗談だと信じたいが、ジョルノならやりかねない。 ジョルノはユウリの左手を取ると、薬指に咲いた花に口づけをして言う。 「いつかあなたに本物をあげる。だから僕と結婚してください」 結婚。はじめて会った日に言われた言葉だ。 「ジョルノ、15歳じゃあ結婚はできないでしょ」 「…それなら、僕が16になったらまた言います」 正論で返され、ジョルノはすこし恥ずかしそうに唇を尖らせた。それを誤魔化すように、ユウリからゆっくりと二歩ほど離れて、「結婚はまだ無理でも、僕の恋人になってくれますか」と、祈るように右手を伸ばす。 あらためてそんなことを聞かれるとは思わず、ユウリは少し戸惑う。 それを迷いと取ったのか、ジョルノは煽るように、そしてどこか悲しげに言った。 「良いんですか? 今、この手を取らなかったら、きっと一生後悔しますよ」 「………生意気言うわね、童貞のくせに」 「それもいずれあなたにあげますよ」 そう言って、少年はからかうように微笑む。 「もう…」ユウリは手を伸ばそうとして、ハッとする。 ステンドグラスから注ぐ黄金の光を一身に浴びたジョルノはあまりにも眩く、神々しい。 ユウリは悟る。いつか彼を天使のようだと形容したが、それは間違いだと。 ―――この地上に於いて、この少年こそが神なのだ。 神に抗うことなど、はじめから不可能だったのだ。 「…好きよ、ジョルノ」 そう言って、少年の繊細な手に自分の手のひらを重ねた。なめらかで瑞々しい肌。ささくれひとつない美しい指先。ジョルノはユウリの手を握り返すと、そのまま強く腕を引いた。バランスを崩して、ユウリはジョルノの胸に倒れこむ。 愛しい女の身体を掻き抱いて、ジョルノは歓喜に身を震わせた。 「やっとつかまえた。…もう離さない」 「…お手柔らかに」 「僕はあなたを大切にします。…ねえユウリ、僕たちはもう恋人ですよね。キスしてもいいですか」 至って真面目にそんなことを聞いてくるので、ユウリの口から思わず笑みがこぼれた。ジョルノには、散々つれない態度を取ってきた。たまには甘やかしてやるのもいいだろう。 ユウリは返事をせずに、背伸びをしてジョルノに口付けた。唇の表面をやさしく押しつけるだけの、軽いキスだ。 「え…!」 ジョルノは顔を真っ赤にして自分の唇を手のひらで押さえた。下から見上げてくるユウリは悪戯っぽく笑っていて、それがまた目眩がするほど可愛い。ジョルノは耳まで血の色を浮かべて、震える唇で言った。 「なん…ですか、今の…」 「キスよ。したかったんでしょう」 「すごくしたかった。…そうじゃなくて! 不意打ちなんてズルいです! 僕からキスしたかったのに!」 猛烈な勢いでそう言われ、ユウリは微笑んだまま「どうぞ」と目を瞑った。ジョルノの動きがぴたりと止まる。 「…本当に、しますからね」 「ふふ。どうぞ?」 ジョルノは持ち得る恋心と衝動、欲望のありったけを、その口付けに込めた。触れるだけの拙いキスだったけれど、震えるような喜びで身も心も満たされてゆく。幸福だった。 神のような少年を腕に抱きながら、ユウリは沈みゆく太陽の輝きをその身に感じた。 太陽と月、昼と夜とが交差する曖昧な時間。 けれど、もう間もなく夜になる。ふたりが生きる夜。ふたり、出会った夜だ。 2019.05.21 完 |